本丸不明門
 八丁味噌アイスを平らげたところで、本丸裏口になる不明門(あかずのもん)から出ます。
 この門にある塀は、忍び返しの剣塀になっています。
 怖いですね〜

忍び返しの剣塀

御深井丸から塩蔵構への虎口
 不明門から出たところは、御深井丸(おふけまる)です。
 築城当時には煙硝蔵をはじめとする武器関係の倉庫がありました。
 江戸時代後期には、隠居した殿様の隠居所になったりしたみたいですが。(笑)
 

名古屋城水堀

天守の礎石
 御深井丸には、天守再建の際に移された礎石が置かれていました。
 火災の激しさを物語るように真っ赤に焼け、熱でヒビが入ったままになっていました。

御深井丸から見上げる天守

天守台石垣
 天守台の石垣は、熊本城で有名な加藤清正が築きました。
 いわゆる「清正流」と呼ばれた美しい石垣です。
 天守台の一部に、通路を塞いだような跡があります。
 築城途中に設計が変更になった跡だと言われています。
(小天守をもう一つ作る計画があったようです。)

通路を塞いだような痕跡
(赤で囲んだ部分)

清洲櫓
 御深井丸の西北隅には、三重の清洲櫓が現存しています。
 清洲櫓の小天守を移築したものと言われています(名前の由来)
 建材が転用されている形跡があるので、資材は流用されている可能性が高いそうです。

うーむ立派だ・・・
 御深井丸から見る天守は、まさに圧巻の一言です。
 これがかつては木造だったんですから・・・
 しかも江戸城や徳川大坂城には、これより大きな天守があったんですから・・・

天守から小天守への渡り通路
 御深井丸から西の丸に戻ってきました。
御深井丸と西の丸間の堀

西南隅櫓
 再び西南隅櫓を見上げます。
 この櫓は濃尾大地震(1891年)によって石垣ごと崩壊しますが、宮内庁によって修復されています。

西南隅櫓

本丸馬出の堀
 本丸大手門前にあった馬出は、馬車の通行の妨げになるので埋め立てられましたが、東半分の堀が残っています。
 この堀を越えると二の丸に入ります。

本丸東南櫓(現存)
 本丸東南櫓も現存する建物の一つです。
 かつては多聞櫓が接続していて、本丸は鉄壁の守りを誇っていました。

本丸東南櫓

本丸東門跡
(建物は二の丸東二の門を移築したもの)
 名古屋城の本丸には初代藩主義直がしばらく住んでいましたが、将軍が京都へ上洛する際の宿舎となり、義直は二の丸に御殿を建てて引っ越しました。
 江戸時代を通じて二の丸御殿が「御城」と呼ばれ、藩主の居所、尾張藩の政治・行政の中心となりました。
 一方本丸は将軍専用の宿舎として閉め切られ、管理・維持の役人が見回るだけとなりました。

二の丸埋門跡
 藩主が住んだ二の丸の東北隅には埋門(うずみもん)が隠されていました。
 落城時、藩主はこの門から空堀の底に逃れ、当時湿地帯だった御深井(今の名城公園一帯)を通り、遠く木曽まで落ち延び落ち延びる計画だったのです。

この堀の底を歩きます

南蛮たたき土塀跡
 二の丸北側には、南蛮たたき土塀の跡が残っています。
 土塀に開いた穴は、かつての鉄砲狭間です。
 二の丸の北には、お堀を挟んで名城公園が広がっています。

名城公園

二の丸東北隅櫓跡
 二の丸の中央には、藩主以下が住んだ御殿や、庭園が広がっていました。
 あと、織田信長が生まれた那古野城は、このあたりにあったと伝えられています。

二の丸庭園

二の丸東門
 二の丸の東の端にある東門までやって来ました。
 いま本丸東門の位置に移築されている門は、本来この位置にあった建物です。
 この門も高麗門と櫓門の組み合わせによる枡形門でした。

枡形内にある雁木積

東門北側の空堀
 東門の前は旧三の丸です。
 東門の正面には、名古屋看護助産学校や、国立病院機構名古屋医療センターがあります。

東門南側の空堀

東門を外側から見る
 二の丸には、明治時代に陸軍の名古屋鎮台が置かれたため、
遺構はほとんど残っていません。
 二の丸の南半分(かつて馬場があった)には、愛知県体育館が建てられています。

二の丸大手門
 体育館の脇をえっちらおっちら歩きます。
  名古屋城の二の丸はかなり大きく、かつての偉容が伝わります。

二の丸大手二の門
 二の丸西側には二の丸大手門がありました。
 一の門である櫓門は失われていますが、二の門が現存しています。

二の丸大手二の門

二の丸空堀
 さて、名古屋城を駆け足で見終わったあたりでお腹が空いてきました。
 移動しながら食べるところを探します。
 清水門跡から三の丸を抜け、さらに南へ走ります。

