熊本市電
 翌朝もゆったりモードで始動。
 ホテルで朝ご飯をすませた後、熊本城へ向かいました。
 熊本城付近は結構な渋滞。
さすがは三月の3連休でございます。

西出丸戌亥櫓と長塀
(復元)
 二の丸の駐車場に車を停めまして、歩き出しました。
 熊本城は最近建物の復元ラッシュが続いていまして、今回は竣工成った本丸御殿を見学にやって来ました。

西出丸未申矢倉
(復元)

西出丸西大手門
(復元)
 熊本城の歴史

 1470年頃に肥後守護菊池氏の一族であった出田秀信が、現在の千葉城町に千葉城を築いたのが始まりだそうです。
 出田氏の勢力が衰えたので、今度は鹿子木親員が現在の古城町に隈本城を築きます。
 1550年頃には城親冬が居城としています。
 豊臣秀吉の九州仕置きの際、城家は島津方についたために城を明け渡しています。
 その後に入ったのは佐々成政ですが、検地を強行したために国人一揆を招いてしまいます。
 成政は責を負わされて切腹。
隈本城には加藤清正が19万5千石で入ります。
 清正は1591年から城の改修に着手。
 朝鮮出兵と同時進行であったため、かなりの経済的負担があったと思われますが、
一揆などは起こっていないようです。
 1600年には天守が完成。関ヶ原の恩賞があり、清正は肥後一国52万石の大名となります。
 1606年に城が完成。これを祝って隈本城を熊本城と改名しています。
 1632年、清正の子忠広の代に加藤家は改易。
後には細川忠利(忠興の子)が54万石で入ります。
 細川家による改修を経て、熊本城は現在の姿になりました。
 平和な時代になると手狭な本丸を出て、城外に花畠屋敷を造営。
歴代藩主はこちらで暮らすことになります。
 以後、明治維新まで細川家が続きます。
 有名な西南戦争の際、熊本城は西郷隆盛率いる薩軍と官軍との戦場になります。
この戦いの際に大天守・小天守は焼失しています(原因は不明)

宇土櫓と続櫓
(現存)
 城内の桜が開花を迎え、お花見を兼ねたお城見物となりました。
桜と宇土櫓

頬当て御門から天守を見る
 西出丸を抜けて平左衛門丸にやって来ました。
 ここには現存の櫓である宇土櫓がそびえています。
 三重五階の櫓で、天守級の大きさを誇っています。

宇土櫓を城内から見る

宇土櫓続櫓
 内部の見学も可能です。
 宇土櫓続櫓が入口になっています。

宇土櫓から見る天守
 宇土櫓は北大手門と西大手門から西出丸に侵入する敵を睨んで建てられています。
 熊本城は西側に向かって緩い傾斜が続いており、こちらからの攻撃を防ぐため、西出丸、二の丸、三の丸を築いて守りを固めています。

西大手門と未申櫓を見る

数寄屋丸から本丸を見る
石垣の高さがよく分かります。
 平左衛門丸から数寄屋丸を経て本丸に入ります。
 本丸御殿は、本丸内の通路の上に建てられていました。
 このため、御殿には地下通路から階段を上がって入るという変わった構造になっています。

完成した本丸御殿

御殿下の地下通路
 左の写真が御殿下の通路の写真です。
 この通路を抜けて左に曲がると本丸に出ることが出来ます。
 現在、本丸御殿は本丸に入口があります。

本丸に入ります。

本丸御殿復元模型
 御殿に入ると、まず御殿の復元模型が展示されていました。
 色の付いている部分が、今回復元された部分。
 色のない建物がかつて存在した建物になります。
 現在は防災関係の法律基準が厳しく、本丸内すべての建物を復元することは難しいそうです。

