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![]() 延岡城北大手門 (復元) |
翌朝はとてもいい天気でした。 気分もうきうきです。 ビジネスホテルの朝食(500円)を食べましたが、これがおいしかったんですよ〜 別に奇をてらったものが出た訳じゃないんですが、熱いものは熱く(目玉焼き)出てきたので、ちょっと感動しました。 ビジネスホテルの朝食は、作り置きが多いので結構冷めてることが多いもので・・・ 7:30に宿を出発。延岡城を見物に出かけます。 標識に従って走っていると、行き止まりになりました。 城門が私をお出迎えです。 |
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![]() 三の丸石垣 |
ここで延岡城&延岡藩の歴史を少々・・・ 大友氏の家臣であった高橋元種は、秀吉の九州征伐の際に縣(今の延岡)に5万石を与えられました。 脱線しますが、この高橋元種の養父は高橋鑑種で、大友氏の重臣でした。 大友義鎮(宗麟)と不和があったらしく、毛利氏の調略にのって大友氏に謀反を起こします。 その後、毛利氏は尼子氏との戦に集中するために九州から撤退したため、後ろ盾をなくした鑑種は大友氏に降伏、高橋家の家督を奪われます。 この後、大友義鎮(宗麟)は、家臣の吉弘鎮種に高橋家の名を継ぐことを命じます。 ここに高橋紹運【立花宗茂の実父】が誕生したわけです。 家督を奪われた鑑種は、秋月種実の子である元種を養子にもらい、 秋月家の援助で家を復興しようとしましたが亡くなってます。 で、話を元に戻すと、元種は関ヶ原の合戦後の1601年、この地に縣城(延岡城)を築いて居城としました。 ところが1613年には高橋元種は改易の憂き目にあいます。 その理由が・・・ 石見津和野城主、坂崎直盛の寵童(ホモ・・・相手ですね。まあ当時は当たり前で、織田信長と森蘭丸なんかも有名ですが)が、直盛の甥(浮田左門)と浮気します。 直盛怒って家臣に寵童を斬らせる→左門怒って寵童を切った家臣を斬り、妹婿の元種のところへ逃げる→直盛は幕府に訴える→罪人をかくまった事不届きにつき元種改易 って感じでして・・・汗 改易の理由には大久保長安事件の連座という説もありはっきりしませんが、 とにかく高橋元種は改易。 有馬直純(キリシタン大名で有名な有馬晴信の子)が5万3千石で縣に入り、 二代目康純の時に縣城は完成し、縣城から延岡城に改名します。 (延岡の名前の由来) 有馬家は孫の清純の時に一揆発生の責任を問われて転封。 その後に三浦明敬が2万3千石で入り、以後延岡は日本最南端の譜代大名藩となります。 一揆の後処理などを終えた三浦明敬は三河刈谷に転封し、その後に牧野成央が8万石で入ります。 牧野家は、次代の貞通の時に常陸笠間へ転封し、 その後には内藤政樹が7万石で入り、以後延岡藩は内藤家が続いて明治維新を迎えています。 |
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![]() 二の丸石垣 |
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![]() 千人殺しの石垣 (本丸石垣) |
城門をくぐると、目の前に巨大な石垣がそびえ立ち、目を奪われます。 これが有名な「千人殺しの石垣」です。 石垣の上は本丸になります。 |
![]() すごい勾配・・・ |
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![]() 千人殺しの解説 |
千人殺しの名前の由来は、石垣の礎石を一つ外せばすべての石垣が崩れ落ち、千人の敵を一度に殺せるという言い伝えからです。 実際は一つ外すくらいでは、すべての石垣が崩れるってことはないと思いますが・・・ |
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![]() 延岡城の解説 |
普通の人は二の丸から本丸へ登るんですが、私はあえて左折して三の丸へ。 三の丸はうっそうとした木立に囲まれて薄暗い感じでした。 |
![]() 三の丸 |
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![]() 三階櫓台跡 |
三の丸から天守台を巻くように坂を登ると、本丸東側の腰曲輪に出ます。 ここにはかつて天守代用の三層三階の櫓がありましたが、1683年の火災で焼失し、以後再建されませんでした。 |
![]() 礎石 (柱穴があります) |
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![]() 天守台の解説板 |
帯曲輪からさらに山を巻くように登っていくと、天守台と呼ばれる曲輪に着きます。 ここが延岡城の最高地点になります。 ここには天守があった、太鼓櫓があったという説がありますが、はっきりしていません。 江戸時代中期には建物はなかったようです。 現在は鐘楼があり、日に6度刻を知らせています。 詩人若山牧水もその様子を歌に詠んでます。 |
![]() 天守台虎口跡 |
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![]() 天守台からの眺め |
天守台からの眺めは最高でした。 今の延岡は旭化成の企業城下町です(^^; 天守台を西側に下ると、本丸にでます。 |
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![]() 二重櫓門跡 (本丸側から) |
本丸大手には、二階櫓門と呼ばれる櫓門がありました。 門の礎石や周辺の石垣が現存しており、往時の面影をよく残しています。 |
![]() 門外から |
