翌朝はどんよりと曇り  翌朝は国道19号線を恵那市まで戻りました。
 が、このまま帰宅するのはもったいないような気がしまして、壮大な寄り道をすることにしました。
 

阿木川湖

明知鉄道いいはま駅
 恵那市で国道257号線へと入ります。
 阿木川湖を過ぎて岩村へと向かいます。
 左手に明知鉄道を見ながら南下。飯羽間駅を通過します。
 苗木城主であった遠山友勝飯羽間遠山家の出身でした。

なにかを干してました。
 飯羽間で国道を外れ、あたりをドライブ。
 稲刈りの終わった田んぼで、白い何かをしきりに干していました。
 なんだったんでしょうかねえ?
 国道に戻り、岩村城の麓を回って南下を続けます。
 苗木城を攻め落とされた遠山友忠は、三河に落ち延びたと言います。
 この道を通ったのでしょうか。
 矢作川を渡ると愛知県です。
 この川を下ると岡崎に出ますから、恵那地方と三河は意外に近いのです。

愛知県に入ります。

国道257号
 国道257号線はまもなく飯田街道(国道153号線)と交差します。昔この道を通って信州に行ったことがあるはずなんですが・・・
 設楽町を過ぎてさらに南下。
 長篠までやってきました。

国道257号線

長篠合戦関係地図
 長篠と言えば、織田・徳川勢と武田勢の激戦の地です。
 ことは、武田勝頼総大将の武田勢1万5千(諸説あり)が、長篠城を包囲したことに始まります。
 長篠城の城主は奥平貞昌でした。

長篠城付近の地図解説板

長篠城縄張り図
 貞昌は500の寡兵ながら、城を守ってよく戦います。
 が、衆寡敵せず兵糧蔵を奪われてしまい、落城目前まで追い込まれます。
 この時、包囲を破って援軍要請に出たのが有名な
鳥居強右衛門

 岡崎まで出向いて織田・徳川勢の応援を確認し、包囲下の長篠城に戻ろうとします。
 が、捕らえられしまった強右衛門。
 「援軍は来ない」と城内に向かって言えば命を助けると言われ、長篠城近くまで連れて行かれます。

長篠城碑

二の丸から本丸北側土塁を見る
窪地は堀跡です。
 が、強右衛門は城内に向かって
「援軍は来る!」

と告げたため、怒った武田勢に処刑されてしまいました。
 援軍が来ることを知った長篠城守備兵の士気は上がり、見事城を守り抜きました。

廃城になって400年余り、
今なお高さを誇ります。

本丸内
向こう側に北側の土塁が見えます。
 長篠城は二つの川の合流点に建てられています。
 城の南側と東西は川と断崖絶壁に守られていました。
 城の北側は地続きであったため、高い土塁と幾重にも掘られた堀で守りを固めていました。

JR飯田線が城内を走ります。
その向こうに見える橋が、
建設中の新東名道です。

長篠城
 が、やはり城の北側から攻められ、兵糧倉を攻め落とされて落城寸前まで追い込まれています。
 さて、長篠城本丸跡からは鳶ヶ巣山が見えました。
 意外な近さでして、すぐ目の前にあります。
 長篠合戦本戦に先立ち、酒井忠次率いる別動隊が攻め落としたのは、この山にあった砦でした。

本丸南側、川の対岸が鳥居強右衛門
磔の地と伝わっています。

断崖の下には川面が見えました。
 長篠城は、永正5年(1508年)に今川氏親(今川義元の父)に従った菅沼元成による築城と伝わります。
 元成の子孫である長篠菅沼家の居城となりますが、今川家の没落後は徳川家と武田家の係争地となり、菅沼家ははじめ徳川家に、ついで武田家に従います。
 信玄没後、長篠城は徳川家康に攻められて落城。
 家康は武田家の三河進入ルート上にある長篠城を強化します。
 そして城主に奥平貞昌を据え、長篠合戦の舞台となるのです。
 長篠合戦後、貞昌は新城城を築いて移り、長篠城は廃城となりました。

