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![]() 桜並木 |
翌朝はなんとか薄日の差すお天気。 宇都宮のすき屋で朝ご飯食べて、国道4号線を北上します。 さくら市で国道4号線を離れて国道293号線へ入ります。 その理由は喜連川氏(足利氏)の城下町 「喜連川」を訪問するためです。 喜連川氏は、足利尊氏の次男である 足利基氏(関東公方系)の子孫で、 豊臣秀吉の奥州仕置きにて喜連川を所領として与えられ、 喜連川を名乗りました。 徳川家康の時に加増があり、4500石の喜連川藩が立藩されて明治まで続きました。 「え?1万石以下なのに大名なの?」 と思った方はかなり詳しいです。 喜連川氏は万石以下ながら足利氏の子孫であることから 10万石格を認められ、 「御所」と称することを許されていました。 また官位も従四位下であり、 これは仙台伊達家と同格なのです。 しかも源氏であることから徳川家の盟友扱い。 家臣ではないため参勤交代の義務もなかったんですよ。 |
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![]() 御用堀 |
喜連川藩10代藩主である喜連川煕氏(ひろうじ)は、町民の生活用水確保のための用水を引きました。 これが現在も御用堀として残っていて、鯉が飼われていました。 |
![]() 鯉が泳いでました。 |
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![]() 解説板 |
御用堀を見ていたときに通りかかったおじさんの話によると、 御用堀で飼われていた鯉を盗んでいった不届きモノがいるとか。 許せないですねえ・・・ あとおじさんに喜連川温泉の元湯に入っていくよう勧められました。 |
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![]() 喜連川温泉元湯 |
場所も近かったので寄っていくことに。 朝湯としゃれこんでみました。 |
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![]() ここから福島県 |
国道4号線に戻って北上を続けます。 那須与一で有名な大田原市のそばを通過します。 「与一よっぴいてひゃうど放てば・・・」 の扇の的で有名な方ですね。 那須高原をだらだらと走ったところが福島県との県境でした。 ようやく「重力の底」を抜け出しました(笑) |
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![]() 白河小峯城縄張り図 |
白河市内で再び国道4号線を離れます。 向かう先は白河小峰城です。 白河小峯城は阿武隈川を付け替えた旧河道を堀に利用し、 本丸から伸びる細い峰を防御ラインとして取り込んだ梯格式のお城でした。 また東北では珍しい総石垣造りのお城(ムハー)です。 現在は本丸とその周辺の堀が現存していて、木造で復元された 「三階御櫓」(天守)がそびえています。 |
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![]() 本丸石垣と三階御櫓 |
〜白河小峯城の歴史〜 1340年(南北朝時代です)に、下総結城家の分家である白河結城家の結城親朝が築城したのが始まりです。 以後、白河結城家の本拠地となりますが、豊臣秀吉による奥州仕置きの際に改易されてしまいました。 以後、会津領となって蒲生家、次いで上杉家、再度蒲生家の持ち城となります。 1627年、丹羽長重(長秀の長男)が10万石で入城して小峯城を改修。 現在の姿になったようです。 丹羽家は安土城の普請を請け負った家柄で、築城が得意だったのでしょう。 |
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![]() 本丸堀 |
丹羽家は次の光重の代に二本松へと移り、 その後には榊原忠次(康政の長男)が14万石で入ります。 榊原家は姫路に移った後は、譜代・親藩が入れ替わります。 以前ご紹介した引っ越し大名松平直矩も15万石で入ってますし、 寛政の改革で有名な松平定信も11万石で白河藩主を務めました。 最後は阿部家が入りますが、阿部正外(まさと)が神戸開港の責任を 取る形で隠居させられ、子の正静(まさきよ)は棚倉に転封になります。 明治維新時は天領で、城は二本松藩の預かりでした。 戊辰戦争では戦場となり、三階御櫓を始め建物の大半を焼失しています。 |
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![]() 清水門と本丸堀 |
かつての二の丸は公園になっていて、博物館(白河集古園)が建ってました。 白河結城家の資料と、最後の藩主だった阿部家の関係資料が展示されていました。 おすすめですよ〜 |
![]() 本丸堀 |
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![]() 目の形をした石積み |
本丸堀にかかる土橋を渡って左側に、 目の形をした石積みを見ることができます。 さすが築城名手の丹羽家が築いたお城。 芸が細かいですね。 |
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![]() 本丸石垣 |
東北には珍しい石垣に大喜びしながら石段を登ります。 | ![]() 本丸石垣 |
