 |

よもぎアイス |
4月のとある週末。
天気が良かったので、ふらりとツーリングに出かけました。
行き先は新宮市です。
国道424号から県道をへて国道311号線を走ります。
この辺りは
旧中辺路町
です。
旧町名の通り、熊野古道(中辺路)が通っていたところになります。
取りあえず道の駅で一休み。
おししそうなものを探してみました。 |

よもぎの里餅 |

旧本宮町内を流れる四村川 |
トンネルを抜けると
旧本宮町。
平成の大合併で田辺市になっちゃいましたが、私のように古い人間には旧町名の方がしっくりきます。 |

新緑がきれいですねえ~ |

311号線旧道 |
高野熊野の世界遺産指定と、それに伴う道路整備で(熊野古道博なんてのもありましたね)、二車線の快走路になった国道311号線ですが、私が免許取り立ての頃は、まだご覧のような道路だったんですよ。
夏休み時期は渋滞したものの、訪れる人も少なくて秘境ムードだったんですが・・・
今や鹿児島ナンバーや仙台ナンバーが走る観光地になりました(笑) |

311号線旧道 |

熊野川 |
昔を語り出すと年を取った証拠だと申します(笑)
それはさておき国道311号線は渡瀬温泉を通ります。
ここで右折してトンネルをくぐるのが旧311号線。
千人風呂で有名な川湯温泉や、国設川湯野営場の横を通り過ぎ、
国道168号線(五新線)に合流します。
熊野川に沿って川下へと下っていきます。
熊野川では川縁に家はほとんどなく、集落は山の中腹にあります。
これは明治に起こった大水害の名残です。
水害を避けて家を建てていたんですよ。
この時に被害を受けた十津川の人たちが新天地を目指したのが、
北海道にある新十津川村です。 |

フェリーありあけ |
新宮市で国道42号線に合流。
熊野川を渡って三重県に入ります。
紀宝町を通過して熊野市へ。
熊野市にある七里ヶ浜で、マルエーフェリーで東京航路に就航していた
「フェリーありあけ」
が座礁しているとのことで見に来ました。
解体して運び出しているようで、船は小さくなっていました・・・
しかし船体のカラーでマルエー所属の船だと分かります。
突きだしたままのフィンスタピライザーがちょっと悲しいですね・・・
この日の海はうそのように穏やかでした・・・
そういや重油が漏れて伊勢エビ漁に支障出たらしいですよ。 |

無惨な姿に・・・ |

めはりや |
お昼を過ぎたのでご飯を食べに向かいます。
この地方の名物と言えば、やはり
「めはりずし」
でしょう。
新宮市内にある
「めはりや」
さんでいただきました。
このお店は、和歌山市にある近鉄百貨店のイベントでちょくちょく出店しているので、結構有名です。
定食を頼んだのですが・・・
とろろとめざし(塩辛い!)と豚汁付いて1300円(たぶん)は高杉!
めはりずし単品で注文するほうがいいですよ~
(めはりずしはおいしいです。おすすめ) |

めはり定食 |

新宮城 |
お腹いっぱいになったので、腹ごなしに新宮城に向かいます。
新宮城は別名「丹鶴城」「沖見城」とも呼ばれています。
丹鶴城の名前の由来は、源為義(源頼朝のおじいさん)と熊野別当の娘の間に生まれた丹鶴の住まいがここにあったからです。
沖見城は太平洋を望む立地からその名が付きました。
新宮十郎行家(源頼朝の叔父)や、堀内氏善が本拠地を置いた
新宮。
水軍をも抱えたその勢力は、常に熊野三山と結びついておりました。
関ヶ原の合戦で西軍についた堀内氏善は改易され、
紀伊一国は浅野幸長に与えられます。
(三七万石)
新宮には浅野家重臣であった浅野忠吉が二万八千石で入ります。
浅野忠吉は大坂冬の陣後に新宮城の築城を開始します。
福島正則の改易で、浅野家は安芸広島に転封。
忠吉もこれに従い、備後三原城に入ります。
浅野家の後には駿河から徳川頼宣が入国。
新宮には付家老の水野重央が、浜松から三万五千石で入ります。
二代重良の頃に新宮城は完成をみています。
初代重央は、家康生母伝通院(お大の方)の弟である水野忠分の次男で、
家康の従兄弟に当たります。
紀州家では田辺城主の安藤家が国家老、この水野家が江戸家老という役割分担であったようです。 |

