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紀伊山地では珍しくない道 |
さて、文化の日でございます。
この日は10月10日と同じく晴れの特異日なんだそうですよ。
今年もよく晴れてくれました。
せっかく晴れたのでお出掛けすることにします。
国道24号線から京奈和道路、再び国道24号線から国道309号線へ。
大淀町の役場前を通って国道169号線へ。
高取町で県道119号線を終点まで走ると、高取城の壷坂口近くまで登って来られます。
ここにバイクを停めて、山歩き開始です。 |

案内板 |

壷坂口登城道
石垣が見えているのは
かつての武家屋敷跡 |
高取城といえば、岐阜県にある岩村城や岡山県にある備中松山城と並び、
日本三大山城
として有名なお城です。
標高583m、比高390mの高取山上に建てられました。
その範囲は東西1,5キロ、南北1,6キロに及び、日本最大の山城です。
その城内には天守、小天守を始めとする27の櫓、33の城門があり、塀の総延長は2900メートルに及びました。
山深くにあったために都市化の波に飲み込まれず、石垣などがよく残っています。
ただ、人の手が入っていないために木や草が生い茂り、石垣も一部崩落したりしています。
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今はこんなに山深い場所に |

壷坂口門跡の石垣 |
険しい山道を息を切らしながら登っていくと、壷坂口門跡に到着しました。 |

虎口は右に折れた後、
さらに左に折れます。 |

説明板 |
高取城へは千早口、壷坂口、吉野口の三つの登城口がありまして、大手筋は千早口になります。
(吉野口が搦め手(裏口)) |

城内側から見る |

この道の右手は武家屋敷だったのですが・・・
そんな雰囲気ではないですね(笑) |
ここいらで高取城の歴史など・・・
南北朝時代の1332年、大和の豪族である越智邦澄が築城したと伝わっています。
越智氏の本城は貝吹山にあり、高取城はは支城でしたが、
戦国時代になると本城となったようです。
1532年には河内国の勢力争いが飛び火し、一向一揆の軍勢に攻められますが、
筒井氏の援軍を得てこれを撃退しています。
織田信長の畿内制圧時に廃城を命じられ、城はいったん廃止されます。
筒井配下になっていた越智頼秀は殺害され、ここに越智氏は滅亡。
本能寺の変後、筒井氏の支城として高取城は復活します。
豊臣政権下で、筒井氏は伊賀国に転封。
大和国は、秀吉の弟である秀長に与えられます。
高取城へははじめ脇坂安治、ついで本多利久が城主として入ります。
(この本多さんは、徳川家臣の本多さんとは無関係です。)
ほどなくして秀長は病死し、後を継いだ秀保も変死。
本多氏は秀吉の直臣となって、高取1万5千石の大名になります。
利久の子俊政は、関ヶ原では東軍について上杉征伐に従軍。
城主不在の高取城を西軍が攻めますが、攻め落とせませんでした。
この時の功績で1万石の加増を受け、2万5千石となります。
本多氏は次の政武に跡継ぎがなく無嗣断絶。
桑山一玄と小出吉親が城番を務めた後、
旗本であった植村家政が2万5千石を与えられて高取城に入城。(1640年)
以後植村氏で明治維新を迎えます。
どうでもいい話ですが、家政のおじいさんの叔母さんが、本多平八郎忠勝のお母さんなんですよ。 |

壷坂口中門跡 |
高取城は山城には珍しく、高石垣を築いた近世城郭でした。
また山上の建物が幕末まで維持された城でもありました。
山上にきらめく白壁の天守や櫓群・・・
その様子は
「巽高取雪かと見れば、
雪でござらぬ土佐の城」
と歌われました。
城下町から見て巽(南東)にあった高取城。
山上が白く輝いている・・・
雪だろうか?
いやいやあれが土佐(高取の別名)の城ですよ。
当時の情景が目に浮かぶようですね。(^^) |

門跡脇の石垣 |

壷坂口中門跡 |
一説によれば、三代将軍家光に無許可での修理を許可されていたそうですよ。
幕末まで建物を維持できた理由はそんなところにあったのかもしれません。
さて、木々に覆われた山道を登り、崩落した石垣にかけられた木製階段を登ったところが壷坂口中門です。
この門を入ると三の丸、いよいよ城内に入ります。
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虎口は左に折れた後、
右に折れて三の丸に入ります。 |

