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![]() 相原酒造 |
宿を早々に出発したれんと。 国道375号線を走って呉市街へと向かいます。 呉市広で国道185号線にぶつかりますので、これを左折です。 トンネルを抜けると呉市仁方という集落を走りますが、ここに相原酒造さんがあります。 |
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![]() 白壁がとてもきれいです |
相原酒造さんは、創業明治8年。 近くにある相原本店から分家して設立されたそうですよ。 製品は船便で小倉〜佐伯までの北九州沿岸に出荷されていたそうです。 |
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![]() 蔵の裏手に流れる川 |
「雨後の月」というお酒を醸しています。 今回は購入できませんでしたが、機会があれば飲んでみたいと思います。 |
![]() 蔵の裏手 |
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![]() 藤の花がとてもきれいです |
国道185号線に戻って東に走りまして、竹原までやってきました。 当HPでもおなじみの場所でございます。 この日はお祭りのようで、出店の準備にみなさん大忙しでした。 |
![]() 竹原の街並み |
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![]() すてきなデザインの屋根 |
ここ竹原は瀬戸内の港町として古くから栄えていました。 かつての商家が江戸時代の雰囲気を今に伝えています。 竹原には現在3つの蔵があって、それぞれ技を競っています。 竹鶴酒造はすでにご紹介済みですが、他に藤井酒造、中尾醸造さんがあります。 |
![]() 竹鶴酒造 |
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![]() 藤井酒造 |
藤井酒造さんは文久3年創業の蔵で、 「宝寿」「龍勢」というお酒を醸してます。 蔵の中がお店になってまして、試飲できたり、関係商品の購入が出来たりするのですが、時間が早すぎてまだ開店してないのはお約束です(笑) |
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![]() 吉田郡山城案内図 |
竹原からは国道432号線を北上。 国道2号線を西に向かって走り出します。 目指すは島根県浜田方面。三段峡なんかも寄っていこうという計画です。 国道2号線から県道83号線を通り、山越えのために志和ICから一区間だけ高速に乗ろうかと考えていたのですが・・・ 志和ICから続々と車が降りてきて、辺りは大渋滞しています。 なにかと思ったら、5月3日の連休初日から山陽自動車道で事故通行止めが発生しているようです・・・ これはいかんとルート変更です。 |
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![]() 吉田郡山城 |
県道173号線で山越えを試みますが・・・ この県道、途中で地図表記が消えます(笑)しかもカーナビで案内されるのか、離合も難しいこの県道に続々と車が入り込んできます! ええいままよ!と坂道を下っていくと、うまく県道37号線に出ました。 が、ここも高速通行止めの影響で大渋滞! すり抜け運転全開で走ります。 中深川というところで県道70号線に入り、可部で国道54号線に入ったところでもうお昼・・・ 国道沿いにあるうどん屋で昼ご飯を食べながら、今夜の宿を探します。 が!どの検索サイトで探しても一軒もヒットしません。 恐るべしGW! 牙をむき出しにして行く手を阻みます・・・ 国道181号線、191号線を走って三段峡に向かう予定を諦めて、国道54号線を北上します。 安芸高田市に到着しました! ここには毛利氏の居城だった吉田郡山城があるのですよ〜 郡山城の前には歴史民俗資料館があったのですが、なんと無料開放中でした。 捨てる神あれば拾う神ありですな(笑) 館内では毛利家ビデオが上映中でした。 毛利三兄弟は決して仲が良かったわけではなく、宍戸家に嫁いだ姉も含めていざこざが絶えなかったため、元就がこれをたしなめる手紙を何通も書いているそうです。 仲が悪かったからこその「三矢の教え」なんですねえ・・・・ (^^; |
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![]() 尼子が陣取った青光山方面 |
博物館を堪能した後で、さっそく登城を開始します。 山の中腹にある駐車場にバイクを停めて歩き出します。 駐車場脇には発掘された空堀がありました。 遠くベトナム産の磁器なんかも出土しているそうですよ。 |
![]() 空堀跡 |
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![]() 百万一心碑 |
まずは毛利家墓所から見学です。 元就の墓などがありました。 |
![]() 毛利元就墓所 |
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![]() 道中は割となだらかです。 |
毛利家墓所、元就墓所を過ぎ、いよいよ郡山城本丸を目指します。 羽衣石城なんかと比べると傾斜はゆるやかで、一息入れる回数もすくなくて済みました(笑) 郡山城は、安芸の国吉田庄の地頭として下向した毛利時親が、郡山南東部の尾根に築いたのが始まりです。1336年のことでした。 その後、毛利元就の代に毛利家が戦国大名として急成長を遂げると、郡山全山が城塞化されて現在の規模になりました。 輝元の時代に居城が広島城に移された後も、郡山城は維持されていたようですが、毛利家の防長移封の際に廃城となりました。 寛永期、島原の乱に懲りた幕府の指示により、石垣や堀が破却されています。 幕末の一時期、広島新田藩の陣屋として、郡山の麓に陣屋が築かれますが長くは続かず、間もなく明治維新を迎えています。 |
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![]() 御蔵屋敷跡 |