新宮城縄張り |
新宮城は山上の本丸と山下の二の丸、川岸には水の手と呼ばれた曲輪がありました。
山上の本丸は、松の丸、鐘の丸、本丸に分かれており、松の丸は山下への通路を押さえる馬出の役割を担っていました。
水の手と呼ばれた熊野川岸には、船着き場が設けられ、蔵がありました。
城の大手は北側にありましたが、現在は住宅が建ち並んでいるため、本来の大手道は消滅しています。 |

解説板 |

新宮城入り口 |
と言うわけで、城には大手道の横から入ります。
入口には門が建ってますが、もちろん復元されたものではないです。 |

新宮城石垣 |

大手道 |
城の横から伸びている石段は、やがて本来の大手道と合流します。
大手道は石段も古くて間隔が空いています。 |

くさびの跡の残った石材 |

登ります。 |
新宮城は築城が遅い(大坂陣後)のため、石垣が
「切り込みハギ」
と呼ばれる整ったものになっています。 |

松の丸虎口 |

鐘の丸の石垣 |
松の丸虎口は右に折れています。
松の丸で水の手からの登城道と合流します。
|

切り込みハギの石垣 |

鐘の丸虎口 |
鐘の丸虎口です。
この虎口は左に折れています。
|

水の手への道は通行禁止 |

熊野川の臨む
(城北側) |
鐘の丸はそこそこの広さがあり、城主の居館として設計されたのではないでしょうか?
江戸時代は城主水野家は江戸詰であり、国入りすることはありませんでした。 |

地元のスーパーオークワが見えます。
(城西側) |

本丸東北にある出丸 |
鐘の丸奥には本丸の帯曲輪が設けられていました。
鐘の丸との高低差はありませんが、袖石垣で区画されていました。
|

袖石垣 |

鐘の丸石垣 |
帯曲輪に入ります。
お城の西側からの登城道がここに合流しますが、これは江戸時代絵図には描かれていません。
近代になって作られたものでしょう。 |
 |

天守台石垣
(南側) |
天守台石垣です。
現在は西側が一部崩され、石段になっています。
鐘の丸に向かって大きく突きだしており、
鐘の丸内に侵入した敵を頭上から攻撃する設計になっています。
明治時代初期まで三重の天守がそびえていたそうです。 |

見事な算木積み |

太平洋が見えます。 |
天守台からは太平洋が一望できました。
沖見城の名前に恥じない眺望です。
新宮城は沖をゆく船を監視する役割を与えられていました。
江戸~上方を結ぶ舟運は、すべて新宮沖を通っていたためです。
ちなみに新宮には造り酒屋が一軒ありまして、
その名も「太平洋」というお酒を造ってます。
戦前は海軍さんに引き合いが多かったそうですよ。
「太平洋を一飲みに」
って験担ぎらしいです。 |

本丸搦め手 |
本丸南東部には搦め手口がありました。
非常時の脱出路や、本丸北東にある出丸との連絡に使われたようです。
本丸北東にある出丸は、水の手を見下ろす位置にあり、城内への船の出入りや、熊野川の水運を睨んでいたものと思われます。 |

出丸
(北東隅を欠いています)
後方は熊野川 |

水の手への石段 |
水の手には船着き場があり、年貢米などを納めた蔵が建っていました。 |

水の手と熊野川 |

本丸虎口 |
本丸虎口にやって来ました。
こちらも見事な切り込みハギ。
カミソリの刃も入らないような、ぴったりとした石積みでした。
さて、そろそろ帰り始めますか~ |

本丸虎口の石段 |
 |

香梅堂 |
新宮まで来たら、これは買って帰らないと!
てな訳で香梅堂さんへ。
名物「鈴焼」をお土産に買いました。
地元では知らぬ人のない名店です。
新宮に来たらぜひ買ってください。
おいしいですよ~ |

めちゃくちゃおいしい! |

橋杭岩 |
帰りは国道42号線をまったり走ります。
串本町の橋杭岩で一休みです。 |

串本大橋 |

じゃばら飴 |
和歌山県北山村にしか生えていないという
「じゃばら」
という柑橘類の果汁を使った商品です。
なんでも花粉症に効果があるらしいですよ。
和歌山に来たらぜひ買って帰ってね! |

じゃばらサイダー |

枯木灘 |
最果て感漂う枯木灘を走り、田辺市へ。
日が陰ってきたので、南紀田辺ICからは高速道路へ。
海南南IC先頭の渋滞はお約束(笑)
でも暗くなるまでには帰り着きました。 |
 |
熊野訪問記 完 |
|
2010.10.25作成 |
2010ツーレポトップへ |
Home |