雨の大垣城
 翌朝は天気予報通りの雨。
 普段ならゆううつ〜に出発するのですが、この日は妙にハイ(笑)
 なぜか鼻歌気分で名古屋の宿を出発しました。
 国道22号線を北上し、岐阜県に入ったところで国道21号線へ。
 雨の国道をのんびりと走って大垣市へ。
 ここ大垣市には大垣城があるのです(^^

大垣城
 ではここからはお話タイム〜
 退屈な方は読み飛ばしてくださいね(笑)
 ここ大垣は岐阜と近江(滋賀県)を結ぶ交通の要衝で、早くから城が築かれていたようです。(中山道も通っています)
 織田・豊臣政権下では、その重鎮が歴代城主を務めています。
 豊臣家の家臣であった伊藤盛正は関ヶ原の時に西軍について改易されています。
(関ヶ原合戦下の大垣城については「おあむ物語」が有名)
 その後、徳川家譜代の家臣が短期間で入れ替わっていますが、1635年に戸田氏鉄が10万石で大垣城に入り、以後戸田家で明治維新を迎えています。
 この戸田氏鉄という人は関ヶ原合戦にも参加しており、島原の乱にも松平信綱(知恵伊豆)と共に大将として参加しています。
 この氏鉄時代に大垣城は完成をみました。

戸田氏鉄銅像

大垣城縄張り図
 大垣城は典型的な平城(平地に作られた城)で、堀にその守りを依存しており、
幾重にも堀を巡らせる縄張り(設計)でした。
 平城は平地に作られているために都市化の波に飲まれやすく、
大垣城もいまや本丸を残すのみで、かつての偉容を想像するのは難しくなっています。

本丸図
 かつて大垣城本丸への入り口は、二の丸からの橋1本のみでした。
 この橋は廊下橋(屋根壁付きの橋)になっていて、その先に「鉄門」がありました。
 今は石垣の崩壊も激しく、昔を偲ぶことは難しいです。

鉄門跡

大垣城天守
 本丸の中にはもう一段高くなった場所があり、多聞で囲んで防御を固めていました。
 その北西隅には4重4階の天守がそびえています。
 残念ながら空襲で焼失しており、現在は鉄筋コンクリートでの外観復元となっています。
 この天守はとても珍しい4重4階建てでして、「四は死に通じる」ことからあまり例がない建て方なのです。

大垣城本丸丑寅櫓
(丑寅=北東)
 大垣城では天守の他に、丑寅櫓と戌亥櫓が鉄筋コンクリートで復元されています。
 あと、門も建てられていますが、大垣城の本丸には鉄門以外の門はなかったので、ただの「城郭風建築」なので注意が必要です。

大垣城本丸戌亥櫓
(戌亥=北西)

水手門跡
 ただし、本丸には鉄門以外にもう一つ「水手門」がありました。
 この門には橋などは架けられておらず、船で本丸に出入りするための門でした。
 おそらく落城時の脱出想定ルートだったのでしょう。

かつての街道
 さて、大垣から帰宅しようかとも考えたのですが、ちょっと茶目っ気がでました。
 大垣からはほど近い、関ヶ原を見に行くことにしたのです。
 関ヶ原と言えば説明の必要ないですよね?
(^^)
 大垣から旧街道を西へ向かいます。

かつての街道跡
(松並木が美しい・・・)

関ヶ原古戦場石碑
 中山道垂井宿を過ぎたらそこは関ヶ原。
 慶長5年9月15日(1600年10月21日)、東軍西軍併せて17万余りの兵力がここで激突した場所です。
 

現在の関ヶ原

石田三成陣跡
 まずは西軍布陣の北端、笹尾山前に陣取った石田三成の陣跡を見に行きました。
 西軍を実質率いた(一応総大将は毛利輝元ってことになってた)石田三成。
 ここからどんな思いで東軍の軍勢を見ていたのでしょうか・・・

石田三成陣跡から東を見る
(左の山は桃配山(多分))

島津義弘陣跡
 石田三成の南隣には島津義弘が布陣していました。
 島津軍は、その勇猛さが明・朝鮮軍にも知れ渡っていました。
 しかしこの時の兵力はわずか1500ほど。
しかも理由には諸説ありますが、積極的に参戦しませんでした。
 島津勢が動いたのは勝負がついてから。
 戦場から撤退するのに後退ではなく前進を選び、勝ち誇る東軍のまっただ中に突入を開始します。
 勝ちが決まってから死ぬのは嫌なもの(恩賞がもらえなくなる)。
勝った方はあまり深追いはしません。
 この目論見は成功するかに見えますが、井伊直政、松平忠吉(家康4男)、本多忠勝らが追撃を開始します。
 本多忠勝は馬を撃たれ落馬。井伊直政、松平忠吉は負傷(井伊直政はこの時の傷が元で翌年死亡)するほど島津勢は奮戦しますが、多勢に無勢。
 島津豊久(義弘の甥。日向佐土原城主)や阿多盛淳(長寿院盛淳)、肝付兼護ら大将級が次々と討たれます。
 最後は80人ほどになったと言われていますが、義弘は脱出に成功しました。

小西行長陣跡から東を見る
 島津隊の南には小西行長(肥後八代城主)が陣を張っていました。
 小西隊は6000人ほどの軍勢でした。
 小西行長は堺の薬商人の息子だと言われています。
 その出身からか強力な水軍を持っていたようで、朝鮮の役では活躍しました。
 加藤清正とは領地が隣同士だったせいか特に仲が悪かったようです。
 キリシタンであった行長は、関ヶ原の合戦後に切腹を拒否して斬首され、
関ヶ原の首謀者として石田三成、安国寺恵瓊らとさらし首になりました。

