伊太祁曽神社
 2月某日、和歌山の三社巡りの最後、伊太祁曽神社に行って参りました。
 伊太祁曽神社が記録に表れるのは西暦702年の事です。
 以前にも書きましたが、初めは現在の日前宮の地にあったようです。
その後、山東地区に移りまして、713年には現在地に鎮座しました。
 戦前の社格は官弊中社でした。
 祭神は五十猛命(いたけるのみこと)です。
 五十猛命はスサノオ命の息子さんで、日本全国に木種をまいたと伝えられています。
紀の国和歌山にふさわしい神様ですな。

社殿
 昔の船は木で造られたことから船の神様として祀られ、
転じて航海の神様となりまして、紀の国の漁師さんたちの信仰を集めました。

伊太祁曽駅
 さて、三社参り(日前宮、竃山神社、伊太祁曽神社)の足として建設されたのが
山東軽便鉄道(現在の和歌山電鐵貴志川線)だったという話は以前ご紹介しました。
 その伊太祁曽駅が、神社の近くにあります。

 貴志川線の開通は大正5年のことで、大橋駅〜伊太祁曽駅間が開通しました。
 大橋駅は、当時の和歌山市街の東の玄関口で、江戸時代は竜神街道の起点でした。
 紀和鉄道和歌山駅(現在のJR紀和駅)の開業に伴い、大橋〜中之島間が延伸されましたが、紀勢本線の開業により、中之島〜秋月駅(現在の日前宮駅)間を廃止し、秋月駅〜東和歌山駅(現在の和歌山駅)間に路線を付け替えています。
 昭和8年に伊太祁曽〜貴志間が開通。現在の姿になりました。
 その後、和歌山電気軌道、南海電鉄と会社が替わり、今は和歌山電鐵貴志川線となっています。
 駅長たまで有名になりましたが、なかなか乗客増に結びつかないようですねえ・・・
 伊太祁曽駅には車庫と検車区があり、車両整備が行われています。
おもちゃ電車が停まっていました。
 和歌山電鐵では、他に「いちご電車」「たま電車」を運行しています。
 

伊太祁曽駅構内
 どうでもいい話ですが、1968年まで和歌山市には
和歌山駅(現:JR紀和駅)
東和歌山駅(現:JR和歌山駅)
和歌山市駅(南海電鉄の駅)
と似たような駅名が三つありました。
 なぜ似たような名前の駅が三つも出来たのかの話は結構面白いものがありまして、
興味のある方は調べてみてくださいね。
 で、鹿児島駅と西鹿児島駅のような事情が和歌山市にもありまして、1968年に駅名変更が行われ、東和歌山駅が和歌山駅と改名し、和歌山市の顔になりました。
 地元民は和歌山駅と和歌山市駅を、
「和歌山駅」
「市駅」(しえき)
と呼んで区別しています。
 私が就職したての頃にはまだ
「東和歌山」
と和歌山駅を呼ぶお年寄りが結構いたのですが、最近はすっかり聞かなくなりましたねえ・・・

おもちゃ電車が停まっていました

中筋家住宅
 さて、山東地区から矢田峠を北に越えて和佐地区へと向かいます。
 このルートはいわゆる
「熊野古道」
でして、かつては熊野三社に詣る人で賑わった街道です。
 で、和佐地区にはかつての和佐組大庄屋の屋敷である
「中筋家住宅」
が残っています。
 屋敷の東側は熊野古道に面していまして、母屋が建てられたのは嘉永5年(1852)です。

解説板
 中筋家は、羽柴秀吉による根来攻めから落ち延びてきたお坊さん?から始まる家系です。
 1687年に四代目が祢宜村(和歌山市祢宜)の庄屋となり、1750年に五代目が和佐組の大庄屋となって明治まで続きました。

間取り

表門
東西30mの長屋門で、総欅造りです。
 現在は和歌山市が管理していまして、3〜11月の土・日・祝の9:00〜16:00まで公開されています。
 興味のある方はぜひどうぞ!