二の丸石垣 |
三の丸に入ると目の前に二の丸の高石垣がそびえています。
大手門に向かうには、右手に見える二の丸の石垣下を通って行かなくてはなりません。
その間、ずっと頭上からの攻撃にさらされることになります。
左手には武家屋敷があり土塀があったはず。
寄せ手(攻撃側)は、両側から攻撃を受けながらの前進を余儀なくされたのです。 |

大手門跡 |
ここが高取城大手門です。
古写真によれば、目の前に一重の多聞櫓が建っていました。 |

古写真(右)と復元CSG(左) |

大手門跡の案内板 |
多聞櫓の目の前で右折すると、そこには大手門が建っていました。
門をくぐると左折れの虎口になっていました。 |

大手門跡 |

大手門を城内側から見る |
大手門をくぐった目の前には二の丸下の段の石垣がそびえていました。
その上には十三間櫓が建っており、城内に侵入するものを頭上から見下ろしていました。 |

二の丸下の段石垣 |

十三間櫓台 |
十三間櫓台の前を右折すると、再び右折れの虎口が出現します。
ここを右折すると、十三間多聞櫓の下にあった門をくぐって二の丸上の段に入ります。 |

十三間多聞櫓門 |

櫓門跡
門の上には十三間櫓があった。 |
門をくぐるとU字ターンします。
すると目の前には本丸下曲輪の石垣がそびえています。 |

十五間多聞櫓台
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ものすごい石垣です。 |
この石垣の南端には新櫓、北端に太鼓櫓が建っていました。
この本丸下曲輪は馬出の役割を持っていました。
その区画には、まず食い違い石垣にあった冠木門をくぐり・・・ |

冠木門跡 |

十五間多聞の下をくぐります。 |
十五間櫓の下をくぐって入ります。
するとその頭上には・・・ |

城内側から見た太鼓櫓台 |

城内側から見た新櫓台 |
三重の天守がそびえていました。
この馬出に侵入してきた敵は、頭上からの攻撃を受けることになります。 |

天守台の石垣 |

馬出内にそびえる巨木 |
本丸下曲輪内でさらに下の門を通り、天守台下にあった上の門をくぐって本丸入口へと向かいます。 |

巽高取の石碑 |

天守台石垣 |
天守台は見事な石積みで、十四メートルほどの高さがあります。
その天守台の下を通って本丸一の門へと進みます。 |

本丸一の門跡 |

天守台を見上げる |
この間もずっと頭上の天守から攻撃を受ける形になります。
一の門をくぐってU字ターンすると、本丸二の門跡になります。 |

本丸二の門跡
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二の門跡を城内から見る |
二の門をくぐって左にU字ターン。
今度は本丸三の門をくぐります。
これでようやく本丸内へ到達したことになるのです。 |

本丸三の門跡 |

本丸三の門背後の埋門 |
三の門背後には小さな埋門がありました。
侵入してきた敵を背後から攻撃するためのものでしょうか? |

本丸三の門と奥の埋門遠景 |

本丸にあった解説板 |
本丸北西隅には天守台がありました。
ここに三重の天守が建っていました。
本丸には他に小天守と天守付櫓他二基の櫓が多聞櫓で接続されていて、同時期に建てられた和歌山城の本丸との類似性が指摘されているそうでとなる
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天守台 |

天守台穴蔵 |
天守台は穴蔵を持つ構造でした。
穴蔵の高さは一間(1.8メートル)ほどでしょうか? |

穴蔵を上から見る |

天守台から葛城山、金剛山を見る |
天守台からの眺めは最高でした。
今は木々が生い茂って視界が遮られていますが、かつては木々もなく、三重の天守がそびえていたわけで、もっと眺めはよかったでしょうね・・・ |

下には馬出曲輪と二の丸上の段 |

真下を見ると少し怖いです。 |
本丸内では山歩きの皆様が宴会中で、かなり賑やかでしたね(ははは・・・)
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本丸井戸跡
(わき水ではなくため池です) |