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![]() 二重櫓門跡 |
二重櫓門跡を過ぎると、二の丸上段に出ます。 二の丸上段は、二の丸を包むように尾根筋に伸びています。 上段の先には二階櫓がありました。 |
![]() 二の丸上段から本丸大手を見る |
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![]() 二の丸へと降りる石段 |
二の丸上段から長い石段を降りたところが二の丸になります。 この地点が延岡城で一番高い石垣になり、20メートル以上の高さがあります。 |
![]() 二の丸から本丸石垣を見る |
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![]() 二の丸井戸跡 |
二の丸には井戸や櫓台状の石垣が残されていました。 かつては御殿があったのでしょう。 |
![]() 二の丸から本丸を見る |
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![]() 二の丸下は民家 |
現在は二の丸のすぐ下にまで民家が迫っています。 かつてはこのあたりも城内でした。 |
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![]() 内藤記念館入り口 |
二の丸上段から続く尾根の先の小山には、西の丸がありました。 ここまでがかつての城域になります。 |
![]() 西の丸から城山を見る |
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西の丸には、現在内藤記念館が建てられています。 なんと入場無料で、延岡や内藤家に関する資料を見ることが出来ます。 この時は延岡出身の歌人、若山牧水の特設展をやってました。 詩とか歌はよくわからんのですが、せっかくなので見ていきます。 若山牧水という人は旅の歌人であったらしく、よくぷいっといなくなっては長期旅行をしていたそうです。 お気に入りは沼津の千本松原であったそうで、後に沼津に移住したりしています。 また、酒飲みであったそうで、一日一升飲んでたそうであります。 ・・・誰かみたいだ(笑) ぜひあやかりたいものですなあ。 |
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![]() 延岡城絵図 |
常設展の方には、延岡城に関する資料が何点か展示されていました。 左は延岡城絵図です。 五箇瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、陸続きの西側を堀で遮断した延岡城の縄張りがよく分かる絵図です。 右は延岡城の模型です。 城内の目立った建物は、三階櫓と2階櫓、二重櫓門しかないことがよく分かります。 |
![]() 延岡城模型 (北側から) |
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![]() 延岡城南大手 |
延岡城見物も終わったので、延岡を出発して高鍋城めざして南に向かって走り出します。 ここで同じく九州をツーリング中の友達どんちゃんが、メールで通潤橋の放水時間を聞いてきました。 こりゃ寄るんだろうなあ〜って事でUターン。 延岡から高千穂へ向かいます。 |
![]() 延岡城模型 (南側から) |
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![]() 通潤橋 |
高千穂へはR218号を快走。 高千穂からもR218号を快走・・・のはずが、行く手をトレーラーに阻まれてイライラ走行です。 11:30通潤橋着。12:00からの放水&友達の到着を待ちます・・・ が、友達どんちゃんからは、まだ高千穂とのメールが入りました・・・ (´・ω・`) 一人で放水を見に行きます・・・ |
![]() いつ見ても石垣フェチを萌えさせます(笑) |
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![]() 放水開始〜 |
観光バスも何台か到着し、一気に賑やかになったところで放水開始〜 えらい勢いで水が放物線を描きます。 しぶきが飛んできて心地いいです。 「いやっほ〜」 と叫びたくなる景色に大満足です。 放水が終わったので出発。 R218号を西へ向かい、松橋ICから高速に乗ります。 18:00に志布志で待ち合わせしてましたからね〜 距離を稼ぎますよ〜 山江SAで遅い昼ご飯(軽くラーメン)食べてメールチェック。 私が通潤橋出た15分後に、友達どんちゃんが通潤橋に来たみたい・・・ 別に友達は悪くないんですが、軽く (#^ω^)凸 となります。(笑) |
![]() いやっほ〜 |
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![]() どどどどど〜 |
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![]() 人吉城 |
高速使ったおかげで時間を稼げたので、人吉に立ち寄ります。 人吉をはじめとする球磨地方は米どころで、米焼酎で有名なところです。 |
![]() 人吉城 |
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![]() 今回の二品 |
行きつけのお店で品選び・・・ で、選んだのが左の二品。 豊永酒造のスタンダード 「豊永蔵」 と、 同酒造の 「全麹 豊永蔵 完囲い」 です。 豊永酒造は農家と契約して有機自然米を栽培し、焼酎造りに使っているところでして、以前勧められておいしかったので、機会があれば飲んでます。 関西ではなかなか見かけないので、地元で購入です。(^^ さて、お買い物も済んだので、橋の上から人吉城を見てループ橋へ。 えびのから小林へは下道で走り、小林から都城へは高速使用。 都城からは県道を使って志布志へとショートカット。 ぴたり17:00には志布志の定宿に入りました〜 |