城内を流れる川
滝となって豊川に落ち込んでいます。
 上記の城縄張り図でも分かるように、城は北側の守りが弱く、しかも大通寺山に陣をおいた武田勢から、城内が丸見えです。
 武田勢1万5千の兵で攻城戦を挑めば、さほど手間取らずに攻め落とせたことでしょう。
 一説には武田勢は長篠城を包囲することにより、徳川家康の後詰めを引き出し、主力同士の決戦を挑む計画であったと言われています。
 結構説得力ある意見ですね。

本丸北側堀跡
 当時、配下の城が攻められた場合、大名は必ず後詰め(援軍派遣)を行い、配下の豪族を守るものとされていました。

本丸から二の丸を見る。

本丸から大通寺山を見る
 後詰めが出来ない場合、その大名は配下を守る力を持たないとみられ、配下の豪族たちの忠誠心を失ったのです。
 このため、敵の主力を誘引するため、配下の豪族の居城を包囲するという作戦はよく行われていました。
 長篠合戦の過程もそのシナリオ通りなのです。

本丸北側の堀跡

長篠合戦跡地にある馬防柵(復元)
 さて、武田勢は織田・徳川勢主力の誘引に成功します。
 織田信長は長篠城西方の茶臼山に、徳川家康は弾正山に陣を敷きます。
 武田勢もそれに合わせて長篠城の囲みを解いて陣を移動します。

武田勢から見たらこうかな?

上州(群馬県)産の矢立硯発掘場所
矢立硯とは携帯用の筆記用具で、
当時の上州は武田家の領地でした。
上州出身の武田家の武士が身につけていたものだと
考えられています。
 この設楽原あたりは南北に連なった小山がさざ波のように東西に並んでおり、双方その小山の上に陣を置いたのです。
建設中の新東名が古戦場跡を横切っています。

設楽原合戦陣図
双方南北に連なる小山の上に陣を敷いたことがよく分かります。

解説板
 設楽原合戦に先立ち、酒井忠次率いる別動隊が鳶ヶ巣山砦を奇襲。
これを攻め落とし、さらに長篠城の押さえとして配置されていた部隊も追い払います。
 これによって武田勢は退路を断たれた形となります。
 が、武田勢は前進。織田・徳川勢に攻撃を開始します。
 退路を断たれ、兵力も少ない武田勢がなぜ攻撃したのか?
いまだによく分からないようです。

織田勢の陣地
空堀と柵を構えて敵の前進を妨げ、
その後方の銃眼付きの土塁の影から砲撃したと
考えられています。
 攻勢の武田勢に対し、織田勢は馬防柵他の野戦陣地を構築しており、これに寄って迎え撃ちました。
織田勢から見た武田勢の陣
正面のくぼみに鉄砲を据えて射撃したのかな?

土屋正次討ち死にの地
土屋正次は三重に構えられた柵を
二重まで打ち破ったところで一斉射撃を受けて
討ち死にしたと言われています。
 設楽原合戦では、織田勢が有名な「鉄砲の三段撃ち」で武田勢を破ったとされていますが、今では三段撃ちはフィクションであったと考えられています。
 しかし織田勢がこの合戦に大量の鉄砲を持ち込んでいるのは間違いなく、防御陣地と強力な火力で武田勢を破ったのでしょう。

羽柴秀吉陣入り口にある小さな看板
 が、一つ気になるのが羽柴秀吉陣の位置です。
 主君の織田信長陣よりも後方に構えています。

秀吉陣前から主戦場を見る
が、新東名に遮られて見えません(^^;
前に見えるのは信長が陣を敷いた茶臼山

看板から歩いて登った小道の先に石碑が
 これについては、漫画ではありますが、「センゴク天正記」で、あえて一列目の陣を武田勢に破らせ、信長本陣をめがけて突出してきた武田勢を包囲して十字砲火を浴びせ、殲滅したという解釈を紹介しています。
 意外と正解なのかもしれませんねえ。
 壮大な寄り道もこれにておしまい。
 一路自宅に向かって帰宅の途につきました。

ここに羽柴秀吉が陣を敷いたそうです。
ふらり歴史旅 近江・美濃・尾張編 完
2015.5.17作成
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