竃山神社
 さて、関東駆け足ツーリングの際、友人のしいなっちさんと飲む機会がありまして、
「神社仏閣が好きなんですよ」
という話になりました。
 そういえば城巡りはやってますが、神社仏閣はちゃんとみたことないですねえ・・・
 確かに日本人の精神は神社仏閣とともにあったわけですよ。
戦前の反動からか最近陰が薄くなってますが、日本の歴史は神社仏閣の歴史な訳で。
 なにか新しい境地が拓けるかも?ということで、
まずはご近所にある神社を巡ってみることにしました。
 近すぎてほったらかしだったんですが(笑)、
和歌山の地も結構由緒ある神社があるのです。
 まずは和歌山市和田にある竃山神社から。
 そういえば和田に住んでるのはほとんど和田さんなんですよ。
田舎では珍しくないですが・・・郵便配達の人は大変ですなあ・・・
 さて竃山神社ですが、祀られているのは神武天皇の長兄である
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)です。
五瀬とは厳稲という意味で、農業関係の神様のようです。
 彦五瀬命神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)の東征に従いますが、難波の地で長髄彦(ながすねひこ)と交戦中に矢で負傷します。
 神武天皇一行は紀国男之水門(おのみなと)まで落ち延びますが、
この地で彦五瀬命は矢傷がもとで亡くなります。
 彦五瀬命は竃山の地に葬られ、墓の傍らに竃山神社が建てられました。
 ちなみに男之水門は、彦五瀬命が死の直前に「賊にやられて死ぬとは!」と
雄叫びを残した事からついた地名だそうですよ。
現在も和歌山市内に「雄湊(おのみなと)」という地名が残っています。
 この竃山神社は、延喜式では小社に分類されています。
 1381年に紀国造(きのくにのみやつこ)家によって鵜飼新五郎が神主に任ぜられ、
以後鵜飼家が世襲していたようです。
 豊臣秀吉による紀州征伐の際、社殿・社宝・古文書を焼失。
社領も奪われて荒廃しましたが、浅野幸長の時代に祠が再建され、
ついで徳川頼宣によって社殿が復興されています。
 しかし氏子も社領もなく、衰微していたようです。
 明治時代はじめは村社に分類されていましたが、神武天皇のお兄さんを祀っているために大正4年には官弊大社に昇格しています。
 村社から官弊大社にまで昇格した例は、竃山神社だけだそうですよ。
 ちなみに官弊大社とかというのは、明治時代に延喜式にならって神社の格を決めた近代社格制度による呼び方です。
 官弊大社>國弊大社>官弊中社>國弊中社>官弊小社>國弊小社>別格官弊社
の順だとされています。
 官社と國社の違いは、例祭の弊帛(ささげもの)が宮内庁から出るか(官社)、
国庫から出るか(國社)の違いだそうです。
 官社は皇室にゆかりのある神社、國社はかつての一宮という事ができます。
 もちろん神社は他にもたくさんありまして、
府社=県社>郷社>村社>無格社
という分類もされています。
府社・県社は幣帛が府・県から、郷社は府・県・市町村から出ていたそうです。
 村の鎮守さまと言えば、村社もしくは無格社が多かったようです。
この制度は戦後廃止されています。

竃山神社
 私がいる間、二人ほどお参りに来てました。
 今でも信仰されているんですねえ・・・ 

竃山神社本殿

日前宮
 さて、こちらは日前宮です。
 和歌山市の初詣といえばここでしょうかね。
三が日で30万人は来るらしいですから(和歌山市の人口は38万人ほど)
 旧社格は官弊大社。しかも紀の国一宮でございます。
 日前宮は一つの境内に二つの神社がある珍しい形を取っています。
 入口から向かって左側が日前神宮(にちぜんじんぐう)、
右側に國縣神宮(くにかかすじんぐう)があります。
 日前神宮の神体は日像鏡(ひがたのかがみ)で、主祭神は日前大神(ひのくまのおおかみ)
 國縣神宮の神体は日矛鏡(ひぼこのかがみ)で、主祭神は國縣大神(くにかかすのおおかみ)
日像鏡、日矛鏡は、伊勢神宮にある八咫鏡と同等とされ、八咫鏡は天照大神の神体であることから、日前大神は天照大神の別名であるとする説もあります。
 朝廷が神階(正一位稲荷大明神など)を贈らない別格の神社としてあがめていたのは、
伊勢神宮と日前宮だったそうです。 

こちら日前神宮
 宮司さんはさんです。
 紀伊国造から繋がる古い家系で、神話の時代を含めると2000年を超える歴史があります。
 これほど古い家系は、天皇家を除くと出雲国造の千家・北島家、阿蘇神社大宮司の阿蘇家、宇佐神宮の大宮司の宮成・到津家、隠岐国造の億岐家、籠神社宮司の海部家、熱田神宮大宮司の千秋家、住吉大社宮司の津守家、諏訪大社の大祝(おおほふり)の諏訪家ぐらいと言われています。
 戦国時代の紀氏は、神官ながら(神官だから?)地方大名ほどの領地を持っており、雑賀衆との小競り合いもあったようです。
 紀氏は、平安時代中期(!)と江戸時代後期に断絶の危機を迎えましたが、
いずれも女系承継で乗り切っているそうです。 

