大根島が見えてきました
 ようやく松江市を出発しました。
 目指すは大根島です。
晴天続きで少し白くなり始めた青空の下を走ります。 

大根島を走ります

中海

江島大橋西詰め
(島根県側)
 大根島から江島に渡りまして、有名スポットにやってきました。
 最近、車のCMで有名になった
「べた踏み坂」
(江島大橋)です。
 以前にもこのHPで紹介したことあるんですが、かなりの急坂で有名な橋なんです。

さあ登りますよ

登坂開始〜
 この橋は島根県側で6.1%の登り坂でして、44.7mの高さまで登ります。
まあ軽自動車でもMTなら余裕で登るんですけど

頂上手前
 なんでこんな大層な橋になったかというと、この橋の下を船が通行できるようにするために高さをとった、ということらしいです。
ここから下り

境港市を見下ろします。
 鳥取県側は5.1%の勾配なんだそうです。
 橋を渡りきったら鳥取県境港市です。
この旅行で7県目に入ります。

ぎゅんぎゅん下ります。

隠岐の島行きの高速船
 境港からは隠岐の島行きの船が出ています。懐かしいなあ〜また行きたいんです〜
巡視船「おき」

はい、がんばります!(笑)
 境港は鬼太郎ロードで有名です。
この日は平日だったせいか、人通りもまばらでゆっくり回れました。

おい!鬼太郎!

ようかいトイレットペーパー
妖怪がプリントされています。
 初めて来たときは結構ひなびた商店街だったのですが、かなり観光地化していました。
ねずみ男

お昼ご飯
 民家みたいなお店でミニ海鮮丼のセットをいただきました。
 普通においしい食事でした。

食後のデザート
萩で買ったお菓子です。

蒜山に向かいます。
 明日はいよいよ雨の予報。
 鳥取市まで行って泊まろうかと思ったんですが、予定を変更して帰り始めることにしました。
 境港から国道431号線を南下。
米子城に心引かれつつ、県道53号線、国道181号線を南下。江府から国道482号線を走り、蒜山を目指します。
 安くあげるため(笑)、高速にはのらずに国道313号線を走りまして勝山までやってきました。

蒜山走行中

勝山
後ろに見える山は勝山城

出雲街道の道しるべ
 勝山は津山藩森家や松平家の領地でしたが、明和元年(1764年)に三浦明次が三河国西尾より二万三千石で入り、勝山藩を興しました。
 勝山には城がなかったため、中世の勝山城を再興して居城とし、城下町を開きました。

西本店

西本店酒蔵
 勝山は旭川水運の終着地で、山陰山陽を結ぶ交通の要衝として栄えました。
 古いたたずまいを残す西本店は、文化元年(1804年)創業の古い蔵で、三浦家にお酒を献上していたそうです。
 今も「御前酒」を造ってますが、三浦家に献上していたことにちなんだ命名なんだそうですよ。

みごとな鏝絵です。
 今は岡山県初の女性杜氏さんが酒造りをしているそうです。
 やはりかなりなお金持ちだったようで、蔵には見事な鏝絵が残されていました。

岡野屋
 旭川に面して岡野屋という旅館がありました。
 創業は明治時代とのことですが、2003年に閉館となりました。
 今は建物保存の動きがあるようです。

旭川に面して建てられています。

旭川に面した町屋が続きます。
 ここから積み込まれた荷物は、旭川を下って岡山まで運ばれ、またここまで運ばれた荷物は、ここから出雲街道を通って山を越え、山陰地方へと運ばれていました。
 往時を偲ばせる建物が数多く残っていますよ〜

町並み

勝山城三の丸跡
 真庭市勝山支所のあたりに、かつて勝山城三の丸がありました。
 発掘調査が行われ、室町時代から江戸時代初期までの遺構が確認されているようです。
 三の丸見学は、勝山支所の前に観光用の駐車場ありますので、そこに駐めるのが便利ですよ。

