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![]() コチラが観音寺城 |
さて、新幹線と併走する国道8号線を北上します。 しばらく走ると「←安土城」の標識が見えてきましたので、 左折して新幹線の高架をくぐります。 東海道本線をまたぐ陸橋を越えて農道を走ると、目の前に安土山が見えます。 安土城はこの安土山に築かれました。 安土山は、六角氏(佐々木氏嫡流)の居城であった観音寺城と峰続きでして、 観音寺城の出城がありました。 天正4年(1576年)1月、織田信長は総普請奉行に重臣の丹羽長秀を任命し、安土築城を開始しました。 前年、長篠合戦で武田勝頼を破ったものの、第3次信長包囲網があった中での築城でした。 信長は安土城の完成を待たず、岐阜城を出て安土に移住。 工事を督励します。 1579年に総石垣造りの安土城が完成。 以後、信長の居城となりました。 信長の美意識や思想が体現されたお城でして、 日本のお城に「天守」が初めて建てられたのも安土城でした。 総石垣で築かれ、今までなかった天守を持つ安土城は、 この後築かれたお城のお手本となりました。 1582年、本能寺の変により信長は横死。 その時の安土城留守居は蒲生賢秀・氏郷父子でしたが、信長の妻子を守りつつ、 自らの居城であった日野城へ移動。 城は明智光秀の家臣、明智秀満に接収されますが、山崎の合戦で光秀が羽柴秀吉に敗れると、明智勢は安土城を退去していきます。 その直後、安土城天守と本丸の建物が焼失しています。 (原因は不明) その後も信長の嫡孫三法師が入城したりしており、織田家の城として機能していたようですが、羽柴秀次(秀吉の甥・養子)が近江で43万石を与えられ、八幡山城を築いたときに廃城になったと言われています。 その後は信長が建立した総見寺が信長の霊廟を守りつつ、現在に至っています。 |
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![]() こちらが安土城 |
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![]() 安土城の堀跡 |
安土城は築城当時、南面のみが陸続きの半島でして、湖に浮かぶ平山城でした。 その南面にも幅の広い堀があって、守りを固めていたのです。 |
![]() この田んぼも安土城の堀でした。 |
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![]() 百々橋口 |
安土城にはいくつかの登城口がありましたが、主なルートは3つありました。 城主などが使う大手道。城下町と接していて、家臣などが登城するときに使った百々橋口。琵琶湖に面した舟入(荷揚げ場)から搦手門に通じる台所道です。 |
![]() 伝 百々橋口 |
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![]() 折れ曲がり虎口 |
大手口については、近年の発掘調査で3つの入り口を持つことが判明しています。 一番西側の門は、折れ曲がり虎口を持つ厳重な門構えになっていたようです。 なぜ3つの入り口があったかについては、身分に応じて使う入り口が違ったと考えるのが妥当なようです。 |
![]() 大手門付近の縄張り |
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![]() 安土城縄張り図 |
大手門付近には縄張り図を中心とした解説板が多数設置されていて、発掘で判明した情報などをわかりやすく解説してくれていました。 縄張り図を見て思ったのが、安土城の城部分は、山頂付近の本当に限られた区画のみで、中腹より下には家臣の屋敷地が広がっているんだなあ〜ということ。 大分県にある岡城(竹田市)が、これとよく似た縄張りを持っています。 大手門から山の中腹まで130メートル真っ直ぐ続く幅6メートルの大手道も特徴の一つ。 普通、お城の通路は敵の侵入を防ぐために何回も折れ曲がりを設けるので、かなり変わった設計です。 まあかなりの傾斜があるので、真っ直ぐだからといって重い甲冑を着て駆け上がれたかどうかは疑問ですが(笑) 大手道の両側には家臣団の屋敷地があり、大手道を上ってくる敵は、道の両側から攻撃されることになります。 愛知県にある犬山城の二の丸がよく似た縄張りになっています。 |
![]() 大手道 |
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![]() 伝 羽柴秀吉屋敷跡 |
現在の安土城趾は総見寺の境内でして、 入場料は500円 かかります。 入り口の木戸の自動券売機で入場券を購入し、パンフレットと引き換えて歩き出します。 マイカーなどで来た人用に大手道の前に駐車場があるので、バイクはそこに停めて行きます。 ちなみにバイクは駐車無料です。 (イイネ!) 大手道の登り口左側に、羽柴秀吉の屋敷があったとされる区画があります。 二段に分かれた敷地を持つ屋敷地は、下段に馬屋、上段に屋敷があったことが、発掘調査で判明しています。 ただ、後の大名屋敷に比べると、かなり狭い敷地なのでびっくりしました。 |
![]() 屋敷の解説板 |
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![]() 発掘調査を基にした想像図 |
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![]() 羽柴秀吉屋敷の下段から上段を見る |
発掘では屋敷地入り口で礎石も見つかっており、櫓門が建てられていた可能性があるそうです。 各屋敷地が小さなお城のような造りになっていたようです。 |
![]() 羽柴秀吉屋敷上段 |
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![]() 伝 前田利家屋敷地の敷地復元図 |
伝 羽柴秀吉屋敷の向かい側には、伝 前田利家の屋敷がありました。 石垣で囲まれた虎口を持つ屋敷地でした。 |