かまど
 江戸時代の城主は城外に住んでいたのは先ほど説明したとおり。
 で、本丸御殿はというと、藩内の儀式や正式な使者などとの対面に使用されていたそうです。

いろり

縁側
 御殿の中には春の日差しがそそいでいました。
御殿の中庭

二の間
 儀式が行われる広間は、引き戸によって三の間までに区画されていて、家臣はその家格によって座る場所が決められていました。
 藩主に近い方が家格が高いということですね。
 大広間はL字型に配置されていて、一の間に座った家臣しか殿様の顔を見ることは出来ませんでした。

一の間と藩主の座

建具も立派
 藩主の座は金箔がふんだんに使われていて大層立派なものでした。
 建具も立派でしたよ。
 オカンの実家は建具やってたもので、オカンご一行様も感心しきりでした。
 藩主の座から前に一部張り出していますが、ここは世子(藩主の跡継ぎ)が座る場所なんだそうです。

藩主の座

天井もスゴイですね。
 二条城の二の丸御殿でも見ましたが、天井画も凄かったです。
床の間と違い棚

杉戸
 あじさいが描かれた杉戸です。
 鮮やかな青と緑が印象的でした。

杉戸


本丸御殿を見上げる
 その後天守にも登りましたが、オカンご一行様はばててしまった様子。
 お城になると夢中になる私のこと、調子にのって歩かせすぎたようです
(^^;
 城内の売店でお花見弁当を購入。
 桜の木の下でゆっくりお昼ご飯を食べて休憩した後、車まで戻ることにしました。
 しかし添乗員はもっとお城が見たい(笑)
 行きとは別ルートで車まで戻ることにします。
 数寄屋丸から竹の丸へと下っていくことにしました。
 飯田丸から見上げると、本丸御殿が石垣一杯まで建てられているのがよく分かります。
 本来、城の設計では本丸をコンパクトに作るのが鉄則なのです。
(守備兵力が少なくて済むため)
 そのため、平和な時代を迎えると、実戦向けに作られたお城では本丸内に御殿の増築などが難しくなるケースが多発しました。

飯田丸から見る御殿と天守

二様の石垣
(右が加藤期、左が細川期)
 熊本城姫路城では、藩主居館を城外に置くことによって問題を解決しています。
 また金沢城和歌山城では、本丸をあきらめて二の丸に藩主居館を移しています。
 津山城などではあくまで本丸にこだわったため、本丸内にある櫓の内部もすべて御殿造りにしてスペースを確保しています。
 一方江戸城では、はじめから巨大な本丸を築いて問題を解決しています。
 これは守備などを気にしない天下人の城ならではですねえ。
 

二様の石垣
有名なアングルです。

飯田丸の高石垣
 元々の大手筋である竹の丸から本丸へのルートは、東竹の丸、飯田丸、数寄屋丸、平左衛門丸と外枡形が連続するプランになっていて、織豊系城郭の究極と言われています。
 

飯田丸五階櫓

ここにも増築された痕跡がありました。
 しかも各曲輪には、宇土櫓、数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、竹の丸五階櫓と、天守級の櫓を配置して守りを固めていたのです。
 熊本城が名城と言われるゆえんです。

竹の丸から天守を見る

竹の丸から飯田丸五階櫓を見上げる
 城を見て1人興奮している間に、オカンご一行様の体力が限界を迎えていました(笑)
 添乗員が1人で暴走してしまっていたようです。
 あわてて車に戻ります。

備前堀

なんじゃこりゃ大福と携帯
 時間も詰まってきたことで、松橋から高速道路に乗って宮崎を目指すことにしました。
 宮崎港近くの「お菓子の日高」で、なんじゃこりゃ大福をご堪能いただきました。
 これにて南九州四泊五日の現地日程は終了しました。
 宮崎港からフェリーに乗船。
一路ふるさとへと向かったのです・・・
 

 れんとトラベルツアーでは随時参加者を募集してますよ(ハート)
 え?城ばっかりで添乗員が暴走してヤダって?(笑)
失礼いたしました〜(完)
れんとトラベルツアー 完
2011.1.11作成
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