岸和田城本丸
 今月中はおうちでおとなしくしているしているつもりだった私。
 しかし、今日は本当に暖かい春の日差し
 こんな日に出かけないなんて・・・ってなわけで、
お昼ご飯をすませてから出かけてみました。(^^;
 行き先は岸和田城。
あまりに近すぎてずっとスルーしていたお城です。
 2009年のツーリングは(も?)お城巡りでその幕を開けました(笑)
 往路はあえて紀州街道を、てなわけで雄の山峠を越えて大阪府に入ります。
 途中、街道の風景を撮ろうって思ったら・・・ 

 「OH!JESUS!」

 デジカメにSDカード入れてくるの忘れました・・・
 今回のツーレポは携帯の写真でお送りします。ご了承ください・・・

本丸大手門
(復興)
 この日は泉州マラソンだかなんだかの開催で、道路は若干渋滞気味でしたが、
割とあっけなく岸和田城に到着。
 市役所の前にバイクを停めて、見物に向かいます。
 ちなみに市役所はかつての岸和田城二の曲輪跡に建てられております。
 二の曲輪から土橋を渡って二の丸へ。
 本丸への唯一のルートとなる本丸大手門をくぐって本丸へ向かいます。
 ちなみに現在の岸和田城内に建っている建物は、すべて鉄筋コンクリートによるもので、
外観復元ですらなく、あくまでも「城郭風建築」です。

岸和田城模擬天守
 毎度お約束の岸和田城の歴史を・・・
 岸和田城の築城についてははっきりしたことは分かっていません。
 建武の新政のころ(1330年代)に、楠正成の一族である和田氏が、当時「岸」と呼ばれたこの地に築城して本拠地としたため、「岸の和田」→「岸和田」という地名になったと言われていますが、裏付けとなる資料はありません。
 様々な資料から、和泉国の守護代であった松浦守(まもる)が16世紀初め頃に築いたもののようです。
 当時の泉州南部(貝塚あたりまで)は根来寺の勢力圈内であり、岸和田城は紀州勢を押さえる防衛拠点として築かれたようです。
 松浦氏は和泉守護細川常元三好長慶織田信長と仕える相手を変えつつ、紀州勢の押さえとしての役割を果たしていたようです。

天守からの眺め
(和泉山脈方面)

天守からの眺め
(明石大橋方面)

天守からの眺め
(大阪市方面)

八陣の庭と天守
 岸和田城はその後も紀州に対する押さえの役割を果たします。
 小牧・長久手の戦の際、秀吉が尾張に出陣した隙をついて根来・雑賀の軍勢が攻め寄せますが、岸和田城にあった中村一氏と和泉の国人衆がこれを撃退しています。
 その翌年、秀吉は岸和田城から出陣し、貝塚市あたりにあった根来・雑賀の出城群を攻め落とし、根来寺を焼き、さらに太田城を水攻めにして落城させ、和泉・紀伊を平定しました。
 その後、岸和田城には小出秀政(秀吉の叔父)が入り、5重の天守を建てるなど城の整備に努めます。
 この時に近世城郭としての岸和田城の原型が出来たと言われています。
 小出氏は関ヶ原の合戦後も領地を安堵されます。
 しかし大坂夏の陣では大坂方に包囲され、岸和田城は再び戦場となります。
 この時は和歌山城主であった浅野長晟の軍勢が援護のため北上、
樫井
(泉佐野市)で大坂方と激突し、夏の陣の緒戦となりました。
 江戸時代初期には城主が頻繁に入れ替わってますが、1631年に岡部宣勝が6万石で入り、以後13代明治維新まで続きます。
 ちなみにこの岡部氏時代に三の丸にあった稲荷社へ領民の参拝を許したのが、
かの有名な「だんじり祭り」の起源とされています。

犬走りへの石段
(立ち入り禁止です)
 一説によれば、岡部宣勝がこの地に入ったのは、なにかと不穏な噂の多かった徳川頼宣(紀州徳川家初代)を監視するためだと言われています。
(岡部宣勝は、3代将軍家光の信頼が厚かったのです)
 確かに岸和田藩主には、紀州藩主の国入りを報告する義務がありました 。
(江戸城内で岡部宣勝徳川頼宣との間で交わされたやりとりも伝わってます。)
 しかし主な任務は大坂城(城代が置かれていた)警護であったという説もあります。
 尼崎藩主と交互に参勤交代を努めていたこと(必ず国元にどちらかが残っていた)や、
大塩平八郎の乱の時は、岸和田藩から大坂城守備の兵が派遣されたなどがその理由に挙げられています。

本丸大手門
 
 岸和田城に話を戻します。
 二の丸から土橋を渡り、本丸大手門をくぐると道は二手に分かれていました。
 本丸内には付櫓を伴った5重の天守が建てられていました。
 この天守は非常に大きく、岡山城天守よりやや小さい規模のものでした。
 しかし1827年落雷により焼失し、再建はされませんでした。
 二の丸に3重の伏見櫓があったため、天守の代用にされていたようです。 

岸和田城縄張り図
 本丸入り口には、岸和田城の縄張り図がありました。
 城の西側は海になっていました。
 海岸には江戸時代に石垣が築かれて守りを固めていました。
 戦国時代、岸和田城が誕生した頃は、今の二の丸が本丸であったようです。
 二の丸南側にあぶみ堀と呼ばれる三日月形の堀が残っていますが、これがその頃の馬出(城の入り口に作られ、防御力を上げる)の痕跡だと言われています。

百間堀と二の丸
(奥に天守が見えてます)

百間堀と二の丸石垣
 二の丸全面には百間堀と呼ばれる岸和田城最大の堀があります。
 お堀端を歩きます。
 二の丸北西隅には伏見城から移築されたと言われる伏見櫓(3重)がありました。

伏見櫓台

道しるべ
 岸和田城町曲輪(今の本町あたり)には、江戸時代に成立した紀州街道が通っていました。
 江戸時代中期以降の紀州藩の参勤交代に使われた街道です。
 

こなから坂
(だんじりで有名)

紀州街道
 岸和田市内の紀州街道沿いは、昔の面影がよく残っています。
紀州街道

祭り最中
 最中を食べてみました。
 あんこと皮が別々になっていて、自分で組み立てるようになっていました。
 これだといつでもぱりぱりの最中をいただけますが、あんこで手がべとついて・・・
(^^;

  街道沿いには旧家が

たこじぞう
 本町から600メートル先には、「たこじぞう」で有名な浄土宗天性寺があります。
 この天性寺の縁起(お寺の由来)がとても面白いお話なんです(^^;
 時は戦国時代、岸和田城に紀州勢が攻めかかりました。
 落城の瀬戸際に立たされたその時、海から自らは大ダコに乗り、無数のタコを引き連れた白法師が現れ、紀州勢を退却させました。
 その白法師は地蔵尊の化身と噂され、地蔵尊は「たこじぞう」と呼ばれて大切にされたという・・・
 

山門
 近くを走る南海電鉄の駅名にもなってます。(普通電車のみ停車)
 ちなみに岸和田城の最寄り駅は岸和田駅(特急停車駅)ではなく、蛸地蔵です。

由来

本堂
(浄土宗天性寺)
 空も曇ってきました。
 私もおうちに帰ることにします。
 2009年も楽しいツーリングがたくさんできるといいなあ・・・

紀州街道は和歌山の京橋へと続きます
岸和田城見物 完
2009.2.19 作成
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