![]() 伝前田利家屋敷地の蔀石垣 (蔀(しとみ)石垣とは目隠しの石垣のこと) |
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![]() 大手道 |
先にも書きましたが、大手道の傾斜はかなり急でして、お年寄りは入り口にあった杖を使って登っている人もいました。 私は休み休み登りましたが、なんとか杖のお世話にはなりませんでした(笑) |
![]() 休憩がてら登ってきた道を振り返る |
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![]() 大手道は折れ曲がります。 |
160メートル登ってきた大手道は、左に30メートルほど横折れし、再び右にカーブしながら緩やかな登りになります。 途中で百々橋口からの登城ルートと合流します。 |
![]() 百々橋口と合流してさらに登ります。 |
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![]() 石垣が見えてきました |
登っていくと行く手に石垣が見えてきました。 これが安土城の主要部への入り口、鉄門跡です。 この内側が城内ということになります。 名前のごとく、かつては門扉に鉄が打ち付けられていたのでしょうねえ・・・ |
![]() 鉄門跡 |
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![]() 鉄門折れ曲がり虎口 |
鉄門は左折れの後右折れする「折れ曲がり虎口」の形式をとります。 石垣に使われている石材も、大きめのものが多く、城主の権威を見せつける造りになっていました。 鉄門を通ると、目の前に二の丸の石垣がそびえていました。 上辺が崩落しているのですが、現在でも十分な高さがあって、威圧感がありました。 |
![]() 二の丸石垣 |
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![]() 安土城主要部の縄張り図 |
鉄門内側は枡形空間になっていました。 出撃時はここで勢揃いし、敵が侵入してきた際は、頭上の二の丸から攻撃を加える、いわゆるキル・ゾーンになります。 |
![]() 枡形空間 |
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![]() ここにも門があったのでしょうか? |
鉄門内の枡形を通ったところ右手に櫓台がありました。 ここにも門があったのでしょうか? 安土城は完成を急いだので、付近の寺院にあった石仏などを石材として利用していました。 右の石は仏陀の足跡をモチーフにした仏教遺物で、室町時代のものなんだそうです。 発掘調査時に発見されたので、そのまま展示しているそうです。 |
![]() 石仏なども石材として利用されました。 |
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![]() 二の丸石垣 |
櫓台の脇を通るとルートは左に折れまして、二の丸への登り口になります。 | ![]() 二の丸入り口 |
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![]() 信長の廟 |
二の丸には現在、羽柴秀吉が築いた織田信長の廟があります。 二の丸を右に折れると天守台の石垣があり、その前が本丸になります。 |
![]() 天守台石垣 |
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![]() 本丸の様子 |
本丸の発掘調査で出土した礎石などから、御所にある清涼殿に似た建物が建てられていた事が分かっています。 天皇の行幸を計画していたのでしょうか・・・ 本丸奥には一段高い石垣があります。 これは三の丸の石垣になります。 |
![]() 三の丸の石垣 |
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![]() 本丸東北にある門の跡 |
本丸の東北隅には門の跡がありました。 折れ曲がり虎口になっているのですが、通行禁止になっていました。 |
![]() 本丸石塁 |
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![]() 本丸石垣 |
本丸隅には石塁が設けられていました。 かつては多聞櫓が建てられていたのでしょうか? この低い石塁は、松坂城(三重県)などでも見ることができます。 松坂城は蒲生氏郷によって築かれました。 氏郷は信長の娘婿。何らかの影響はあったのでしょうか? |
![]() 本丸石塁 |
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![]() 天守台付壇への石段 |
本丸から天守台付壇へと上がります。 ここからは搦め手門方面を見ることができます。 コチラは通行禁止になっている区画なので、石垣は草木に覆われて見る影もありませんでした。 |
![]() 搦手門方面を見る |
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![]() 天守台入り口 |
いよいよ天守台に登ります。 天守台入り口には、熊本城地図石のような石畳がありました。 玄関だったんでしようかねえ? |
![]() 天守入り口の石畳 |
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![]() 天守台穴蔵入り口 |
天守台には穴蔵があり、地下一階の構造になっていました。 穴蔵には整然と礎石が並べられていました。 |
![]() 天守台穴蔵跡 |
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![]() 天守台解説板 |
天守台穴蔵跡には解説板がありました。 天守台は、かつてもっと高さと幅があったようです。 木の階段を使って天守台の上に登ってみます。 |
![]() 穴蔵から天守台上に登ってみる |