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![]() 桜門跡 |
細い門跡を過ぎると、広々とした本丸と三階御櫓がそびえていました。 | ![]() 本丸と三階御櫓が |
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![]() 雪見櫓跡 |
本丸北西隅には雪見櫓跡がありました。 名前が風流ですよねえ。 本丸北側はひときわ高く石垣が築かれていました。 |
![]() 本丸北側 |
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![]() 三階御櫓 |
石垣上を歩いていくと、三階櫓に着きます。 入場は無料(好きな金額を入れる仕組み)でした。 太っ腹だ・・・ 櫓内にはこの地方で見られる吊し雛の展示がありました。 珍しいですねえ・・・ |
![]() 吊し雛 |
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![]() 弾痕 |
三階御櫓は、戊申戦争の激戦地である松波稲荷山の杉で復元されましたが、驚くべき事に戊辰戦争当時の弾痕が残っていたのです。 すごいなあ〜 |
![]() 石落とし |
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![]() 天守から南側を見る |
小峯城の南側には白河駅がありました。 城の北側には阿武隈川が流れています。 |
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![]() 三階御櫓と前御門 |
さて、一通り見物したし帰りましょうか・・・ | ![]() かっこいい・・・ |
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![]() 藤門跡 |
とは行かないのが城ヲタの悲しさ。 一般人が行かない所まで見に行きます。 |
![]() 二の丸と竹之丸石垣 |
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![]() 矢の門跡 |
お城の裏口までやって来ました。 本丸帯曲輪への入り口である矢の門跡です。 帯曲輪は現在バラ園(6月のみ開園)になっているので、 この門からの入場はできません。 |
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![]() 尾廻門跡 |
城の搦め手門(裏口)になる尾廻門跡にやって来ました。 建物こそないものの、石垣が残っていて往時を偲ばせます。 |
![]() 城外から見る |
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![]() ちょっと石垣が孕んできてますが・・・ |
尾廻門跡の石垣がちょっと孕んで来てました。崩れなきゃいいけど・・・ 尾廻門の横には花畠門がありました。 |
![]() 花畠門跡 |
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![]() 本丸北側の堀 |
尾廻門跡の外には堀が広がっていました。 こちらは阿武隈川の旧河道を利用した堀なので幅が広いです。 近所の人が釣りをしていました。 |
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![]() 峰沿いに築かれた石垣 |
城から細い尾根が東に延びていて、城下町の防御ラインとして利用されているのが小峯城の特徴です。 峰の上には万里の長城のような長石垣が続いていました。 |
![]() 峰沿いに築かれた石垣 |
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![]() かつての堀跡 |
お城の北側を走っていると、廃線跡のような長い空き地が・・・ これがかつての堀跡でした。 堀に沿って石垣が残っていました。(上には民家が) 途中で石垣が張り出している箇所が! 城絵図(博物館で買っちゃいました・・・)で調べると、築出櫓の跡でした。 |
![]() 石垣が張り出してる? |
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![]() 堀跡沿いに石垣が・・・ |
![]() 築出櫓台でした。 |
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![]() 城下町の北側が峰になってます (労働基準監督署の裏あたり) |
この後もお城の痕跡を求めてうろうろしました(笑) すごい坂を登ったり・・・ しかしお腹が空いたのでご飯にします。 (笑) |
![]() 北側から見る小峯城 |
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![]() 辛味噌ラーメン |
街中にあった「福島テレビ推薦」とかいうラーメン屋さんに入ってみました。 おいしかったですよ〜 辛くてだいぶ汗かいちゃいました。 |
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to be continued・・・ | |||
2009.7.28作成 | |||
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