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土塁の跡
(交野郵便局南側) |
さて、月が変わって10月になりました。
日帰りでふらりと出かけることにします。
今回も種本に載ってる酒蔵見物です。
とあるHPで見てみると、近くにお城もあるようです。
これはちょっと期待できそうです。
またも出発が遅れまして昼前に。
仕方がないので近畿自動車道で北上します。
最近出来たばかりの第二京阪自動車道に入りまして、
交野南ICで高速を降りました。
交野市の辺りってものすごく道が狭いんですねえ・・・
狭い道を縫うように走ると、京阪電鉄の交野市駅前にやって来ました。
踏切を越えましてしばらく行った四つ辻を左折。
交野郵便局の駐輪場にちょっとバイクを置かせてもらい、城跡巡りに出発です。
郵便局の南側には竹藪がありますが、
これが城跡(土塁跡)なんですよ〜
城の名前は
「交野城(私部城(きさべじょう))」
と言います。
時は南北朝時代、文和元年(1352年)頃に南朝方の武将であった安見清儀によって築城されました。
北朝の天皇でいうと後光厳天皇、南朝方が後村上天皇、将軍は足利尊氏の頃です。
その後、安見氏は北朝方となり、河内守護畠山義深の重臣となって守護代にもなります。
戦国時代に入ると安見氏は河内守護を名乗るまでに勢力を伸ばしますが、
三好長慶に攻められて大和(奈良県)に逃げたりしています。
永禄12年(1569年)に織田信長が河内を統一すると安見氏は旧領に復帰し、
交野城を居城とします。
安見直政が病没した後、その隙を突いて筒井順慶が攻め寄せます。
城兵は闘わずして開城したようで、城は筒井順慶の持ち城になります。
天正3年(1575年)には信長の命で廃城となっています。 |

くぼみが堀の跡なんです。 |

本丸西側の堀跡
左が二の丸、右が本丸
(南側から) |
現在の城跡は三つの曲輪跡が確認できます。
西から二の丸(小字天守)、本丸(小字城)、三の丸の順に並んでいます。
本丸と二の丸の間には堀切の跡がはっきりと残っていて、堀底は畑になっています。 |

畑になっています。 |

二の丸跡 |
二の丸は周囲から2〜3メートルほど高くなっていて、明らかに城跡だと分かります。
二の丸跡には解説板が建てられていて、
城の縄張りが載っていました。 |
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縄張り部分を拡大
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交野市辺りは微高地が波状に続く地形になっていて、交野城もその一つを利用しています。 |

先ほどの堀を北側から見る |

本丸北側の堀跡は田んぼになってました |
城跡の周りをてくてくと歩きます。
本丸と三の丸は個人宅の敷地になっていて、中に入ることはできませんでした。
また南側は宅地化が進んでいて、どこまでが城域であったか分かりづらくなっています。
これ以外にも、昭和後期までは東側に一つ、北側に三つの曲輪跡があったそうですが、宅地化で飲み込まれてしまったようです。 |

本丸と三の丸の間にも堀切が
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山野酒造
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さて、交野城を後にしまして、酒蔵に向かいます。
今回は山野酒造に行ってきました。
「片野桜」
という日本酒を醸しています。
名前の由来は、
「またや見ん交野のみ野のさくら狩花の香ちる春のあけぼの」
藤原俊成(新古今和歌集)
からだそうです。
昔この辺りが遊猟の地(交野)だったことから、地名になったようです。
創業は江戸時代末期。年間400石の小さな蔵です。 |

山野酒造土塀 |
蔵前の通りは旧街道ですかね?
土塀がいい雰囲気でした。
京阪間にこんな風情が残っているのが意外でした。
ちょうどひやおろしの時期だったので買って参りました。
空けた初日はちょっと渋い?感じでしたが、2,3日後には飲みやすくなってました。
どっちかというと
濃い口の重いお酒
です。
最近では珍しいですね。
さて江戸時代に交野を治めたのは旗本畠山氏(3000石)でした。
そう、河内守護であった家柄です。
その畠山氏の代官を務めたのが北田家でした。
北田家は北畠顕家の子孫と言われ、戦国時代は交野城主安見氏の重臣でしたが、安見氏滅亡後は帰農していました。
その代官所(北田家住宅)が現存しています。
現在も北田家が住んでいるので、長屋門しか見ることが出来ませんが、その長屋門は55メートルもある立派なもので、一見の価値ありだそうです。
見てきたら良かったなあ・・・
交野からの帰りは外環を通って橋本に抜け、農免道路を通って帰りました。 |

門構えも立派です。 |
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交野市訪問記 完 |
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2010.10.17作成 |
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