本丸石垣
(奥に見えるのは小天守跡 |
本丸内を少し歩きます。
本丸内には礎石も発見されていて、御殿建築が一棟あったことが分かっています。 |

本丸は割と広いです |

大峰山方面 |
紀伊半島の屋根である大峰山系や、奈良と三重の県境にある高見山も一望できます。 |

高見山 |

本丸石垣
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せっかく登ってきたので、しばし本丸周辺を歩きます。 |

本丸下曲輪北東には埋門跡が |

支え石垣 |
本丸石垣東側では、石垣を支えるための支え石垣が築かれていました。
岡山城天守台にも同じような石垣がありますね。 |

支え石垣 |

瓦が落ちていました。 |
本丸石垣下をくるっと一周します。
本丸南西隅には小天守台がありました。
高取城の小天守は三重の建物で、天守と同じような大きさでした。 |

小天守台 |

高取城趾の碑 |
高取城趾の碑を発見。
石碑が建てられたのは大正四年のこと。
すでに歴史になった時代の事です・・・ |

この碑が建てられたのは大正四年 |

二の丸隅櫓台 |
あちこち寄り道しながら下山を開始します。
大手門前からまっすぐ北に延びる小道をたどっていくと・・・ |

細い道をたどっていくと・・・ |

道が右に折れて・・ |
千早門の跡に出ました。
このルートが高取城の本来の大手道なのです。
このルートのはじめである二の門から本丸三の門までは16の城門をくぐる必要がありました。
まさに難攻不落の城と呼べるでしょう。 |

千早門脇の石垣 |

千早門の跡でした。 |
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県道を戻って |
バイクを停めてあるので壷坂口へと戻っていきます。
バイクに乗って県道を下り、高取市街へと向かいます。
高取市街は土佐町というのですが、この名前には由来があります。
六世紀頃、都は高取にほど近い飛鳥・橿原の地にありました。
その造営等のため、遠く土佐の国(高知県)から労役に連れて来られた人々がいました。
この人達は労役が終わった後にも帰郷出来ず、この土地に住み着きました。
故郷を偲んで土佐という地名を付けたのだそうです。 |

高取市街
(土佐町) |

古い家が残っていました。 |
二万五千石とは言っても城下町。
江戸時代には賑わいを見せていたそうですよ。
古い町屋が残っていていい感じでした。
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明治に建てられた道しるべ
よしのあすか道? |

金剛力酒造 |
街中に金剛力酒造を発見しました。
金剛力酒造はその昔、屋号を「伊勢屋」といい、土佐町の大年寄、高取藩伝馬役差配を努めていた大商家でした。
蔵の向かいに屋敷があったそうなんですが、今は奈良県立民俗博物館に移築展示されているそうですよ。
(国の重要文化財なんだそうです)
ご主人さんの話だと、かつては角の郵便局まで伊勢屋の屋敷だったとか。
スゴイ商人だったんですねえ・・・
お酒一本買ってきました(笑) |

店先 |

松の門 |
その郵便局の向かいからがかつての武家屋敷地だったそうです。
その角は児童公園になっていて、高取城松の門が移築されていました。
火災によって屋根を焼失しましたが、残った用材が伊勢屋(金剛力酒造)に保管されていたそうです。
その残った部分が復元されていました。
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解説板
(赤塗り部分が復元部分) |

武家屋敷長屋門 |
辻をさらに城に向かうと城壁の美しい長屋門がありました。
高取藩城代家老屋敷の長屋門なんだそうです。
現在、元藩主の植村家のご子孫がお住まいなんだそうですよ~ |

かつての城代家老屋敷門なんだそうです |

武家屋敷長屋門 |
こちらも武家屋敷の長屋門です。
(格はぐっと落ちますが)
玄関を隠す塀に、のぞき窓を設けた厳重な作りになっているのが分かりますかね?
さて、日も陰ってきたし、帰ることにします。
次回はぜひ大手筋を登ってみたいです。
最後に・・・
この高取城をCGで復元しよう!という計画が実施されました。
http://www.nara-su.ac.jp/archives/takatori/
こちらのHPにアクセスすると、かつての高取城に会えますよ~ |
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高取城訪問記 完 |
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2010.11.15作成 |
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