国道3号線から佐敷城を見上げる。 石垣が立派です。 |
翌朝、ホテルの朝食を平らげて出発。 八代から国道3号線を南下。 日奈久温泉を通過して芦北町佐敷までやってきました。 ここ佐敷は薩摩街道と相良往還の交点で、八代海に面して港をもつ交通の要衝であったことから、南北朝時代から係争地でした。 南北朝時代は八代の名和氏と、人吉の相良氏が争いましたが、相良氏が佐敷を含めた芦北地方を支配しました。 その後、相良氏は北上してきた島津氏に芦北地方を奪われ、島津氏は佐敷を宮原景種に守らせました。 豊臣秀吉による九州平定のあと、芦北は佐々成政、ついで熊本の加藤清正の飛び地領となり、清正は現在の場所に総石垣の佐敷城を築き、加藤重次を城代としました。 朝鮮出兵の際、加藤重次が従軍して不在の隙をついて、島津歳久の家臣である梅北国兼に奪われますが、加藤重次の弟井上吉弘が佐敷城奪還に成功しています。 |
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佐敷城の鳥瞰写真 お城の解説板から |
お城は佐敷川に三方を囲まれた城山の頂上に築かれていまして、その麓を走る薩摩街道を押さえる位置にあります。 | 佐敷城入り口 |
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佐敷城本丸石垣 |
今回三度目なので、迷うことなく佐敷城の入り口までたどり着きました。 入り口には数台分の駐車場があるので便利です。 さっそく登り始めまして、石垣下までやってきました。 佐敷城は典型的な一二三段のお城でして、尾根つながりの南側から三の丸、二の丸、本丸が置かれています。 |
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本丸北側にある西門 |
駐車場から遊歩道を上ってくると、本丸北側にでます。 本丸の搦め手になる西門を見つつ、城の東側に回り込みます。 |
西門石段 |
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本丸北側の石垣 |
本丸北側には帯郭状の犬走りのようなところがあります。 |
その北側に埋もれている 破却されたらしい石垣の残骸 |
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東側から本丸北面を見る |
その外側には石垣が多数埋もれていまして、結構見所があります。 |
本丸下、東北にある出丸から大手門を見る |
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佐敷城追っ手門(大手門) |
本丸下東北隅には出丸状の場所があり、そこから遊歩道を南に歩くと佐敷城追手門前に到着します。 | 佐敷城大手門 |
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大手門跡 |
佐敷城は薩摩街道側の東側が正面のお城です。 大手門跡からは「天下泰平」銘の瓦が出土しています。 |
大手門跡 幅は2〜3mくらい? |
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二の丸大手門 |
大手門を登るとややずれた場所に二の丸大手門があります。 この場所はあまり幅がなく、大人が2,3人も並べばいっぱいだったと思われます。 |
二の丸大手門前から三の丸を見る |
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二の丸大手門 |
二の丸大手門も左に折れがあり、そこに門が築かれていたようです。 | 二の丸大手門跡 礎石があり、脇戸もあったようです。 正面の石段は意識的に幅が狭められています。 |
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二の丸から本丸を見る |
二の丸は細長い台形で、本丸側が広くなっています。 | 二の丸から三の丸を見る |
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登ってきた二の丸大手門を見る |
二の丸東側を北に突き当たったところに本丸への虎口があります。 | ||
本丸大手門 ここも脇戸を持つ立派な門があったようです。 |
二の丸から来て左に折れた正面に門が築かれていたようです。 小さいながらも枡形状の空間があり、その奥に狭められた石段がありました。 |
本丸への石段 |
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東西を結ぶ通路 |
佐敷城の本丸は真ん中を東西に走る通路で分割されていました。 その両側に登りの石段が築かれていました。 |
本丸から二の丸大手 その下には薩摩街道と佐敷川 |
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本丸大手門を見下ろす |
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鏡石垣の解説 |
本丸跡には埋め込まれていた石垣も展示されていて、解説板もありました。 |
埋め込まれていた鏡石垣 |
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本丸から二の丸を見る |
今回は相方さんもいませんので、心ゆくまで城跡を堪能できます。 | 本丸から八代海を見る |
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本丸東西通路に戻って |
本丸を後にして西側から降りていきます。 | 今度は西側におります。 |
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本丸から西側に降りていく石段 |
本丸から降りてくると、左に二の丸、右にとても小さな門の跡があります。 | 西門跡 |
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大人一人がやっとの狭さ |
こんな小さな門ですが、折れが設けられて直進できないようになっています。 執拗なまでの守りです。 |
西門石段 |
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本丸西側を歩く |
本丸西側を歩いて二の丸にやって来ました。 なにかを貯蔵するための穴があったそうです。 |
貯蔵穴の解説板 |
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本丸西側の石垣 |
二の丸西側には小さくて急な石段がありました。 | ||
かつてはもう少し高さがあったでしょう |
その石段を降りたところは、とても幅が狭い犬走り状の場所でした。 | 二の丸西側石垣 |