末社には松尾さまも祀られていました。

國縣神宮
 社伝によれば、はじめ名草郡毛見郷浜宮(現:和歌山市毛見。浜の宮の地名が残る)に建てられ、その後現在地に遷座(引越)したそうです。
 伊太祁曽神社の社伝には、現日前宮の地にはもともと伊太祁曽神社があり、
国譲りの結果、伊太祁曽神社は現在地へ、その跡へ日前宮が遷座したそうです。
 天皇家勢力と在地勢力の支配権の交代を暗示しているのかもしれません・・・
 中世では熊野詣道中の参拝が多かったそうです。
 戦国時代末期、豊臣秀吉の紀州征伐の際に社殿が破壊され、社領も没収されています。
これがなければいまでも伊勢神宮並の勢いだったかも?!
 ただ復興は早く、豊臣秀長によって仮殿が建てられ、元の社地に戻ってきています。
徳川頼宣により社殿が復興され、社領40石が与えられています。
 江戸時代は今の5倍の面積の境内だったそうで、ちょっと想像つかないですね。
 大正8年に国費によって改修工事が行われたため、旧観は残っていません。
現在の姿になったのは大正15年の事です。

名草姫命
の中言社
 日前宮の境内に、名草姫命が祀られていました。
 名草姫とは名草戸畔(なぐさとべ)と呼ばれ、名草邑(現在の名草山付近?名草郡)を治めていた豪族で、その名の通り女性です。
 東征中の神武天皇との戦いで敗れて戦死しています。
 紀氏による支配はその後の事です。
 和歌山市のいくつかの神社は名草姫命を祀っていますが、その本社は和歌山市吉原にある中言神社です。
 地元の伝承によれば、名草姫命は現海南市のクモ池付近で戦死。
 その死体はばらばらにされ、名草の民により、頭は宇賀部神社(おこべさん)、胴は杉尾神社(おはらさん)、足は千種神社(おあしさん)に埋葬されたそうです。
 神武東征と在地勢力との戦いの伝承です。

石灯籠の足
 日前宮にあった、享保二十年(1735年)乙卯の年に和歌山城下にある田中町・瓦町の住人から奉納された石灯籠です。
 再興圓成也ってことは、なんか災害でもあったんでしょうか?
 「近世都市和歌山の研究」という本で調べてみると、1707年(宝永4年)10月に南海道地震(M8.4と推定)が発生しています。
 この時は大潮と重なり、城下を流れる堀川に大船が押し流されてきて伝法橋が三つに折れて落ちたそうです。
 大地震の後10日ほどは強い余震が昼夜問わず20回あったそうで、屋内で寝起きするのは危険なので、庭に小屋を造って寝起きしたと記録に残っています。
 狭い町屋には庭がないため、つてを頼って郊外へ疎開したり寺の境内に仮屋を建てたり、
本町一丁目下馬、追廻門馬場、柳堤は小屋のために空き地がなかったそうです。
 たぶんその復興ができたのを記念して寄贈したと思われます。
 紀伊国名所図会によれば、大晦日に城下大橋から
ふんどし一丁の姿の男達

が日前宮に走って初詣にいく風俗が描かれています。
 今の西宮神社の福男選び寒中水泳を併せたようなイメージかな???

 日前宮、竃山神社、伊太祁曽神社を詣でることを「三社参り」と言いまして、
いまでも参る方は多いそうですよ。
 今は猫の駅長で有名な和歌山電鉄貴志川線も、
もともとはこの三社への参詣客の足
として開設されたもので、
かつての終点は伊太祁曽駅でした。
 最寄り駅はそれぞれ、日前宮(日前宮駅)、竃山神社(竃山駅)、伊太祁曽神社(伊太祁曽駅)です。
 1日乗車券(大人650円)もありますので、猫の駅長に会ったついでにお参りされてはいかがでしょう?

秋月城
 さて、左の写真をご覧下さい。
 わかりにくいのですが、写真中央右、たんぼの真ん中付近が小さく盛り上がっているのがわかりますか?
 これがですね、秋月城の跡なんですよ(笑)
周りの田んぼが堀の跡なんです。
 1490年頃(室町幕府の将軍で言うと足利義尚の頃)に紀俊連が築いたもので、
日前宮の東北すぐのところにあります。
 周りを紀ノ川氾濫原の湿地帯に囲まれた平城でした。
岡山なら備中高松城、関東なら忍城などと同系統のお城になります。
 戦国時代は太田城の支城でしたが、豊臣秀吉の紀州征伐の際に放棄され、
太田左近ら太田党は太田城にたてこもります。
 ここで有名な太田城水攻めが行われ、太田城は落城しています。
この時、太田城とともに秋月城も廃城となっています。
 と言うわけで、しいなっちさんにヒントを得まして、けっこう楽しく走りました。
新(神?)シリーズ開幕かな?(笑)
神社仏閣巡り 和歌山市編 完
2010.10.9作成
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