まずやって来たのが御蔵屋敷跡。 東西20m、南北30mの広さがあり、かつては兵糧蔵があったようです。 |
![]() 解説板 |
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![]() 崩落した石垣 |
郡山城はもともと土の城だったのですが、毛利家の勢力拡大により城域も広くなり、石垣も築かれたようです。 |
![]() こっちにも |
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![]() 井戸の跡 |
御蔵屋敷の上には、釣り井の壇があります。長さは75m、幅15mの大きな曲輪でした。 文字通りに井戸があったところで、本丸に一番近い水源でした。 |
![]() 解説板 |
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![]() 石垣の跡 |
釣り井の壇から二の丸帯曲輪に登っていくと、石垣の跡や、曲輪内を区画していた土塁の跡が残っていました。 | ![]() 中央盛り上がった部分が土塁跡 |
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![]() 解説板 |
二の丸にやって来ました。 周囲を高さ50cm幅1mの石塁や土塁で区画されていました。 |
![]() 二の丸から本丸を見る |
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![]() いよいよ本丸です 奥に櫓台が見えます。 |
本丸にやって来ました。 郡山の山頂にあり、一辺が35mの曲輪で、北端に櫓台があります。 |
![]() 解説板 |
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![]() 郡山城縄張り図 |
櫓台の標高は389.7mで、比高(麓からの高さ)は約200mあります。 150mほど歩いて登ってきたことになりますね。 |
![]() 櫓台に寄ってみる |
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![]() 櫓台上に石碑 |
現在の櫓台は樹木に覆われて視界が効きませんが、かつてはかなり眺望がよかったのでしょうねえ〜 | ![]() 櫓台から本丸、二の丸を見る |
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![]() 二の丸石垣跡 |
本丸からの帰りに三の丸を通っていくことにしました。 二の丸の石垣が崩れ落ちて来ていました。かなり大きな石です。 三の丸は城内で一番大きな曲輪で、1400uありました。 土塁や削り出しで四つに区画されていたそうです。 |
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![]() 三の丸から二の丸を見る |
三の丸からは御蔵屋敷への通路が延びていて、虎口が設けられていました。 | ![]() 石垣の跡 |
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![]() 三の丸虎口の石垣跡 |
石垣の跡が特に多いので、かなり重要視されていた曲輪であったことが分かります。 | ![]() 通路に沿って石垣があったようです |
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![]() 勢溜まりの壇跡 |
勢溜まりの壇は、本丸から南西に延びる長い峰を、御蔵屋敷下から十段に区切った場所です。 大手からの登城道を見下ろす位置にあり、本丸の防衛ラインとして守備兵を置いていた曲輪だったようです。 |
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![]() 満願寺跡 |
勢溜まり下を通って山を下りてくると、道は二つに分かれます。 左手に行くと満願寺跡にでます。 このお寺は毛利氏の移転に従って広島、萩と移動し、現在は防府市にあります。 境内の隅には石組みで造られた蓮池の跡が残っていました。 |
![]() 解説板 |
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![]() 蓮池跡 |
先ほどの分かれ道に戻り、さらに山を下っていくと、尾崎丸に到着します。 尾崎丸は、旧本城から続く尾根筋にありました。 ここに隆元の居館があったと伝えられています。 大手道との間には大堀切ありました。 |
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![]() 郡山城全容 |
山の麓をくるりとまわって駐車場まで戻ってきました。 宿も取れなかったことですし、今から自宅に帰ることにしました。 現在の時刻は15:30でございます(笑) |
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![]() 乃美の芝桜 |
郡山から県道29号で峠越え。国道375号線を目指します。 国道との合流地点手前できれいな芝桜に遭遇。 しばし東藻琴を懐かしみます。 豊栄からは国道486号線を走ります。 ひたすら走ると府中市へ。 せっかくなので府中焼きを晩ご飯に食べてました。 府中からも国道486号線を走り続けます。 井原から矢掛、総社へ。総社からは県道24号線を走り、川崎医大裏を駆け抜け、山陽新幹線の高架下を走って岡山駅裏へ。 県道27号、96号を経由して三石からは国道2号〜太子バイパス〜姫路バイパス〜第二神明と走り続け、自宅に到着したのは翌日2:00になってました。 これにてGWツー終了でございます。 |
![]() きれいですなあ・・・ |
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2011年GWの旅 完 | |||
2011.6.19作成 | |||
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