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![]() 琵琶湖を望む (田んぼはかつて湖でした) |
安土山のふもとには田んぼが広がっていますが、築城当時は湖だったところです。 天守台からの眺めは良く、伊吹山や福井県の山々まではっきりと見えました。 信長も同じ光景を眺めていたのでしょう・・・ |
![]() 伊吹山も見えます |
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![]() 天守台から穴蔵を見る |
天守台穴蔵の石は赤く焼けており、火災があったことを物語っていました。 信長の夢は3年で焼失してしまったのです・・・ |
![]() 天守台の石は赤く焼けていました。 |
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![]() 天守台石垣 |
安土城の天守台は地形に合わせて石垣を築いたため、不等辺6角形をしていました。 岡山城の天守台を思い浮かべればよく分かると思います。 (岡山城天守台は不等辺5角形) 石垣の隅は鈍角で、これも岡山城天守台とよく似ています。 |
![]() 天守台石垣 |
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![]() 安土城石垣 |
さて、安土城を堪能したので下山することにしました。 来た道を引き返しても面白くないので、途中から百々橋口を通って帰ることにしました。 |
![]() 百々橋口への石段 |
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![]() 総見寺本堂跡 |
分岐からしばらく登りの石段が続き、総見寺跡に到着します。 かつて総見寺はここにありました。 江戸時代末期に本堂などは火災で失われ、現在の位置に仮本堂が建てられて今に至っています。 |
![]() 古絵図 |
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![]() 総見寺三重塔 |
総見寺には二つの建物が残っています。 まずご紹介するのは三重塔。 もともと甲賀長寿寺にあった建物ですが、安土築城の際に移築されて来ました。 なんと1454年建立の建物です。 |
![]() なんと1454年の建物 |
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![]() 二王門 |
もう一つは二王門と金剛力士像。 門は1571年建立。金剛力士像は室町時代の作品で、ものすごく歴史があるものなんです。 これにて安土城巡りはお終いです。 |
![]() 二王門と金剛力士像 |
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![]() 金色に輝く安土城天守6階 |
さて、今は何の建物も残っていない安土城。 しかしその雰囲気を味わえる場所がお城の近くにあります。 「安土城天守 信長の館」 という博物館では、各種文献や天守指図を基に内藤昌さんが発表した案によって原寸復元された安土城天守が展示されています。 (5,6階部分のみの復元。セビリア万博に出品されていたそうですよ!)) |
![]() 5階内部 |
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![]() なんと豪華な・・・ |
天守5階は正八角形で、宇宙を形どっているそうです。 柱や天井は朱塗りで、法隆寺の夢殿のような構成になっていて、仏教の世界観を示しているそうですよ。 |
![]() 6階内部 (床は黒漆塗り) |
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![]() まさに信長の城です。 |
6階は正方形で、外観は金箔仕上げ、内装は黒漆塗りです。 「天子南面」の四角の段と言われ、道教・儒教の教義・世界観を表しているそうです。 信長は思想面でも天下統一をしようとしていたのでしょうか・・・・ それともすべての思想を超越した存在になろうとしていたのでしょうか・・・ 安土城の天守は諸説ありますが、地下1階で地上6〜7階、屋根は五重だったようです。 内装については各種文献によってある程度推測は可能なんだそうです。 金色を好んだ信長。 その好みは羽柴(豊臣)家や前田家にも伝わっており、織田家中を象徴する色でもありました。 歴史にIFはありませんが、信長が天下を取っていたら、日本の歴史はどう変わったのでしょうかねえ・・・ |
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![]() 夕焼け |
博物館は17:00までだったので、駐車場でこの後の予定を検討。 1泊して近江八幡山城や観音寺城を見て回ろうかとも思いましたが、鹿児島から帰ったばかりでもあるし、お家に帰ることにしました。 |
![]() もうすっかり冬の空ですね |
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![]() 月がとっても明るかったです。 |
最後の最後にようやくツーレポらしくなりましたね(笑) 博物館の駐車場で悩んでいたので、帰りはすっかり遅くなってしまいました。 竜王ICから高速道路に乗って帰途につきました。 気温が順調に下がってきたので、菩提樹PAで小休止。 ホットコーヒーを飲んでフリースをジャケットの下に着込みました。 とっても明るい月が出たので写真に撮ってみました。 きれいな月でした。 自宅に着いたのは20:30。 すっかり冷え切ったのでお風呂に入ってたら湯船で寝てしまってました(笑) |
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れんとの歴史街道 完 | |||
2011.11.19作成 | |||
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