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三の丸の二の丸下西側には虎口の跡らしい石垣が残っていました。 正面を二の丸石垣から伸びた袖石垣で遮っています。 かつては右側に通路があったのでしょう。 |
袖石垣?蔀石垣かな |
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三の丸石垣 石塁状になっています。 |
あとは三の丸を少々見物してきました。 | 三の丸下から大手門を見る |
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三の丸下から城を見る |
これほど立派な佐敷城も、元和の一国一城令で破却され、島原の乱後にもう一度破却を受けて消滅しました。 | 城下の集落にあった出土瓦の巨大なレプリカ |
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佐敷城の縄張り図 (現地の解説板から) |
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グランドの奥が水俣城 |
さらに国道3号線を南下しまして向かった先は水俣。 不名誉な病気で有名な水俣ですが、肥薩国境の要として水俣城が築かれていました。 |
グランドの脇に石垣跡が!! |
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木の根が食い込んでますが石垣です。 |
水俣市の中心にある標高30mの丘に築かれたお城でした。 | 破却された石垣 |
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コンクリート製の石段で登っていきます。 |
水俣城は1385年の文献で確認ができる古いお城で、かつては水俣氏のお城でした。 やがて芦北を支配した人吉の相良氏の領地となりますが、天正年間には島津氏の侵攻が始まり、犬童頼安(相良氏重臣)が籠城しますが、芦北地方は島津氏の支配するところとなり、水俣を去っています。 |
石段の両側には石垣らしい痕跡が |
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発掘跡?にも石がごろごろ |
秀吉による島津征伐後、豊臣家の直轄領となりますが、短い期間で領主が入れ替わり、最終的に熊本の加藤家の城となります。 | 城山から新幹線が見えます |
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水俣城の向かいにも小高い丘が |
が、元和の一国一城令で破却されてしまいました。 |
本丸跡? かなり狭いです。 |
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本丸隅には石碑が |
城はシラス台地上に築かれたらしく、浸食・崩落が進んでいる様で、かなり狭くなっていますが、残存している石材の多さを考えると、総石垣に近いお城だったようです。 | 相良氏と読めます。 水俣城の歴史ろを記しているっぽいです。 |
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古井戸跡 |
対島津の最前線のお城ですから、かなり頑丈に築かれていたのではないでしょうか? 城跡には井戸跡が残っていました。 といっても半分えぐられて中見えちゃってますけど。 |
城内で唯一の遺跡らしいです。 |
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桜が咲いてのどかな雰囲気 |
城内には桜も咲いてのんびりした雰囲気です。 | 古い石碑発見 |
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解説板 |
城跡には何軒か民家もあり、公園にもなっていて一見城跡には見えなくなっていました。 | 発掘されたらしい石垣 どうも角石のようです。 |
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矢穴が残っていました。 |
お城を見つけるのにちょっと苦労したのは内緒です。 でも発掘調査が進んでいるようで、今後の研究が楽しみですね。 |
西南戦争時に戦場になったらしく、 薩軍慰霊碑がありました。 |
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こちらは日清〜大東亜戦争の戦死者慰霊碑 |
この日も風は冷たかったですが暖かい日差しで春を満喫しました。 | お城の向かい山から水俣城を見る |
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水俣城 川に挟まれた丘陵上に築かれてます。 薩摩街道への押さえの城でした。 |
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もう春です |
そろそろ帰り始めますかね。 水俣からは国道268号線を快走。 伊佐市に入ります。 |
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伊佐市では行きがけの駄賃とばかりに忠元神社に参ってきました。 |
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調所広郷が奉納した手水石 |
新納忠元は島津家の重臣で、大口城主として関ヶ原合戦後の肥薩国境を固めました。 その死は悼まれて神様になりました。 二才咄格式定目を定めたことでも知られる有名人で、武だけでなく、文にも優れた武将だったようですよ。 |
花見祭りの準備中 |
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お昼ご飯。 |
伊佐市からは国道268号線、県道55号線、国道504号線と継いで鹿児島空港へ。 お昼ご飯はざぼんラーメン食べました。 このあと、日当山温泉、お友達のsyunさんちにお邪魔しつつ、志布志港から乗船。 九州に別れを告げました。 |
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晩ご飯はスパムおにぎり 今はなきエブリワンで買いました |
今はなきコンビニエブリワンで買ったお弁当を船内でいただきました。 なんでよりによってファミマに買収されちゃうかなあ・・・ |
お土産いただきまして |
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201503九州城巡り 完 | |||
2017.1.16作成 | |||
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