高城跡にある古墳の石室
 翌朝は8:30出発。
 国道10号線を南下します。美々津を通過して、津農からは県道40号線へ。(美々津って地名は耳川から来てるんですよね。耳川と言えば・・・島津ファンは燃えますね〜)
 県道40号線をひたすら走ると、木城町に到着します。木城町には有名な
高城
があります。
 ここ高城は豊後から日向国府(現:西都市)を結ぶ街道(薩摩往還)の交通の要衝でした。

高城の歴史など
 もっとも古い記録は西暦701年で、土塁を持つ城であったようです。
 建武2年(1335年)、島津忠宗の四男時久足利尊氏から恩賞としてこの地(新納院と呼ばれていました。「院」とは年貢を納めた蔵のこと。)の地頭に任じられ高城を築き、新納氏を名乗りました。
 その後何度も城主は代わりましたが、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで伊東氏が敗れると、島津家の城となり、山田有信が城主となります。
 ここに耳川の合戦(高城川の合戦)の舞台が整います。
(主戦場は高城川なのに、なぜに耳川の合戦なのか・・・)
 天正6年(1578年)、伊東氏に頼られた大友宗麟は日向国(現:宮崎県)への侵攻を開始。
 島津方の延岡の土持氏を破って耳川を渡河。10月11日に高城を包囲します。
大友勢は総勢は3〜4万人、対する高城は山田有信勢500人、耳川から撤退してきた島津家久勢1000人でした。
 10月20日午前7時、大友勢は総攻撃を開始。二の木戸まで落としたと伝えられ、高城の水の手を奪います。飲料水を絶たれた城方は大変困窮したそうです。
 しかし大友勢の攻撃は止み、包囲戦に移ります。(後詰め軍に対応するため、兵力を温存したと思われます。)
 大友勢に呼応した伊東旧臣によるゲリラ戦を掃討した島津方は、10月25日に総大将島津義久が鹿児島を出発。11月11日に高城を望む根白坂に着陣しました。
 翌12日、両軍は戦端を開きます。緒戦は大友勢が優勢で、島津方は北郷久盛が討ち死にします。
 しかし、東方から島津以久が大友勢に横槍を入れ、それを見た島津家久以下の籠城勢は城を出て西方から横槍を入れたことにより、大友勢は総崩れとなりました。
 大友勢は臼杵鎮続、田北鎮周、蒲池鑑盛などのなだたる重臣・武将を失い、4000人を越える死者が出たと言われ、「日向後家」という言葉が出来たほどでした。
 一方の島津勢も3000人に及ぶ死者が出たと言われ、辛勝であったことが分かります。
この戦により、島津家は九州統一へ大きく前進しました。
 天正15年(1587年)、高城は再び戦場となります。
今度は大友宗麟の請いを受け九州に侵攻した豊臣秀長(豊臣秀吉の実弟)の軍勢に包囲されました。
 この戦いでは根白坂で行われた後詰め決戦に島津本隊が敗れたため、城主山田有信は城を明け渡して薩摩へ退去しました。
 高城は豊臣秀吉による国割りにより高鍋に入った秋月種実の持城となりますが、一国一城令により廃城となっています。
 

ダケキガ淵付近ダケキガ池
上を通っているのは東九州自動車道です。

高城川の合戦布陣図
青が大友勢、赤が島津勢
数に勝る大友勢は正面から攻撃。緒戦は優勢に進めますが、島津以久(典厩)が東から横槍を入れると形勢が逆転。
さらに西から籠城勢が横槍を入れると大友勢は総崩れとなります。大友勢は「ダケキガ淵」に追い込まれ、多数の溺死者を出します。
「ダケキガ淵」は、「深さ二丈(6m)、横三丈(9m)、縦百丈(300m)」もあった深淵でした。
(当時は現在と川の流れが違ったそうです)
生き残った大友勢も28km離れた耳川まで島津勢の追撃を受け、さらに打撃を受けます。

高城跡は公園になっています。
 高城は北・東を谷瀬戸川(現:切原川)、南を高城川(現:小丸川)に囲まれ、三方をが崖、唯一峰続きの西方を5つの堀切で断ち切った難攻不落のお城でした。
高城縄張り図

今は公園になってます。

本丸手前の堀切は階段になってます。
 駐車場に車を停めて歩いて行きます。
 本丸までの間にはたくさんの堀切があり、戦闘正面である西方からの守りを固めていました。
 二の丸は馬出風になっていましたが、駐車場になったときの工事でこうなったようです。

本丸下の帯曲輪と
その向こうに見える高城の街並み

高城本丸から高城川古戦場を見る
 高城からの眺めはすばらしく、真下を薩摩往還が通っていることも相まって、抜群の立地条件です。
 本丸跡にはお城風の展望台が建てられていました。
 大友勢が多数溺死したと言われる
「ダケキガ淵」
の痕跡を求めて山を降りました。
 木城の街並みを抜けて小丸川を渡ります。
 しばしうろうろ集落内を走りますが、どうも川の南岸ではないらしく、川の北岸に戻ることにしました。
 ちょっといい感じの沈下橋(対向出来ない)を見つけ、川の北岸へと戻ります。
 県道19号線を走っていると、左に合戦場跡の看板を見つけました。どうもこの辺りが古戦場のようです。

