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日田の古い街並み |
さあ腹ごしらえを終わったところで再び走り出します。
国道386号線はやがて大分県内へ。
三隈川を挟んで国道210号線と併走します。
やがて日田市街に到着しました。
最近「日田天領水」で有名?ですよね。
その名の通り、江戸時代の日田は天領(幕府直轄地)でして、
江戸時代中頃からは西国郡代が置かれました。
西国郡代とは、九州にあった幕府直轄地16万2千石を管理した役職のことで、通常の代官よりも格上です。(仕事内容は同じ)
九州には黒田(47万石)、鍋島(35万石)、細川(54万石)、島津(77万石)など外様の大藩が多いため、郡代が配置されていました。
直轄地の行政の他に、長崎奉行と協力して九州の諸大名の動静を探るという重要な任務を帯びていました。
日田市豆田町には、天領時代の古い街並みが残っていて観光名所となっています。 |

豆田町にて |
GWということもあって、豆田町は結構な人出でにぎわっていました。
古い街並みにありがちなカフェや、和の小物を売っているお店がたくさんありました。
私はといえば、そんなものには目もくれず(笑)、豆田町を抜けて花月川を渡ります。
目指す場所は・・・ |

花月川北側の街並み
画面中央の小山が目標です(笑) |

永山城堀 |
永山城です(笑)
やっぱりお城か?
と思った方。
やっぱりお城なんですw
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永山城 |

永山城の地図 |
永山城の歴史
豊臣時代も、ここ日田の地は蔵入地(直轄地)でした。
日田市内にある日隈城の毛利高政が、蔵入地の管理を行っていました。
関ヶ原後、毛利高政は佐伯に転封。
日田には小川光氏が二万石で入り、ここ月隈山に永山城を築きます。
光氏は10年近く日田を治めていますが、記録が乏しく、その人物像はよく分かっていません。
1616年に石川忠総が美濃大垣(岐阜県)より入ります。
忠総は町人地を花月川の南に移します。(豆田町の起こり)
花月川の北には武家屋敷地を整備、城下町の基礎を築きます。
1633年に忠総は下総佐倉(千葉県)に移封。
日田の地は中津藩の預かりになります。
1639年には天領になって永山城は廃城となり、
代官所が置かれます。
1665年から1年間だけ肥後熊本藩細川家の預かりとなり、
この時に肥後殿堀が造られました。
1682年、越後騒動に連座させられた松平直矩が、7万石で日田に入ります。
この松平直矩さん、このHPでもすっかりおなじみの「引越大名」さんです。
生涯に、姫路→村上(新潟県)→姫路→日田→山形→白河(福島県)
と5回も引越させられました。
直矩さんは1686年に山形に引っ越し、以後日田は天領のまま明治維新を迎えます。
廃藩置県の時には日田県が設置され、旧三の丸に県庁と知事官邸が建てられます。
現在に残る三の丸の堀と石垣は明治時代のものだそうですよ。
日田県はその後大分県に吸収合併されて消滅しました。
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縄文時代の墓の跡 |
三の丸から山を登り始めます。
と、山の岩盤にいくつもの横穴がありました。
現地の解説板によると、縄文時代の横穴式のお墓なんだとか。
ちょっと夜には来たくない場所ですね・・・ |

山の岩盤にいくつも残っています |

拡大写真 |
二の丸に行く途中に、ずーっと墓穴が続いているのはシュールでした(笑)
ようやく二の丸に到着。
本丸の石垣が見えてきました。 |

本丸の石垣 |

二の丸から本丸の石垣を見る |
本丸には石垣が残っていて、お城らしい風情でした。
この石垣も天守台跡と言われていますが、本丸の東北部には台地があるので、そちらが天守台だったのではないでしょうか? |

本丸東北隅には天守台と思われる台地が |

天守台跡の西側には、
丸石を使った石垣が残っていました。 |
天守台西側には、丸石を積み上げた石垣が残っていました。
おそらく三隈川から運んできた川石でしょうねえ。 |

搦め手口?から本丸を見る |

二の丸と本丸石垣 |
本丸から二の丸に帰ってきました。
二の丸には祠がありました。
しかしこの日は暑かった!
夕方のニュースで気温が30℃超えていたことを知りました。
まだ5月なんですがねえ・・・ |
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三隈川 |
お城を堪能したので、豆田町に戻ってきました。
川沿いには薫長酒造もあったので見学してきました。
一番古い蔵が1702年に建てられたそうですから、創業して300年以上になるんですかね?
きっと明治時代までは造った酒を高瀬船に乗せて、筑後方面に出荷していたんでしょうねえ〜
試飲ですか?いやいや、私ライダーですから(苦笑)
また機会があれば飲んでみたいですね。
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薫長酒造 |

