亀山本町交差点
 さて、この日は夜に予定があったので、神戸城で折り返し運転に入ることにしました。
 しかしせっかくここまで来たのだから〜てな訳で、
亀山城に寄っていく事にしました。
 鈴鹿サーキットから少し迷走したあと、旧東海道に入りました。
 亀山は東海道の宿場町でしたから、あとは街道をたどっていけばいいわけです。
 道も旧街道の雰囲気が出てきましたよ〜

街道のクランク
 東海道は、亀山城の大手門前で左折します。
 昔の旅人は、亀山城の大手門を見ながら旅した訳です。
 で、かつての高札場(昔の官報掲示板ですね)を右手に見ながら走ると、
 旧街道ではよく見かけるクランク状の道路を発見しました。
 道沿いには雰囲気のあるおうちがちらほら・・・

雰囲気ありますね。

池の側
(かつての亀山城の堀)
 街道を進んでいくと、右手に池が見えます。
 これは亀山城の堀だったところです。
 で、その堀の向こうに亀山城多聞櫓がそびえていました。
 お城が視覚効果も狙って建てられていることがよく分かりますね〜
 ちなみに現在下半分が板張りになってる多聞櫓ですが、江戸時代は総漆喰でした。

亀山城多聞櫓

亀山城多聞櫓
〜亀山城の歴史〜
 亀山は東海道筋にあり、鈴鹿峠を控えた要衝の地でした。
 亀山城は、中世を通じてこの地を支配した関氏が1265年に築いたのが始まりとされ、1573年に織田信長に追放されるまで関氏の居城でした。
 1590年、岡本宗憲(織田信長の家臣。のち信長三男信孝の重臣)が修築したのが、現在の亀山城になります。
 岡本宗憲は後に羽柴秀吉に臣従し、関ヶ原では西軍に付きます。
そして関ヶ原の敗北後に開城し、桑名で切腹しました。
 その後関一政が3万石で旧領に返り咲きますが、伯耆黒坂(鳥取県)に転封。
 その後は松平忠明(徳川家康の外孫。母が家康の長女亀姫)が5万石で入城。
 次いで三宅康信が1万石で入りますが、子の康盛の時に
珍事件発生。

 1632年に出雲松江(島根県松江市)の大名だった堀尾忠晴が幕府より
「亀山城を修理しなさい」
と命令を受けて、亀山城天守を取り除いて石垣修理を始めました。
 ところが、
「違う違う、伊勢亀山城じゃなくて、
 
丹波亀山城(京都府亀岡市)だYO!」

という話になり、修理はストップ。
 壊してしまった天守は
「もうそのままでいいよ」
てな事になり、「伊勢亀山城」から天守はなくなってしまいました。
 鬼より怖い幕府からの命令勘違いってのも怪しい話。
1万石の大名の城に天守は不要、ってことでわざと壊したってのが有力視されてます。

多聞櫓横からかつての石坂門跡をみる
 三宅家の後には本多俊次が5万石で、その後には石川憲之、その後には板倉家が3代続き、松平乗邑(のりさと)が6万石で入ります。
 で、板倉家が5万石で戻ってきて2代続き、最後は石川総慶(ふさよし)が備中松山(岡山県高梁市)から6万石で入り、以後石川家で幕末を迎えます。
 交通の要衝だけあり、ずっと譜代大名が城主を務めました。

伊勢亀山城縄張図
 伊勢亀山城は街道筋にあったことから、上洛途中の将軍が何度か宿泊しています。
 で、本丸御殿は将軍の宿舎として使用され、歴代城主は二の丸御殿で生活していました。
 この辺は名古屋城(愛知県)や、水口城(滋賀県)と同じですね。

本丸三重櫓跡
 とんだ事件で天守を失った亀山城ですが、後に本丸北側に三重櫓が築かれて天守の代用となりました。
 現在の児童公園の奥になります。

本丸北側の堀
(今は公園池と呼ばれています)

二の丸跡
(西小学校や市役所の辺り)
 本丸の東側には二の丸が設けられていて、藩主が暮らし、藩の政務を行う役所がありました。
 亀山城では帯曲輪(主要な部分を守るため、一段低いところに設けられた狭い曲輪)を多用して防御力を高めていました。
 二の丸の北と南側にもそれぞれ帯曲輪が設けられていましたが、北側の帯曲輪が復元されていました。

埋門解説板
 帯曲輪には埋門(石垣に埋め込まれたように作られた門)を通って降りていくようになっていました。
 発掘によって石段が出土して再現されています。

埋門を二の丸側から見る

埋門を帯曲輪から見る
 帯曲輪内には特に建物はなく、平時はお花畑として利用されていたようです。
排水溝の跡

復元された塀
 帯曲輪を取りまく土塀が復元されていました。
 城外から見上げたのが右の写真です。
 帯曲輪の上に二の丸の塀が建っていたので、2重の防御ラインが設定されていたわけです。

帯曲輪を城外から見上げる

西出丸にあった関見櫓跡
 本丸を横切って西出丸跡に向かいます。
 現在は亀山中学校のグランドになっていて、遺構はほとんど残っていませんでした。

桜が咲いていました
 西出丸跡から西三の丸跡にまわります。
 西三の丸西の入り口にあたる黒門があった場所です。
 この門を入った北側に、藩校明倫舎がありました。

亀山城黒門跡

加藤家長屋門
 西三の丸には藩校の他、重臣達の屋敷がありました。
 石川家に仕えた加藤家の長屋門が残っていました。

多聞櫓まで戻ってきました。

亀山城江ヶ室門と神戸櫓跡
 今度はバイクに乗って東三の丸跡に向かいます。
 この場所が二の丸と東三の丸の北の外れでした。
 この場所には神戸城から移築された神戸櫓が建っていました。
 ここから公園池北側を走ると、古城と呼ばれている小山の前に出ます。
 ここに中世時代の亀山城があったと言い伝えられていますが、遺跡はまだ発見されていないようです。

古城跡

解説板
 古城の北側には亀山市歴史博物館があります。
 博物館前には亀山城石坂門の石垣が移築展示されていました。
 この博物館には、江戸時代の亀山城とその城下町を復元した模型が展示されていまして、一見の価値ありです。
おすすめ。
 ここで配布されている「伊勢亀山城之図」(亀山市教育委員会)もオススメです。
 

石坂門石垣

解説板
 さ、そろそろおうちに帰ります。
 最後にもう一カ所だけ。
 ここは亀山城下の西の外れ、京口門があった場所です。
 東海道53次にも描かれた、風光明媚な場所でした。
 かつては門までくの字の坂を登ったのですが、大正時代に橋が架けられて現在の姿となりました。
 帰りは多少道を間違えて、北海道みたいな農道を走ったりしましたが、なんとか無事に帰宅しました。
(^^;

京口門跡現況
伊勢の国 城めぐり 完
2009.4.26 作成
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