解説版

解説版
 勝山城の歴史は古く、鎌倉時代までさかのぼります。
 神奈川県三浦半島出身の三浦家がこの地にやってきて築城したようです。
 室町時代前期には、この地に住んでいた三浦高継足利尊氏とともに湊川合戦に参加しています。

勝山城縄張り図

二の丸跡はグランドに
 時代は下って戦国時代。三浦貞勝の頃、備中の三村家に攻められたため、妻の「お福」は備前に逃れ、そこで宇喜多直家に召し出されて秀家を生んだ、と言われています。
櫓台跡

縦掘跡
 1575年に勝山城は毛利・宇喜多連合軍に攻められて落城。美作三浦家は滅亡します。
 その後、毛利、宇喜多、小早川、森家と領主が入れ替わり、最後に三浦家が入って明治維新まで続いています。
 勝山城本丸と出丸、およびその麓にある三の丸からなり、江戸時代に三浦家が城を復興した際に二の丸に二重櫓が1基建てられたようで、櫓台が残っています。
 二の丸跡がグランドになっているようなので、まずはそこを目指します。
 グランドへの入り口はわかりにくくて、一回素通りしてしまいました・・・
 Uターンして再チャレンジ。
グランド脇に車を駐めて城跡を巡ってみました。
 登山道が整備されていたようなんですが、大雨でも降ったのか通行止めなどがあり、かなり荒れていました。
 本丸はかなりの広さがあるようで見てみたかったのですが、道が荒れているためにあきらめて引き返しました。
 また時間のあるときに再チャレンジです。

山道

宿からの景色
 今夜のお宿は美作湯郷。
 晩ご飯までに宿に着かないといけません(^^;
ゆっくり城めぐりしてたら時間が押してきました。16:00に勝山出発。
 久世ICから高速に飛び乗って、中国道を東へ東へ。
 美作ICを降りまして、国道374号線を南下。17:30、ようやくお宿に着きました。
 温泉入って晩ご飯。けっこうおいしかったですよ〜
 さて、明けて翌日。天気予報どおりお空はどんより曇ってました。
朝ご飯をすませて出発します。

本丸手前にある
縦堀の跡
 しかしすーっとは帰らない訳で(笑)
 湯郷から国道374号線を南下し、赤磐市周匝(すさい)を目指します。
 周匝は美作・備前国境に位置し、吉井川・吉野川の合流地点でもある交通の要衝でした。
 ここ周匝に城が築かれたのは室町時代の頃。笹部勘解由の築城と言われています。
笹部氏は周匝から9キロ下流にある天神山城の浦上宗景に従っていましたが、浦上宗景宇喜多直家に攻められて滅び、周匝城も落城しました。
 江戸時代に入り、池田光政が備前岡山城主となると、周匝は片桐池田家の二代目、池田伊賀守長明(池田恒興の四男である長政の子)が二万二千石で入り、以後明治維新まで続きました。
 長明はよくできた人物だったようで、光政が長明の子に「お前の父ちゃん偉かった」と諭した記録があるようです。
 それはさておき、周匝城へは城の北側にある吉井B&G海洋センターから車で上がれます。本丸手前などにに数台の駐車スペースがあるので、そこに駐車できますよ。

本丸跡からの眺め
 周匝城の本丸跡には模擬天守が建てられていて旧状をとどめていません。
 模擬天守内部は展望台と展示室になっているようですが、朝早すぎて開いていませんでした〜
 周匝城は吉井川に突き出した尾根の先端部に本丸が置かれ、北西部に続く尾根筋に二の丸が置かれていました。先ほど車を駐めた駐車場は、本丸と二の丸の間にある鞍部にあります。

本丸への入り口
 のぼりに「茶臼山城」とありますが、周匝城は茶臼山山頂に築かれたのでこの名前でも呼ばれています。
模擬天守

帯郭跡
 本丸の周囲には帯郭が築かれていました。
帯郭から本丸を見る

帯郭跡から吉井・吉野川合流点を見る
 周匝城から見下ろすと、この場所が交通の要衝であることが改めて実感できます。
井戸の跡?