豆田町の街並み |
暑さでやられたのか、ここで痛恨のミス!
実は日田にはもう一つ、日隈城(今の亀山公園)というお城があったんですが、うっかりスルーしてきてしまいました・・・
また機会があればリベンジしてきます。(キリッ) |

森陣屋跡 |
さて、日田を離れて国道210号線を豊後森に向かいます。
さて、豊後森藩と言えば、知っている人は少ないでしょうねえ。
ここの藩主は久留島家。
2代藩主の時に改名して久留島になりましたが、もとは来島家でした。
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陣屋庭園 |

陣屋裏手の石垣 |
来島というとピンと来る方も多いのでは?
そう、この来島家は、伊予(愛媛県)来島の水軍であった来島家です。
水軍なのに、なんでこんな山の中にいるんだ?という疑問はごもっとも。
実は関ヶ原の合戦の時、来島長親は西軍に付いてしまいました。
福島正則の取りなしで、なんとか改易は免れたものの、1万4千石でこんな山の中に移封されてしまいました。
「陸に上がったカッパ」にされてしまったという訳です。
この辺は志摩(三重県)の水軍であった九鬼家なんかも同じ目に遭ってます。
移封当時、森には角牟礼城というお城がありましたが、来島家はその格式から城を持つことが出来ず、角牟礼城の麓に森陣屋を築いて居城としました。
陣屋内には大三島(愛媛県)の大山祇神社が勧請され、三島神社が建立されました。
陣屋の裏門に当たる清水御門の前には、自然石では日本一とされる常夜灯があります。
八代藩主久留島通嘉が、参勤交代途中の東海道で自然石日本一の灯籠をみて、
「負けるか〜!」
と作らせたんだとか。
久留島家は他にも三島神社の改築にかこつけて天守のような建物
「栖鳳楼」
を建てたりしてます。
陸に上げられたカッパは、かなりくやしかったんでしょうね。
(苦笑)
栖鳳楼も見逃しました〜
また見てきますね。 |

陣屋の裏門
清水御門 |

清水御門の常夜灯 |
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角牟礼城縄張り図 |
なんで陣屋は見てきてないのかと言いますと、
角牟礼城を見に行ってたから
なんです(笑)
森陣屋の常夜灯から細い林道(舗装済み。落ち葉に注意)を上っていくと、
角牟礼城の三の丸に到着します。
そこに何台か車を停めることができるスペースがあります。
バイクを置いて、さっそく城めぐりに出発です。 |

三の丸石垣 |
角牟礼城は、弘安年間(1278年〜1288年)頃、玖珠の豪族である森朝通によって築かれたと言われています。ちょうど元寇(弘安の役)の頃ですね。
ただし資料で存在が確認できるのは1475年頃になります。
山口の大内氏の勢力が豊前に及ぶと、国境に近いこの城は、大分の大友氏によって補強されたようです。
1586年には島津勢に攻められていますが落城せず、難攻不落と称えられました。
その後、大友氏は朝鮮出兵での敗走を理由に改易。
1595年、毛利高政に日田・玖珠両郡で2万石が与えられます。
高政は日田に日隈城を築いて居城とし、玖珠にはこの角牟礼城を築いて押さえとします。
現在の遺構はこの時のものだとされています。
関ヶ原の合戦後、高政は豊後佐伯へ転封となります。
ここ玖珠には久留島家が入り、角牟礼城は廃城になったのは先に書いたとおりです。 |

三の丸枡形?の石垣 |
三の丸は石垣に囲まれた曲輪で、枡形の跡らしい区画が駐車場になっています。
ここからでも十分美しい眺めで、玖珠川沿いの平野が一望できます。 |

三の丸からの眺め |

さっそく本丸を目指します。 |
角牟礼城には案内板や解説板が充実していて、勉強になりますよ。 |

年表の看板あり |

搦め手門脇の石垣 |
二の丸の石垣の下を通って伝搦め手門へと向かいます。
二の丸の石垣は高さが7.5メートルもあり、100メートルの長さがあります。
毛利高政は大坂城の工事にも従事し、朝鮮出兵でも陣城を築いているので、城造りの技術者を家臣に抱えていたのかもしれません。 |

搦め手門脇の石垣 |

搦め手門脇石垣 |
石垣には穴太積みの特徴があるそうです。
搦め手門までやって来ました。
搦め手門はこの坂を登って右側にあったそうで、礎石が残っているそうです。 |

伝搦め手門 |

水手曲輪の石垣 |
搦め手門の脇には水手曲輪があり、その石垣も立派なものでした。 |

搦め手門跡から見下ろす |

水手曲輪 |
水手曲輪では、わき水を囲むように石垣が築かれていました。
小田原の石垣山城にも同じような曲輪がありましたねえ。 |

わき水 |

二の丸からの眺め |
水手曲輪から二の丸へと登っていきます。
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櫓台? |

