岐阜駅前の織田信長さん
 翌朝は快晴です。
 気をよくしてビジホで朝食中、急に腹痛が襲ってきまして。
昨夜食べた台湾ラーメンが辛すぎて、胃腸が受け付けなかった模様・・・
 しばし腹痛と闘います。しかし辛いもの食べると水戸様御領分がヒリヒリするんですなあ・・・
 ようやく腹痛も収まりまして、岐阜駅前を歩いて散策。
 前回訪れた時は工事中で殺伐としていましたが、すっかりきれいになってました。
 きんきらきんの織田信長像まで・・・・
えらく派手になったもんですな。

加納城縄張り図
 岐阜駅前を後にしまして、出発します。が、時間が早すぎて岐阜城ロープウェーがまだやってません(笑)
 先に加納城跡にやってきました。このHPに一度登場したこともあるのですが、再度の登場です。
 関ヶ原合戦後に岐阜城が廃止されまして、その代わりに築かれたのが、この加納城です。
1603年には初代城主となった奥平信昌(家康の婿、長女亀姫の夫))が入城しています。
 その後何回か城主が変わり、1755年に永井信陳が入った後は代々永井家が城主となって明治維新を迎えています。永井家の石高は3万2千石でした。
 加納城下は中山道の宿場町でもあり、大いに賑わったそうです。

加納城本丸北側石垣
 平城の悲しさ、城跡は市街地に飲み込まれ、学校の敷地だった本丸のみがかろうじて残されています。
 しかし本丸周囲の堀も埋め立てられ、グランドと住宅地になっています。

現在の加納城本丸
グランドになっています

本丸北西隅
 本丸内はかなりの広さです。
 本丸東側に外枡形があり、かつてはここに本丸大手門があったのですが、現在は通行することができません。

外枡形から本丸南東隅を見る
手前のグランドは堀跡

本丸南東石垣
右側が外枡形の石垣です。
手前グランドが堀跡です。
 お堀での残っていればまた違った風情なんでしょうけどねえ・・・
 周りはいたって普通の住宅街になってます。

「危険なボール遊び」禁止
って一瞬読んでしまいました。
どんなボール遊びやねん(^^;

御三階櫓(天守跡)石垣の右側は小学校
 加納城の御三階櫓(天守)は二の丸にありました。現在の岐阜気象台のあたりです。
 加納城の石垣はチャート石でして、あまりきれいではありません。

加納城石垣

加納城下の案内板
 加納城を跡にしまして、岐阜城へと向かいます。

加納城

あ、面白いバス発見!
 岐阜城への移動中、面白いバスを見つけました。
 織田信長のラッピングバスです。
 私は運転中なので、相方さんにがんばってもらいます。

そろそろと近づきます

おっと近寄りすぎ
 走行車線と追い越し車線の流れの違いもあり、なかなかベストポジションまで近寄れません。
 で、相方さんも必死に撮ってるんですが、ピラーが写り込んだり、なんだかんだでいまいちな写真ばかり(爆笑)
 バスは走り去ってしまいました・・・

あーあ、行っちゃった・・・

気を取り直して岐阜城からの眺め
白い伊吹山がとてもきれいです。
 落ち込む相方さんを慰め、ロープウェーで岐阜城を目指します。
 模擬天守展望台からの眺めは、相変わらずの絶景でした。
 白い伊吹山がとってもきれいでした。
 山の麓では、信長居館跡が発掘調査中でして。
 なんと庭園跡から川の跡が見つかったそうですよ。

信長居館跡発掘調査中

備長のひつまぶし
 岐阜城から県道287号線を走ります。県道93号線、205号線を走って県道17号線へ。
木曽川渡って県道192号、179号線を走ります。県道157号線を途中で左に折れて国道41号線にでました。
 ちょうどいい時間だったので、備長というひつまぶしのお店に入りましたが、ものすごい待ち時間でした。
 ようやくお昼にありつきましたが、ここだけの話、熱田蓬莱軒のほうがうまかったです(笑)

小牧山城周辺図
 なぜわざわざ国道41号までやってきたかといいますと、信長さんの居城だった小牧山城を訪ねるためでした〜
 近くまでは何回も来ているのに、訪問機会がありませんでした。
ようやく訪れることが出来ました。

