旧帯庄酒造場
 先日、日本酒について調べていると、和歌山の酒造場から
80年古酒(昭和元年醸造)
が発見されたとの昔のニュースを発見。
 「酔人日(スヰートピー)」という銘柄だとか。
 「スイートピー」といえば、かつらぎ町の電柱で看板見たことあったっけ。
 かつらぎ町の蔵元で調べてみると、「スイートピー」はかつらぎ町丁の町にあった
「帯庄酒造場合資会社」(すでに廃業)
の銘柄でした。
 「帯庄酒造」の建物がまだ残っているとのことなので、
見物に行ってきました。

鶴の瀧橋
(昭和29年架設って書いてました)
 JR和歌山線妙寺駅付近、丁の町に帯庄酒造場はありました。
 丁の町は鎌倉時代からその名が文献で確認できる古い町で、
大和街道(和歌山〜松阪)沿いにあり、江戸時代は妙寺25ヶ村の中心でした。
 小田井用水によって穀倉地帯となった伊都郡・那賀郡の豪農たちは、
農閑期の産業として酒造を始めました。
 主な市場であった城下町和歌山から見て紀ノ川の川上で造られたことから
「川上酒」と呼ばれ、
大坂や瀬戸内沿岸、江戸にも出荷されたそうです。
 丁の町には17軒の蔵元がありましたが、やがて衰退。
 安永九年(1780年)創業帯庄酒造が最後の火を守り続けましたが、
平成10年頃に廃業してしまいました。
 この地域で酒造りが盛んになった理由として、
 紀州随一の穀倉地帯だった。
 和泉山脈からの伏流水がが豊富だった。
 この地域には水車が多く、精米に便利だった。
 冬の寒さが厳しく、酒造りに向いていた。
 紀ノ川という輸送路があり、川下に和歌山城下という市場があった。
ことが上げられると思います。

酒造脇の路地
 廃業してしまったので資料があまりなく、詳しい事は分かりませんが、
 帯庄酒造の主要銘柄は「鶴の瀧」で、
「酔人日(スイートピー)」は輸出も視野にいれた銘柄であったようです。
 80年古酒の化粧箱を見ても、かなりモダンなデザインでした。
 ちなみに80年古酒は、蔵を整理したいたら出てきたそうで、
現存する最古の日本酒なんだそうです。
 澄んだ濃い赤褐色だったそうで、味に奥行きがあったそうです。

蔵の建物
 もう廃業して5〜10年たっているはずですが、建物はかなりきれいに残っていました。
紀州青石(緑泥片岩)の石垣

帯庄酒造遠景
 外から見ても廃業しているとは思えないほどですが、中にある建物の屋根が壊れ始めていました。
 なんとか文化財として保存出来ないものですかねえ・・・

真ん中の建物の屋根が壊れていました。

東門
 和歌山はわりと文化財には冷淡な土地柄なんですよねえ・・・
東門の看板

煙突にはうっすらと
「帯庄酒造場」の文字が・・・
 今なら間に合うと思うんですが・・・
まだ今なら間に合います。

用水沿いに立つ建物
 酒造に限らず、丁の町には古い建物がたくさん残っています。
 日本の古い街並みを見てみたい方はオススメですよ。

朽ちさせるには、あまりにおしい・・・

妙寺駅前
(鶴の瀧の看板)
 かつらぎ町の中心地である妙寺は、古くから栄えた町らしく、簡易裁判所なんかもあります。
 最近は寂れていますが・・・
 JR和歌山線の妙寺駅にやってきました。
 駅前に鶴の瀧の看板を見つけました。
 いつまで残っていることでしょうか・・・

妙寺駅

電車がやってきました。
 和歌山に最初にできた鉄道は、五条〜和歌山間を結んだ紀和鉄道でした。
 国有化されて和歌山線になりましたが、かつては東京行きの列車や急行の設定もありました。
 郵便車を連結して郵便輸送もしていたそうですよ。
 一時、普通列車のみになってましたが、今は快速の設定もあるみたいですね。

妙寺駅1番線ホーム

初桜酒造
 伊都・那賀郡内で30カ所を数えた川上酒の蔵元も、この初桜酒造を残すのみとなりました。
 お土産に純米酒買ってきました。
 今晩飲んでみますね
(笑)

粉河寺
 かつらぎ町のお隣にある紀の川市に移動。
 旧粉河町にある粉河寺にやって来ました。
 伝承に寄れば、創建は宝亀元年(770年)で、西国33カ所の3番札所として知られています。(平安遷都前ですね)
 清少納言の枕草子にもその名が出てくるなど、平安時代から有名であったようです。
 粉河寺は地図でも分かるとおり、まわりを山と川に囲まれた要害の地にありました。
 戦国時代、雑賀衆や根来寺と並ぶ勢力を誇っていましたが、
豊臣秀吉の紀州攻め(1575年)にあい、全山が焼失しています。
 現在の建物は、江戸時代の再建によるものです。

粉河寺山門
(1700年頃の再建)
 この立派な山門も、1700年頃に建てられたものです。

遊歩道を歩いていくと・・・
 私が寺巡りなんて珍しい?
 気がついたあなたは鋭い
 私の目的は寺ではなかったのです。
 お寺の脇から遊歩道を登っていくと・・・

猿岡城跡
 そこには猿岡城跡があります。
 粉河寺を見下ろすこの山には、はじめ山城が築かれて、粉河寺の僧兵が守っていました。
 秀吉の紀州攻めの後、紀州は弟秀長の領地となり、秀長の家臣であった
藤堂高虎
(後の伊勢津藩32万石初代藩主)
が粉河で一万石を与えられて猿岡城を築きました。

解説板

本丸跡
 今は木々が邪魔をしていますが、猿岡城からは粉河寺の境内を見下ろすことができます。
 全山焼失したとはいえ、隠然たる勢力を持つ粉河寺を監視するため、ここに居城を置いたと考えられています。
 その後、高虎は宇和島7万石に移封され、猿岡城はわずか9年で廃城となりました。
 今では遺構もありませんが、跡地は公園になっています。
 現状では。本丸跡は二の丸跡より数十センチ高いだけなので、言われてみればそうかな?という感じでした。
 二の丸がわずかに広いものの、城内で住むのは無理があったでしょう。
 山裾に居館があったのではないでしょうか?

粉河の町を見下ろす

粉河祭りの山車
 粉河寺から粉河駅までは、かつては門前町として栄えましたが、
県道の拡張工事が行われたため、その風情は失われたそうです。
 7月最終の土日には、紀州三大祭りの一つ、
粉河祭りが行われます。
 祭りの山車が、道ばたで出番を待っていました。
 灯籠に灯が入るととてもきれいなんだそうですよ・・・

 今回はふるさと和歌山を紹介しました。(^^;

 時間ができたら大和街道を全部ご紹介したいですね。
期待せずにお待ち下さい。(笑)
帯庄酒造訪問記 完
2010.7.19作成
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