二の丸石垣
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二の丸までやって来ました。
二の丸には木々が生い茂っていて眺望はありませんでした。
かなりな広さがありました。 |

二の丸 |

大手門跡 |
二の丸を先に進むと、大手門跡に来ます。
大手門跡はコの字型の虎口になっていました。
大手門から二の丸に入るところにも門があったようで、礎石が残っていました。 |

ここにも門がありました。 |

礎石 |
ここからは山を回り込むようにして登りが続いてます。
登り切ったところが本丸になります。 |

本丸から北側を見る |
本丸は最高所でもあり、眺めは最高でした。
五月晴れの空がどこまでも続き、さわやかな風が山頂を吹き抜けていました。 |

北隅には隅櫓の跡がありました。 |

鯉のぼりも泳いでます。 |
山頂にはGWらしく鯉のぼりが立てられていて、気持ちよさそうに泳いでいましたよ。
さて、私は登山道を上って北側から入ったのですが、本丸の虎口跡は南側にありました。
本来の登城道は、城の破却の際に失われてしまったのかな? |
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帯曲輪跡 |
本丸の一段下には帯曲輪が巡らされていました。 |

この辺りが大手通? |

穴太積みの石垣 |
さて、本丸を堪能したので山を下りることにしました。
帰り道でも石垣の写真を撮りまくりました。
それにしても立派な石垣でした。 |

立派でしょ? |
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大きな切り株のような山 |
角牟礼城の南、玖珠川を挟んで向かい合っているのが伐株山です。
標高685mのこの山のてっぺんにも、伐株山城というお城があったのです。
現在、山頂は公園になっているのですが、登り口が分からずに30分くらい迷いました。
国道210号線からだと分かりやすかったのですが、変に裏側から登ろうとして裏目にでました。 |

伐株山城について |
ようやくたどり着いた山頂には、縄張り図入りの案内板が建っていました。 |

縄張り図 |

角牟礼城方面を見る |
伐株山城は別名玖珠城とも呼ばれています。
元々山岳信仰のお寺があったらしく、山頂には「テラドコロ」と呼ばれている窪地があり、そこには高勝寺というお寺があったそうです。
寺跡からはわき水も出ているそうです。
寺院がそのまま城郭化したようで、南北朝時代には南朝方の城として記録に登場します。
1336年(建武3年)に、北朝側は一色頼行を総大将として伐採山城を攻撃。
8ヶ月に及ぶ攻城戦の末、落城しています。
その後もたびたび合戦の舞台となっています。
1586年の島津勢の攻勢に対し、玖珠地方の豪族は伐採山城に立てこもって迎え撃ちます。
が、城内から内通者が出てしまい、落城の憂き目にあっています。
その後城は廃城となって現在にいたっています。 |

土塁の跡 |
現在、山頂は公園になっていて樹木が生えていないため、城跡が分かりやすいです。
山頂には土塁で囲まれた区画がいくつかあり、竪堀や堀切も確認できます。 |
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伐株山の伝説 |
さて、伐株山城のある伐株山は、切株に形が似ていることからその名前が付きました。
そしてこの山には一つの伝説があるのです。
遙か昔、玖珠地方には大きな楠が生えていました。
あまりに大きかったため、玖珠郡全体が覆われて日陰になってしまいました。
こうなると作物も実らず、病人もたくさん出る始末。
大変困った住人達は巨人に頼み、大楠を切り倒してもらいました。
その切株が、伐株山だと言われています。
「玖珠郡(くすぐん)」という名前も、この伝説からついた名前なんだそうです。
豊後風土記にあるお話でした。 |

大分県と言えば |
その後、大分市内を目指して走りますが、ルート選択をミス。
湯布院から峠越えで別府に抜ける県道を走ったのですが、峠を越えたところで大渋滞にはまりこみ、別府市内まで30分以上かかる始末。
へろへろになりながら大分市内にたどり着きました。
ところで、大分県と言えば鶏天(鶏の天ぷら)が有名ですね!
町中あちこちに鶏天・鶏カラ(鶏のからあげ)のお店があります。
この日は大分市内に宿を取りまして、大分駅前にあるお店で鶏天を買い込んできました。
おいしかったですよ〜
みなさんもぜひどうぞ! |

朝の大分駅前 |
翌朝は臼杵まで高速で移動。
臼杵港からフェリーに乗って四国八幡浜へ。
四国を横断して帰宅しました。
世間では
宮崎口蹄疫騒動まっただ中
でした・・・ |

臼杵港 |
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GW北九州巡り 完 |
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2011.1.8作成 |
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