この道が熊野古道です

世界一統酒造
 和歌山市街に戻って来まして、湊紺屋町にやって来ました。
(和歌山市駅の南側です)
 ここには江戸時代、紀州藩の藩校学習館がありました。
 その敷地には現在「世界一統」があります。
 明治17年、南方弥右ェ門が興した酒蔵です。
弥右ェ門は博物学者の南方熊楠のお父さんでして、長男の熊楠は学問の道に進んだため、
酒蔵は弟の常楠が跡を継ぎました。
現在は六代目が社長さんやってます。
 明治21年には3000石の生産量があり、全国酒造家石高の西方前頭21枚目に番付されたそうです。
 早稲田大学の創立者である大隈重信と縁がありまして、酒名「世界一統」は重信候による命名で、
現在は社名にもなってます。

遠景
手前の川は和歌山城の堀川です
 早くから規模拡大を図った酒蔵で、明治43年に西宮、昭和10年には西條(広島県)に工場を建てて進出。
朝鮮や中国まで販路を拡大していました。
 現在もアサヒビールやサントリーの特約店でして、卸売業もやってるですよね・・・

 和歌山を代表する企業でしょうね。

和歌山城の堀川
 世界一統のそばには川が流れていますが、これは和歌山城の堀の一部です。
 世界一統の南側で左に折れているのですが、その突き当たりに注目。
一段川岸が低くなっているのが分かりますか?

 これは、和歌山城の堀を埋め立てた跡なんです。
 かつてこの堀はもっと広い幅がありまして、右岸の家のあたりもお堀だったのです。
 で、突き当たりの部分も堀がありまして、和歌山城まで続いていました。

 現在は埋め立てられていますが、一段低くなったところが堀の名残なのです。
その左側の高い部分は和歌山城三の丸でして、かつては竹が植えられた土塁があり、
その内側には紀州藩重臣の屋敷が並んでしました。

よーく見てみると突き当たり右側が一段低い

江戸時代の和歌山城三の丸付近

南部梅林にて
 さて、またまた2月某日。
 今度はみなべ町に梅見に出かけました。
この日は割と暖かくて良かったです。

いい天気です

おいしい梅干しになります
 ライダーさんも結構見かけましたよ。
みんな春を待ちきれないんですね
(^^

春ですね・・

案内板
 梅見だけではもったいないので、隣町の田辺市へ。
 江戸時代、ここには田辺城がありまして、紀州藩付家老だった安藤家が3万石で城主を務めていました。

 田辺城は1606年、当時紀州藩主だった浅野家の家老浅野氏重が築きました。
一国一城令の後は陣屋と称しました。
 徳川頼宣の紀州入りとともに、田辺城には安藤帯刀直次が入り明治まで続いています。
安藤家の歴代当主は国家老として和歌山にいたため、親戚筋の家臣が城代を務めていました。
 安藤家は代々帯刀もしくは飛騨守を名乗っています。
和歌山城下の上屋敷は、現在の和歌山病院付近にありました。
 

おお〜
 1863年(文久3年)には海に近すぎて砲撃に遭うとして移転計画が持ち上がったそうですが、
計画だけに終わっています。
 明治3年には城は払い下げられて宅地化してしまい、現在は石垣と海に面した水門を残すのみです。

よくぞ残ってましたね

結構天井は低いです
 城が面している会津川には堤防が築かれて、堤防上を道路が走っています。
 水門はその内側にあります。
 水門付近は小さな公園として整備されていました。

礎石

城内側から
 門跡には礎石が残されていて、周りは石垣が固めていました。
 公園には小さなショーケース?があり、発掘された瓦(安藤家の家紋入り)などが展示されていました。

下り藤に安の文字
(安藤家の家紋)

田辺城縄張り
 田辺城の建物図を見ましたが、お城と言うにはあまりに小さく、陣屋造りだったことが分かります。
 しかし田辺は小さくとも城下町。
 お城付近の道路は細くて入り組んでいまして、城下町であったことを主張しているようです。

城の西側には会津川

目の前は海
 田辺城は背後を海、西側の会津川を外堀とた構えでした。
 目の前にある海は青く輝いてました。

紀伊田辺駅

天神崎
 もう一つ寄り道しました。
 有名な天神崎です。
まだ二月だというのに、家族連れが磯遊びしていました。

春の海

ほんとにいい天気で・・・
 天神崎には別荘地にする計画が持ち上がっていましたが、残された自然を大切にしたいと業者から土地を買い取り保存することになったことで有名です。
 小学校の遠足地としても有名らしいですよ(笑)

和歌山城の桜
 4月某日には花見に出かけました。
 こちらは定番コース。
過去に何回も紹介しましたねえ。

旧桃山町の桃

一面の桃畑
 和歌山城で桜を見て、紀の川市(旧桃山町)で桃の花見です。
 いつも変わらぬ桃畑の風景を堪能しました。

お城発見
 いつも花見に出かけていた旧桃山町の山が、実は城跡だったと知りました。
 いや、看板を発見したんですよ(笑)
 南北朝時代の城跡だとかで、太平記にも載っているそうですよ。
最初ヶ峰城って言うそうです。
三色アイス盛り合わせ 完
2011.7.9作成
2011ツーレポトップへ
Home