小丸川はおまる川って読みます(^^;

高城川にかかる沈下橋

看板を見つけました

根白坂
 近所の方にも聞いてみましたが、あまりご存じない様子(^^;
 看板の近くにダケキガ池という池を見つけたので、この辺りがダケキガ淵だったようです。
 古戦場を堪能したので、島津義久が陣を置いた根白坂に向かいます。
 薩摩往還は、現在県道304号線となっています。
薄暗い坂を登っていくと台地の上に出まして、右側に「陣の内」というバス停がありました。
 この辺りに義久は本陣を置いたようです。
 バス停脇に解説板がありました。

陣の内の地名が残ります。

解説板

高城縄張り図

かつての大ノ馬場跡が小学校に
 木城を後にして県道312号線を南下。
西都からは県道18号線を走ります。右手にお城の看板を発見。
 都於郡城
(とのこおりじょう)
というそうです。ちょっと寄り道していきます。
 都於郡城は1335年、足利尊氏から都於郡を与えられた伊東祐重が築城したと伝わっています。
 伊東氏は伊豆伊東が発祥ですが、この時、伊東本家が都於郡に赴任して土着しました。
 城は1504年に城中から出火した火災でほぼ全焼したりしてます。
 都於郡城は佐土原城と並ぶ伊東氏の居城として栄えますが、伊東氏の没落とともに島津氏の持ち城となり、やがて一国一城令で廃城となっています。
 天正遣欧少年使節の正使、伊東マンショもこの城で生まれたそうですよ〜

 

お城の看板発見

解説板

本丸への看板
なんかちょっとシュールですな
 駐車場に車を停めて歩いて行きます。
 案内板が設置されているのでわかりやすいです。
 本丸までやってきました。お城はいわゆる南九州型(群郭式)と呼ばれる形式で、たくさんの曲輪があります。
 本丸は高い切崖の上にありました。

都於郡城鳥瞰図

本丸には伊東マンショさんの銅像が
 階段を登ると本丸です。
 伊東氏は240年の長きに渡って都於郡城を支配していました。
 ここからは16世紀頃輸入された中国の磁器の破片が出土しているそうです。当時の伊東氏は飫肥(港があった)を支配していたので、貿易に力を入れていたのでしょう。

本丸西側

本丸から北方を望む

本丸北側の奥の城を見る
 各曲輪は深い堀に囲まれていまして、独立性が高いのも群郭式の特徴です。
 本丸とその南側の曲輪は広々としていてました。広大な御殿が建てられていたのかな?と妄想してみました。
 かつては日向一国を治めていた伊東氏の栄華が偲ばれます。

本丸北側の高い崖

本丸南にも広い曲輪が

本丸と二の丸の間にある深い堀
 あまり時間もないので、本丸を一周しただけで、都於郡城を後にしました。
二の丸も高い切崖と土塁で囲まれています。

都於郡城鳥瞰図

吊り橋上
 都於郡からは県道18号線〜24号線〜26号線を走り、
照葉大吊橋
までやってきました。
 某北海道ローカル番組でも取り上げられていたので、一度来たいと思ってました。

谷を見下ろす

でっかいボルト
 余りの高さに相方さんは腰が引けていましたが、私はなんとかがんばりました。(^^;
 風が強いと結構くるものがありますね〜

下から見上げる

綾酒仙の杜
 なんかイベントやっていたので蔵元に寄って来ました。
 雲海酒造の綾醸造所がイベントやってました。
 ここは結構試飲ができていいですね〜
 あ、もちろん試飲したのは相方さんで、私は飲んでませんよ〜(笑)
 かなり残念でしたが・・・
 船内用に、鶏の炭火焼や焼酎を買い込みました。

鶏の炭火焼と、雲海のソーダ割り

お菓子の日高
 綾からは県道17号線で宮崎市内まで移動。
 エブリワンで朝ご飯のパンなどを買い込み、港近くのお菓子の日高へ。
 職場用のお土産を買い込み、 なんじゃこりゃシューを食べました。
 と、ここまではよかったのですが・・・
 宮崎港ターミナルに到着すると、なにやら不穏な空気が・・・
 接近する台風の影響で、3m以上の波予報・・・
 相方さんは船酔いしやすいので愕然としますが、臼杵までいったところで揺れることには変わりないので、乗船することにしました。
 案の定、宮崎港を出たとたんにかなりの揺れが!
 私は運転疲れですぐに寝てしまいましたが、相方さんは一度リバースしたようで・・・
気の毒でした
(^^;

なんじゃこらシュー
かなり大きいです。

不安の中、宮崎港を出港。

中はこんな感じ

紀伊山地から上る朝日
 紀伊水道に入ったあたりでようやく海が穏やかになってきました。
 昨夜の荒波が嘘のような晴天です。
なんだかなーって感じで、今回の旅も終わりを迎えました。

淡路島
中九州ひとめぐり 完
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