駐車場
向こうが二の丸
 車に戻って二の丸に向かいます。
 先ほども書いたように、本丸と鞍部をはさんで尾根続きの場所にあり、いくつかの郭に分かれています。
 本丸に面したところが一段高くなっています。

二の丸入り口
 二の丸からさらに20mほど尾根を西に向かうと、「空のお塚」と呼ばれる場所があります。
 ここにはなんと歴代片桐池田家当主とその妻たちのお墓が並んでいます。
 山上にあるので「空のお塚」というわけです。

片桐池田家二代目
池田伊賀守長明の墓
 本丸に近い方から、長明(二代目)、長久(三代目)と正室、長喬(四代目)と正室、長つね(五代目)と正室、長宗(長つね弟)、長仍(ながゆき、六代目)と正室、長玄(ながよし、七代目)と正室の順に並んでいます。
周匝領主としては初代にあたる方です。
お母さんは加藤嘉明の娘でした。

大仙山城址て聞いたことないな・・・
 お墓の看板を見ていると、大仙山城址という看板を発見しました。
 聴いたことないお城なので、こちらも見ていくことにしました。

大仙山城址に向かいます。

空堀の底を歩きます。
 道は地元の方が整備してくださっているらしく、とても歩きやすい道でした。
 また入り口のところにはわら半紙ではりますが、茶臼山城、大仙山城の資料が置かれていて、大変参考になりました。
 空のお塚から尾根筋を北に歩くと、尾根の突端が幾重にも堀切で断ち切られており、そこから尾根を下っていきます。

堀底から城を見上げる。

城南側にある帯郭の土塁
 降りきったところに空堀があって、その底を通って大仙山城に向かいます。
城南側には縦堀が幾重にも掘られています。

虎口への上り坂
 帯郭を抜けていくと城に向かって上り坂があり、登り切った先の土塁が途切れていて虎口になっていました。
大仙山城虎口

虎口の正面に土壇があり、
そこが主郭だったようです。
 虎口を入ると正面に土壇があり、少し盛り上がっていました。ここが主郭だったようです。
 主郭を取り囲むように堀跡らしいくぼみがあり、さらに帯郭が広がっていました。

帯郭にある井戸跡
炭焼き窯の跡の可能性もあるようです。

帯郭に残された土塁上を歩きます。
 主郭の縁には今なお高さを残す土塁が残っていました。かつてはどれくらいの高さがあったのでしょうか?
 登城ルート頭上には突き出している部分があり、攻め手を頭上から攻撃できるようになっていました。

土塁の上から空堀の底を見ます

主郭南側にある堀跡。
水が溜まっていた形跡あり。
 主郭北側には水たまりのある郭が二段ありました。
 水手郭だったのでしょうか?

主郭下にあった水たまり
ため池かもしれない。

主郭下の水たまり
水手郭?は二段に分かれており、城内の生活用水をまかなっていたのかもしれないです
 似たような構造の水手郭を三河大給城でみました。
 意外と同じものかもしれません。

水手郭?を囲む土塁

大仙山城から茶臼山城を見る
 大仙山城から深い谷をはさんで茶臼山城を見ることができます。
 二つの城がどういう関係にあるのか、文献もないためよくわかっていないようです。
 しかし国境の城にふさわしく、かなりの規模をもったお城でした。

陣屋跡の石垣
 もっとも平和な江戸時代には山上のお城は使われておらず、山下にあった陣屋(現:周匝保育園)が使われていました。
 七代目、八代目のお墓も山下にあります。

こちらも同じ

茶臼山を見上げる
 いよいよ雨が降ってきそうだったので、周匝城を後にしました。
いよいよ旅もおしまい。あとは中国道を経由して帰宅しました。
走れ!れんと山陰へ 完
2014.9.7作成
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