小牧・長久手の戦
布陣図
 小牧山は標高80m余りの小高い丘でして、南北400m、東西600mの大きさです。
 ここを織田信長が居城としたのは1563年のこと。
徳川家康と清洲同盟を結び、三河方面の脅威がなくなった織田信長は、美濃国に勢力を伸ばすべく、本拠地を清洲から小牧山へと前進させました。
 美濃国を平定し岐阜城へと居城を移すまでの4年間、信長の居城であった小牧山城。
在城期間が短かったため、架設の城だったとも言われていますが、近年の発掘調査で本格的な土木工事の跡や城下町の遺構が発見され、長期滞在も予定されていたと考えられています。

小牧山麓の土塁断面図
 1567年に廃城となった小牧山城が、再び脚光を浴びたのは1584年のこと。
 織田信雄・徳川家康連合軍と、羽柴秀吉の軍勢が戦った際(小牧・長久手の戦いと呼ばれる)、徳川家康の本陣がここ小牧山に置かれました。
 緒戦で犬山城を攻め落とされ、尾張への侵入を許した家康が、この小牧山に本陣を置いたのは慧眼でした。家康は城跡に大規模な土木工事を施して要塞化したため、秀吉は手出しできなくなってしまいました。状況を打破すべく三河への中入りを試みますが、長久手で家康の追撃を受けて破れ、秀吉は直接対決で家康を破ることが出来ませんでした。

帯曲輪築発掘調査解説板
 山の麓は、塁で守られた帯曲輪に囲まれています。
 この土塁は信長時代の屋敷跡を整地し、堀を掘った土を盛り上げて急造されたことが分かっています。
 土塁の幅は12m、外側の高さは5mあったそうです。
 この帯曲輪には、将兵が詰めていたのでしょう。

帯曲輪

小牧山城城下町模型
 信長時代の小牧山城には城下町も築かれていました。
 城から南に1.5km、東西1kmの大きさで、城下町の南端には総構えの土塁と虎口が設けられていました。
 武家屋敷跡が発掘されていますが、武家屋敷は信長の岐阜移転後は畑地となり、町屋も上街道(名古屋城下と中山道を結んだ脇街道)沿いに宿場町として移転しました。
 宿場町は名鉄小牧駅の西側、上街道(木曾街道)沿いにありました。

城下町の解説板

城の東側、合瀬川沿いの土塁
 城の東側には合瀬川が流れ、堀の役割を果たしていました。
 合瀬川沿いに小牧長久手合戦時の虎口跡が残されていました。

合瀬川沿いの虎口跡

桜咲く
 この日は昼前から暖かくなり、公園には桜が咲いていました。

城南側の堀跡と土塁
 帯曲輪から主郭へと登っていくことにしました。
 山はそんなに高くなく、わりと気軽に登れました。
 かつてのお城は安土城と同じく主郭下までまっすぐに大手道があり、その両側に重臣達の屋敷が配置されていました。

かつての大手道

主郭へと続く土橋

主郭には石垣が築かれていたそうです
 遊歩道を上っていくと、尾根筋にでましてそこで右に曲がると主郭へと道が続いています。
 主郭付近では発掘調査が行われているらしく、所々にビニールシートが張られていました。

石垣の補修工事が行われていました。

主郭出隅部分の石垣
 主郭では石垣の痕跡が残っており、決して臨時の城ではなかったことが分かります。
所々に石組みが残っています。

模擬天守展望台が見えてきました。
 主郭には南東部と北西部に張り出しがあり、主郭に迫る敵に横矢を浴びせられるようになっていました。
 櫓が存在したと考えられています。
 主郭には資料館兼展望台の模擬天守があります。
 結構展示も充実しておりました。
おすすめです。

主郭南東部の張り出し
かつてはこの上に櫓があったと考えられています。

ようやく到着

小牧山城

小牧山城下
東側に商業地(元町)、西側に武家地(堀の内)の地名が残ります。

糸切り餅
 翌日まで休暇だったのですが、職場の送別会があったので、ここで折り返すことにしました。
 名神高速の多賀SAで、名物「糸切り餅」を買いました。
 おいしいですね。これ。

うちの近所にもあるんですが
 楽しかった旅もおしまい。
 翌日の晩ご飯は、相方さんが炊いてくれた「赤こんにゃく」でした。
大変おいしゅうございました。
ふらり歴史旅 近江・美濃・尾張編 完
2015.2.8作成
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