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桜島幽玄 |
翌朝も早めの出発です。
雨上がりの桜島は、今までにない雰囲気でした。
幽玄って言うんでしょうか?
そんな感じでした。
時間が早いせいか、国道10号線もスムーズに流れていました。
ツーリングに出かけるらしいバイクに何回か抜かれました。 |

朝の国道10号線 |

れんとご用達
エブリワン |
店内で焼いたパンがおいしいエブリワンで朝ご飯です。
ここのパンはコンビニと侮れないほどおいしいんですよ。 |

富隈城 |
分かりやすい場所にありすぎて、かえって道に迷ってしまいました。
富隈城に到着です。
この富隈城は、豊臣秀吉によって領国を大隅に移された島津家16代当主島津義久によって築かれました。 |

解説板 |

石垣が残っています |
豊臣秀吉による九州仕置きの後、島津家の領地はいくつかに分割され、義久は薩摩国を領国とし、鹿児島に本拠を置いていました。
朝鮮出兵に参加し、親豊臣政権であった弟義弘に対し、義久は豊臣政権に距離を置いていました。
このため、秀吉により島津家内での領地変更があり、義久は大隅国に領国を移され、鹿児島には義弘が入ります。 |

城の東にある窪地は堀の跡 |

稲荷神社の奥には小山が |
これは豊臣政権による当主のすげ替えと言われています。
鹿児島を出た義久は、ここに富隈城を築いて居城としました。 |

小山のあるところが本丸 |

石垣の跡 |
富隈城は国分に広がる平野にあった小山を利用して築かれました。
東西150m、南北250mの方形で、東西と北側には堀がありました。
館造りの城で、屋根も茅葺きだったそうです。
石垣は肥後国八代の石工さん達が建てたそうですよ。
義久は、この富隈城に1595年から1604年までの10年間住みました。
関ヶ原から帰還した義弘と対面したのも、このお城での出来事でした。 |

城の南側
桜島はかすんで見えません |
古代、この城の下まで海だったそうで、現在も城に残る神社には、最初住吉神(航海の神様)が祀られていたそうですよ。
現在は義久が勧請した稲荷神が祀られています。 |

城の北側 |

北側にも窪地(堀跡が) |
城跡を歩いてみましたが、さほど大きくはなく、館造りであったというのが納得出来ます。
関ヶ原の合戦後、島津家と徳川家の間には緊張状態が続きます。
義久は富隈城では守りにくいと判断したのでしょうか。
1604年に国分城(舞鶴城)を築いて移っていきます。 |
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山上は隼人城跡 |
国分城をご紹介する前に、隼人城をご紹介。
隼人城は、険しい山上に築かれたお城です。
歴史は古く、熊襲隼人の居城であったとの伝承が残っています。
城跡の発掘調査では、縄文・弥生時代の遺物も発掘されているそうです。
城として歴史に現れるのは、応永年間(1400年頃)。
室町幕府三代将軍足利義満の時代に、税所淳弘が居城とした記録が残っています。 義久の居城である国分城は、この隼人城の麓に館造りで築かれました。
有事の際はこの隼人城に立てこもる計画だったのです。
背後に城山と呼ばれる詰めの城を持つのが、鹿児島県の城の特色になっています。 |

隼人城からの眺め |
さすがは
神話の時代からのお城。
周囲は断崖絶壁。
城跡からの眺めはすばらしく、国分平野を一望できます。
現在は公園になっていて、家族連れでにぎわってます。 |

現在は公園になってます。
写真はカップル用の椅子だそうですよ。 |

祠 |
古代から伝わる城山の神様なんだそうです。
ちょっと歴史を感じますね。 |
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山道を |
さて、隼人城に唯一残った遺跡を見に行きます。
管理棟の横の細道を抜けて山道を下っていきます。 |

下っていくと |

搦手門跡 |
搦手(裏口)門跡に到着しました。
狭い切り通しになっていて、二人並んでは通れないようになっています。
敵を一人ずつ通すことにより、迎撃しやすくするための工夫です。
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切り通しになっています。 |

郷土館前の煙草の木 |
城山公園には、霧島市立国分郷土館がありました。
ちょっと見物してきましたよ。
♪花は霧島、煙草は国分~
と「おはら節」に歌われた国分の煙草は、
島津義久が栽培を奨励したそうですよ。
あと、人間関係の難しさを歌った義久の和歌が紹介されていました。
義久は細川幽齋から古今伝授を受けるほどの教養人でもあったそうです。 |
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国分城石垣 |
隼人城の麓にある国分城にやって来ました。
城跡は国分高校と国分小学校の敷地になっていますが、石垣が残っています。
堀も残っていました。
柳の木が植わっていたので、初夏にはとてもきれいでしょうねえ・・・
国分高校の生徒さんが、道を掃除してました。、
えらいなあ・・・ |

石垣と堀 |

石橋と朱門 |
城内への橋は石橋でした。
国分城内に建っていたとされる朱門がありました。
かなり小さい門でした。 |

国分城石垣 |

国分城復元図 |
義久は国分に京風の碁盤目の町割りを行い、明国人を住まわせた唐人町もありました。 |

国分城下想像図 |

ツーリング中の一こま
愛車が写ってます |
しかし義久は1611年に死去。
その後には、薩摩藩初代藩主家久の正室であった亀寿姫が別居されられて国分城に住みます。
家久は義久の娘であった亀寿との結婚によって跡継ぎになったのですが、夫婦仲悪かったようで、義久が死去するとすぐに別居してしまいました。 |

石橋 |

国分小学校 |
1630年に亀寿姫が亡くなると、ここは島津家の直轄地となり、国分城には地頭が置かれました。
幕末には国分に本拠地を移す計画が持ち上がり、藩主斉彬は国分の測量を行わせますが、斉彬の死去によって立ち消えになってます。 |

堀へ水を流す水路 |

平時の居館国分城と詰めの城隼人城の関係がよく分かります。 |

福山にあった旧家 |
国分からは国道220号線を南下します。
途中、黒酢で有名な福山を通過しました。
ここは明治時代まで港町として栄えた町で、鹿児島からの汽船も出ていました。
国道沿いに旧家が残っていました。
お昼ご飯はマミーズカフェで。
黒豚カレーをいただいた後は話し込んでいました。
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バナナシェイク |

志布志の空 |
話し込み過ぎまして、 フェリーの時間ぎりぎりに垂水を出発!
1時間半で駆け抜けて志布志港に飛び込みました。
出港30分前でした。
乗船したらすぐに出港しました。
さようなら鹿児島。
又来ますね。 |

さようなら鹿児島 |
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久しぶりの大阪湾は、とっても寒かったです。
さんふらわあの隣を、琉球海運のRORO船が併走していました。 |
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2010年締めツー 完 |
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2011.1.1作成 |
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