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![]() 鹿児島の海の幸 |
18:00にお友達syunさんが迎えに来てくれまして、近くの居酒屋へ飲みに出かけました。 鹿児島はおいしいものが多いので大好きですが、 今回の主役は豚足。 「コラーゲンたっぷりで、お肌もちもちになりますよ〜」 「あはは〜(ほんとかな〜)」 てなやりとりがあったのですが、本人は半信半疑でした。 2,3日後、お肌がもっちりしているのに気がつきました。 「うお〜こりゃすごい!!」 豚足、恐るべきデス。 半信半疑だった私を許してください・・・ さて、話は弾みまして、地元の焼酎「若潮 黄麹」もおいしゅうございました。 旅の疲れも出て参りまして、あくびが出だしたところでお開きとなりました。 syunさん、いつもありがとうございます。(^ω^) こんどは是非関西にもお越しください。 |
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![]() 豚足です。 お肌もちもち〜 |
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![]() 都城市街 |
翌朝、無料朝食に目がくらみ、出発したのは7:15分でした。 これが後々響きます。 志布志から県道で北上。都城志布志道路を快走して宮崎県へ。 都城市街手前で国道10号線に合流。都城ICからは高速を利用。 清武JCTからは東九州自動車道を北上します。 |
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![]() 高城跡 |
西都からは県道を行きます。 途中、軽自動車が白バイの餌食になっているのに出くわし肝を冷やしますが、 自身はなんとか捕まらずに北上します。 木城で高城跡をみました。 ここはかの有名な「耳川の戦い(高城川の戦い)」 の舞台になったところです。 島津氏に圧迫された伊東氏は、大友氏に応援を要請。 これを受けた大友宗麟が3万(4万とも)の大軍を率いて日向に出陣します。 高城には島津方の山田有信がいましたが、大友勢はこれを取り囲み兵糧攻めにします。 ここで高城後詰めの島津勢との間に戦いの幕が切って落とされました。 当初、兵力の少ない島津勢が押されて北郷久盛が戦死していますが、 島津勢はがんばって戦線を支えます。 戦況が膠着したところで島津以久が東から、高城守備兵が西から横槍を入れたことにより、大友勢は敗北し、陸路豊後へと脱出をはかります。 島津勢の追撃を受けた大友勢は、数日来の雨で増水した耳川に追い詰められ、多数の水死者・戦死者を出します。 (このため耳川の戦いと呼ばれる) 耳川の戦いと呼ばれていますが、本当はここ高城付近が主戦場だったのです。 この戦いで大友氏は多数の重臣や有力武将を戦死させました。 これにより家臣団の分裂や豪族の離反を招いたため、大友氏は急速に弱体化し、島津勢に本拠地である府内(大分)・臼杵まで攻め込まれ、 宗麟自らが豊臣秀吉の援助を求める事態を招きます。 一方の島津氏はこの戦いで大友氏をライバルの座から蹴落とし、 九州統一へ大きく前進します。 |
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![]() 臼杵港 |
木城からさらに北上し、都農からは国道10号線を走ります。 佐伯からは開通したばかりの佐伯ICから高速を走り、津久見からは再び国道217号線で臼杵港を目指します。 臼杵港に着いた私の目に飛び込んできた光景は、まさに今離岸しようとしているフェリーの姿でした・・・ orz 志布志で朝ご飯・・・ でも食べたかったんだもん、 ぷんぷん! |
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![]() 八幡浜港 |
12:00のフェリーに乗船し、15:00前に八幡浜へ。 お友達のなずなさんが松山にいるというので、寄り道していくことにしました。 16:00に松山市駅前で待ち合わせて合流。 初めてお会いしたのですが、想像通りの品のいい、気の強そうなはっきりした方でした。 なずなさんの方は、もっと華奢な細面がやってくると思ってたみたいで、びっくりしてました。 次はバックに薔薇を背負って登場します、と言っときました。(笑) ケーキセットごちになりました。ありがとうございました〜(^^ |
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![]() 徳島ラーメン |
さて、フェリーに遅れた上に寄り道したので遅くなりました。 途中、なずなさんを乗せた高速バスに抜かれる(どんだけ遅いんだ、私は・・・)などありましたが、 21:30に徳島市内へ。 行きがけの駄賃とばかりに徳島ラーメンを食べて徳島港へ。 22:00発のフェリーに乗船してお誕生日ツーリングはおしまいです。 |
![]() 南海フェリー (岸壁で釣りしてたおじさんが怒られてた) |
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![]() 延岡城マップ |
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れんとの誕生日 完 | |||
2008.11.9作成 | |||
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