店先にはお茶屋餅の看板
澤餅茶屋さんの店先
 さて、安芸市を後にして国道55号線を高知市に向かって引き返しはじめました。
 香南市まできたとき、国道の旧道沿いに気になるお店を発見!
 行き過ぎかけてたのを引き返して入ってみました。
 バイクを停めてヘルメットを取っている間にも次々とお客さんがお店に入っていきます。
かなりな人気店のようです。

お茶屋餅10個入り600円
 山内家の参勤交代の際、お茶屋番役を務めたことからついた名前が
「お茶屋餅」
なんだそうです。
 北海道産の小豆を自家製餡して餅生地で包んだ一品。
 ニッキ風味で何個でもいただけます(^^)v
 何より嬉しいのがそのお値段!
10個600円(5個入り売りもあり)です。
 お財布にも優しいですよね。
 店先でさっそくいただきましたが、その間も次々とお客さんが来てました。
地元の名店なんですねえ〜
 ちなみに創業は天保8年(1837年)なんだそうですよ。

こんな感じのお餅です。
とっても美味しいです!!

浦戸大橋
 そういえば香南市には香宗川が流れてましたね。香宗我部氏の地元です。
 県道14号線を走って物部川をわたります。高知龍馬空港の南側を走り、県道14号線をひたすら西に走ると、浦戸大橋に出ます。
 橋の上からは太平洋を一望できたのですが、駐停車禁止のために写真は撮れませんでした。
 浦戸大橋を渡りきるとすぐ信号があって、左上に登るような形で左折。
 うねうねした県道35号線を走ると桂浜に到着です。
 駐車場にバイクを停めて浜に向かいます。
 まずは有名な龍馬像にご挨拶。
 龍馬像を見るのは今回初めてだったりします。
 GW直後だったこともあり、龍馬像横に観覧台が設置されていました。(無料)
 これに登ると龍馬さんの横顔を見ることができます。
  

文久3年!(笑)

龍馬さんの横顔

これが桂浜
 龍馬像を見たので浜におりてみました。
 想像してたよりは浜は小さかったですね。
 浦戸は高知城下へと続く浦戸湾の入口に当たるため、幕末には砲台も築かれたようです。
 散策路途中に石垣と解説板が残っていました。
 浦戸城跡の看板も発見!
 こんなところにお城があったの???
しかも長宗我部元親の居城だったようです。知らなかったな〜

なに?浦戸城跡だって???

浦戸砲台弾薬庫跡

桂浜の地図

浦戸城の石碑発見
 お城があると聞いた以上はこのまま帰れません(^^;
 お城の痕跡を求めて移動開始です。
 県道35号線を登ると、道の途中に石碑がありました。大正8年に建てられた石碑のようですが、中の文章はよく分かりませんでした。
 高いところに登ったらわかるかなあ?と思い、国民宿舎桂浜荘に登ってきました。

駐車場の片隅に石碑が

浦戸城石垣
 バイクを停めると、駐車場の片隅に
「浦戸城」
の石碑が。
 よく見てみると駐車場の車の後ろに石垣が!
 興奮して近づきましたが、国民宿舎跡に出土した石垣を移設したものとわかってちょっとがっかりです。
 

移設を説明した解説板

天守台への道
浦戸城天守台跡
 国民宿舎駐車場裏手の細道を登って行くと天守台跡がありました。 
 天守跡は本丸より7m高く、安土・岡山城天守台と同じようにいびつな台形をしています。
 現状は東西11m、南北15mですが、古絵図には5間四方(約9m)と描かれています。
 北側斜面は展望台建設のために削り取られたそうです。
 三層の天守があったと言われていますが、詳細はわからないようです。

城八幡神社と大山祇神社

天守台跡に露出する石材

浦戸城古絵図
〜浦戸城の歴史〜

 浦戸は古来交通の要衝で、紀貫之(土佐守であった)の土佐日記にも記録があります。
 おそらくその頃から砦はあったと思われています。土佐七雄の一人、本山茂宗が天文年間(16世紀前半)に築城しました。
 その後、本山氏を滅ぼした長宗我部氏が支城とします。
 長宗我部元親は岡豊城から大高坂城(現:高知城)に本拠地を移そうとしますが、水害に遭って果たせず、浦戸城を改修して居城としました。
 長宗我部氏に変わって土佐一国の領主となった山内一豊も一時浦戸城に入りますが、高知城を築いて移ったため、浦戸城は廃城となりました。
 高知城築城の際に資材は利用され、現在では国民宿舎や坂本龍馬記念館が建てられたため、石垣の一部や堀切がわずかに残るのみになっています。

浦戸城現状

石垣の場所を示す解説板
 移設された石垣の他、国民宿舎裏手に石垣が現存しています。
 石段が設けられた石垣で、石塁だったようです。

国民宿舎の脇にひっそりと残されていました。

僅かに残った石垣

浦戸城絵図を元に現在の地図に勝手に書き込んでみました。
城の雰囲気はわかってもらえるかな?