味噌煮込みうどん
 懐がちと寂しかったので、昭和郵便局でお金をおろしてみました。
 郵便局の裏側に「味噌煮込みうどん」の看板を見つけたので、
食べてみることにします。
 ・・・まあこんなもんでしょうか?(笑)
 なんかもう一つパンチが足りないような気がします。
チェーン店だったから?(^^;

熱田大社
 お腹も一杯になったところで、すぐ近くにある名古屋市博物館へ。
 ちょうどこの時、「金城温古録」の特別展が開催されていたので、寄ってみたのです。
 この「金城温古録」は尾張藩士であった奥村得義が、藩命により名古屋城の詳細調査と古記録の編集を行ったものです。
 得義は10年以上にわたって城内や古文書を調査しました。
 城内の建物の詳細なスケッチや、建物の大きさ、果ては狭間の数までを詳細に記録しています。
 その記録を18年かけてまとめ(前編にあたる4編31巻)、15代藩主茂徳に献上しました。
 その後、得義の養子であるが編集を続け、詳細は省きますが明治35年に全巻が完成しています。
 これは大変貴重な資料でして、当時の名古屋城内で使われた諸道具や地面の様子、果ては作法や慣習までが詳細に記録されているのです。
 こういう資料がどうして紀州藩にはなかったんでしょうか・・・orz
 大いに堪能させていただきました〜
 博物館を後にしたれんと。次は熱田大社に向かいます。
 道中、余りの流れの良さに大高まで行ったしまったのはご愛敬(笑)
 なんとか16:00頃に熱田大社にたどり着きました。
 熱田大社と言えば桶狭間の折、清洲城を出発した織田信長が社前で勢揃いをしたところ。そう思うと感慨深い場所でございます〜

きよめ餅
 ・・・が、すぐ食い物につられるのが悪いところ(笑)
 通りを挟んだ向かい側に老舗っぽいお店を発見。
 さっそく立ち寄ってみます。
 きよめ餅なるおまんじゅうを購入。
 中はこしあんで、もっちりした食感でした。
 熱田神宮名物らしいですよ〜
一度食べてみては?

こんなのです

清洲櫓
 この時点で、名古屋城の清洲櫓を見忘れていたことを思い出しました。
 西の空には厚い雨雲がわいていましたが、次に名古屋にくるのはいつの事やら(笑)
 熱田神宮から名古屋城に舞い戻り、清洲櫓を城外から撮影しました。

清洲櫓

東海道
 その後、何を思ったか国道1号線を西へ走りだしました。
 国道1号線は細い上に交通量が多く、なかなかはかどりません。
 とっぷり日も暮れた頃、桑名に到着しました。
 ここは東海道の宿場町。
 熱田を出た船は、海上七里の行程を経てここに到着しました。
 俗に言う「七里の渡し」です。


熱田からの船はここに到着しました。

桑名城三の丸堀
 この交通の要所には桑名城が築かれました。
 築城者は徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝です。
 忠勝は関ヶ原合戦後、桑名で10万石を与えられ、築城を開始しました。
 4重6階の天守をはじめ、51基の櫓、46基の多聞が並ぶ壮大なお城でした。
 船着き場も整備され、七里の渡しの発着場となりました。
 本多家は次の忠政の時に姫路に転封。
 後には徳川家康の異父弟、松平(久松)定勝が11万石で入りますが、次の定行の時に伊予松山へ転封。
 別家を立てていた定行の弟定綱が11万3千石で入りますが、三代目の定重の時、城下は大火にあって天守も焼け落ちてしまい、以後再建されませんでした。
 定重の後、一時松平(奥平)家が入りますが、再び松平(久松)家が入って明治維新を迎えています。
 幕末の藩主である松平定敬は、会津若松藩主松平容保の実弟であり、
明治維新では函館まで転戦しています。
 興味のある方はググってみて〜(長くなるから、ね?(笑))

蟠龍櫓
(内部は水門管理所)
 桑名藩は明治維新の際に幕府側についたため、桑名城は開城に際して焼き払われてしまいました。
 また四日市港建設の際の資材として石垣が利用されたため、城内にはほとんど遺跡が残っていません。
 三の丸の石垣と堀がかつてをしのばせています。
 また国土交通省が水門管理所を建てる際に蟠龍櫓跡が用地に選ばれたことから、
外観のみ復元されています。
 さて帰ろうか〜と思ったら雨が降り出しましたよ・・・
 一瞬止んだ隙にココイチでカレー(ココイチも名古屋発祥でしたね)をかき込み、
再び走り出しました。
 みえ朝日から高速へ。
 新名神をひた走り、22:00過ぎに無事帰宅しました。
帰りはちょっと寒かったですねえ〜まあ長袖Tシャツしか着てなかったからね・・・
名古屋城訪問記 完
2009.3.9 作成
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