暗い道をたどると・・・
 小西隊の南には備前岡山城主(57万4千石)、宇喜多秀家が陣を張っていました。
 秀家の軍勢は1万7千で西軍の主力でした。
 秀家は5大老の一人で、秀吉の猶子でもあったために豊臣一門の意識が非常に高く、戦意は高かったのです。
 しかし小早川秀秋(同じ豊臣一門であった)の裏切りに会って敗北します。
 「秀秋の首を取る」を言い張る秀家を家臣が押さえ、落ち延びさせたと伝わっています。
 秀家は戦後薩摩に潜伏。その後は八丈島に流され83歳まで生きました。時に将軍家綱の頃でした。

宇喜多秀家陣跡

東海道本線をまたぎます。
 ここでJR東海の東海道本線をまたぎます。
 国道21号線を越えると中山道が通っています。

中山道

名神高速
 大谷吉継の陣を探していたら、名神高速に出ました。
 陸橋の下をくぐると、目の前には松尾山がありました。
 ここは小早川秀秋(筑前名島城主)が陣を置いた場所です。
 小早川勢は1万5千。開戦前には東軍に付くことを決めていたようです。
 秀秋は関ヶ原の功により備前岡山50万石を与えられますが、わずか2年後に21歳で死去。
 子はおらず、改易(領地没収)となりました。

松尾山

脇坂安治陣跡
 松尾山のふもとには脇坂安治(淡路洲本城主)陣跡が。
 脇坂安治は賤ヶ岳七本槍の一人として勇名をはせました。
 豊臣時代は洲本城主として水軍を統括していたようで、朝鮮の役にも出陣しています。
 関ヶ原では当初西軍に付きますが、小早川と共に途中で寝返っています。
 ただ、戦前から東軍に通じていたようで、戦後伊予大洲5万3千石に加増転封されてます。
 脇坂家はこの後、安治>安元と継いで堀田正盛(幕府老中)の次男(脇坂安政)を養子に迎え、外様から譜代大名に変わりました。
 この安政の時に播州龍野に転封になり、以後明治維新まで脇坂家は
「龍野の殿様」
として慕われました。

不破の関近く
 再び名神高速をくぐり、不破の関跡にでます。
 ここには関の藤川と呼ばれる川が流れていました。
 この川の上流右岸に大谷吉継は陣を置いて小早川秀秋に備えたのです。
 ただ、私は見つけられませんでした〜
(^^;

関の藤川

福島正則陣跡
 関の藤川から東にしばらく走ったところに福島正則(尾張清洲城主)の陣跡がありました。
 今は春日神社になっています。
 福島正則も賤ヶ岳七本槍の一人であり、勇猛で知られ、は黒田長政らとともに東軍の主力として戦いました。
 戦後、安芸広島49万石に加増転封になりました。が、その後の運命はご承知の通りです・・・

天照寺
 関ヶ原を後にして南下を始めました。
 雨が降っているので地図を見ることができないのがつらいです。
 で、変な感じで堤防沿いの道を走り続けましたが、うまく国道258号線に出ることが出来ました〜
(^^
 なぜこのルートかって?
 以前どこかで薩摩藩士が木曽三川(揖斐・長良・木曽)の堤防工事を行い、多数の死傷者を出したって記録を読んだもので、その記念碑とも言うべき
「千本松原」をぜひ見たいと思ってのことです。
 国道258号線を南下中、「薩摩義士の墓」なる看板を見つけ、
お寺さんに寄ってみました。
 名前は天照寺と言いまして、神社とお寺が一緒になったような感じでした。

三義士の墓
 「宝暦治水」とは、江戸幕府が外様の大藩である薩摩藩の弱体化を狙って命じた大工事でした。
 当時すでに66万両もの借金があった薩摩藩内では、「一戦交えるべき」など強硬論が出ましたが、財政担当家老の平田靱負は強硬論を押さえて工事を請け負います。
 しかしこの工事は難航しました。ただでさえ難しい工事であったにもかかわらず、幕府の役人が破壊工作(!)を行ったり、付近の住民を協力させないなどの妨害を行ったためです。
 その妨害のひどさは、監視の幕府役人の中からも抗議の切腹を行った者が2名出ていることからも分かります。
 結局、薩摩藩士からは51名が抗議のためなどで自害して果てることになります。
 さらに栄養状態も良くなかった事から、33名が赤痢によって死亡するなど悲劇は続きました。
 1年がかりの工事が終了した後、大幅な予算オーバーの責任を取って平田靱負も自害し、故郷に戻ることはありませんでした。
 故郷を遠く離れた異郷の地で亡くなった薩摩藩士の無念やいかに。
 芋焼酎をお供えしてきました。

治水神社
 この工事で亡くなった薩摩藩士を弔おうと、昭和13年に平田靱負を祭神として治水神社が建てられ、工事で亡くなった薩摩藩士85名が祭られています。

千本松原
 この工事の際、九州から取り寄せた日向松が堤防に植えられました。
 これがかの有名な
「千本松原」
です。

千本松原

揖斐川の流れ
 松原の北端には治水神社、南端には顕彰碑があります。
 難工事に思いをはせながら川の流れを眺めるのもいいものですよ。


 この雨中のツーリングの代償は結構高く付きました。
 デジカメ壊れちゃったんです・・・
 これで三代続いて水難で逝ってしまいました・・・
 いい加減防水デジカメ買えばいいんですが、そうはならなかったのは次回
「れんとの誕生日」
に書いた通りです(笑)
東海地方城巡り 完
2009.2.23作成
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