ロバパンの屋台
 もと来た道を引き返します。
 途中、ロバのパンの屋台?みたいなものを発見しました。
なんでこんなところにあるのか非常に気になります(^^;

うどん屋さん
麦庵
 来る途中に気になってた県道14号線沿いのうどん屋さんでお昼ご飯です。
 美味しいおうどんでした。カツオのたたきも食べられたし、大満足でした〜

おうどんとカツオたたきセット

高知県立歴史民俗資料館が跡地に建ってます
 浦戸城を訪問したら、やっぱりここも寄っとかないとダメですよね〜(笑)
 県道376号線から県道44号線を経由して県道384号線を走り、長宗我部家の本拠地
岡豊城
にやって来ました!
 長宗我部氏といえば元親の代に四国統一目前まで勢力を拡大したものの、阿波の三好家救援を名目に介入した豊臣秀吉の前に涙を飲んだことで有名ですね。
 岡豊城はその居城だったのです。
 午後も半ば。閉館時間もあって資料館の方を先に見学。
 長宗我部関係資料と土佐の民俗資料関係展示がなかなかよかったです。
 おすすめ!

いざ登城

岡豊城絵図

二の段からの眺め
 まずは二の段にやって来ました。
 東に突き出した曲輪です。

二の段跡

二の段跡
 二の段と詰の段下の間には堀切と井戸がありました。
堀切跡

詰の段(本丸)下段跡
建物跡がコンクリートで示されてました
 堀切を越えると詰の段から馬出状に突き出た詰の下段に出ます。
 岡豊城では礎石を持った建物が建てられており、発掘調査で判明した建物跡がコンクリートだ示されていました。
 この曲輪にも建物があったようです。
 さらに詰の段までやって来ました。
 ここが本丸に当たる部分です。天守はまだ建てられていませんでした。
 ここには雨水を貯める井戸や二層以上であったらしい建物がありました。
 天正3年の銘がある瓦が出土したのもここだそうです。
 天正3年(1575年)といえば安土城より1年早い時期で、すでに岡豊城では瓦葺の建物があったことになります。

岡豊城縄張り

詰の段(本丸)建物跡
詰の段の建物は方位に沿って建てられているそうです。

詰の段土塁跡
 詰の段下には帯曲輪状の三の段があり、ここにも礎石が出土しています。
 土塁の土留めとして石垣が築かれていますが裏込石のないもので、古い時代のものであることがわかります。

三の段跡

随所に石垣が残ります。
 三の段下には馬出状の曲輪があり、虎口となっています。
 

馬出入口虎口

虎口
 馬出を出ると四の段で、180度折れ曲がって厩跡と呼ばれる出丸へと続く道があります。 
馬出前の空堀

厩跡へと続く道
 岡豊城は国道32号線沿いにある岡豊山(標高97m)上にある城です。
南面と東面に国分川が流れ、外堀の役割を果たしています。
国分川の水運を抑える要地でもあり、近くには国分寺もあって土佐国内では先進地帯であったと思われます。
 築城時期については不明ですが、永正5年頃(1508年)に落城した記録があり、その後永正13年(1516年)に再建されています。
 昭和60年の発掘調査では焼土と多量の炭化物が発見されており、この落城時の痕跡であると考えられています。
 その頃の城主は長宗我部元秀とその子国親
国親時代に長宗我部氏は勢力を拡大し、土佐7雄から4強へと勝ち残ります。
 この国親の子が元親で、幼少の頃は「姫和子」(女の子のような若殿)と呼ばれていましたが、長じて天正2年(1574年)に土佐を統一。
天正13年(1585年)には四国統一目前まで勢力を拡大しました。
 その後、天正19年(1591年)に元親は浦戸城を築いて本拠地を移し、岡豊城は廃城となりました。

伝厩跡
 本城の西南にある伝厩跡までやって来ました。
 本城に迫る敵に横矢をかける位置にある、独立した出丸です。

伝厩跡から国分川を見る

厩跡から本城を見る
 いい加減岡豊城を堪能しました。
 時間もないことだし、帰宅の途につきました。

資料館の看板

岡豊城絵図
(城跡の看板から)

大歩危にて
 国道32号線を通って帰宅の途につきます。
 高知自動車道が通っているからか、交通量も少なく快走できました。
 県境の街大豊町で、本山町への看板を見ました。
 長宗我部氏と土佐の覇権を争った本山氏の本拠地があった場所で、こんな山深いところなのかとビックりしました。
 江戸時代は安芸と同様、本山土居が置かれていました。

いいとこですね!

綺麗な場所だ・・・
 県境を越えて徳島県に入りました。
 道の駅大歩危で小休止です。
 徳島といえばすだちが有名です。すだちサイダーいただきました。
 またゆっくり見物に期待ですね〜
 阿波池田で国道32号線と別れ、国道192号線で徳島市内へ。
 楽しいツーリングも終了です。

すだちサイダー
四国一周の旅 完
2013.2.16作成
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