竹内街道の石碑
 正月早々の街道旅からわずか1週間後
 再び南海電鉄堺駅に降り立った我々。本日6:00起床と気合い入っております。
本日は紀州街道のゴール、大阪市にある高麗橋を目指します。9:20、スタートしました。
 堺駅から堺東駅までまっすぐ続く道路は大小路といいまして、堺市のメインストリートなのですが、これがかつての摂津・和泉国の国境なのです。
 国境にできた街、すなわち「堺」の由来です。
 かつて堺と大坂は地続きだったのですが、江戸時代(1704年)に大和川の付け替え工事が行われて分断されました。
 明治4年(1871年)には摂津・和泉の国境は大和川に変更になり、現在の大阪市・堺市の市境となりました。

解説板
 さて、その大小路は竹内街道のルートでもありまして、堺警察署のある交差点で紀州街道から分岐しています。
 この竹内街道、日本最古の街道とも呼ばれていまして、堺から竹内峠を越えて飛鳥の都を結んでいた街道なのです。
 この街道も歩いてみたいですねえ。

旧堺港の灯台

開口(あぐち)神社
 近くにあった開口神社にお参り。
 堺南組(大小路より南側)の氏神さまです。
 歴史は古く、神功皇后による創建だそうです。
 堺商人の崇敬篤く、天文4年(1535年)には堺南荘の豪商110名余りが一貫文づつの寄進をしているそうですが、武野紹鴎千利休などの名前があるそうです。
 太平洋戦争末期の空襲で本殿や1663年築の三重の塔が失われました。
 が、いまだに堺のみなさんの崇敬は篤いそうで、例祭にはふとん太鼓が引き出されて大いに賑わいます。

別名「大寺(おおでら)さん」と
呼ばれます。

天神餅のお店
 開口神社で道中の無事などを祈願したあと、北上を開始します・・・が、寄り道しまくりで前には進みません(笑)
食べてみました。

ふじ?!
 道ばたに変わった道標を発見。堺の街中でふじとはいかに?!
 種明かしをしますと、妙国寺への道標なのであります。
 妙国寺は交易で栄えた堺の迎賓館的な役割を持つ寺として天正11年(1583年)に完成しました。
 本能寺の変の際、徳川家康はここ妙国寺に宿泊しており、ここから伊賀越えをして三河を目指しました。

右 そてつ?!

左 大坂とあります。
 他、慶応4年(1868年)の堺事件の際、土佐藩士が妙国寺境内で切腹しています。
 なので左の写真にあるように、土佐藩士11名の墓所の石碑が並んで立っています。

妙国寺本堂

道をはさんで向かい側にも石碑が
明治36年のものです。
 この妙国寺は庭園が有名でして、庭園にある富士と、信長縁の大ソテツが特に知られています。
 先ほどの道標はその名物を案内するためのものなのです。
 お金払って庭園を見物してきました。
 住職?さんのお話が長くて大変でしたが、庭園は見事でした。
 堺事件で切腹した土佐藩士が使った血染めの三方などが展示されていまして、ちょっとおっかなかったです。

こちらが土佐藩士の墓
妙国寺から道を挟んだ北側、
宝珠院と幼稚園の園庭にあります。

中には入れませんでしたが、
こんな感じで墓が並んでいるそうです。

榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門
屋敷跡
 その後も寄り道が続き、ザビエル公園に行ってみたり、堺伝統産業会館包丁を買ったり
 ちっとも前に進みません。
 堺は刃物の街として知られますが、これは鉄砲鍛冶の流れを汲んだもの。
 大坂の陣のとき、徳川家康の発注で大筒や鉄砲千丁を製造した芝内理右衛門の屋敷跡など見物しました。

聞いたことないメーカーの
ホーロー看板

うだつのある町屋
一階部分は改修されています
 この時点ですでに11:15。2時間押してしまいまして、慌てて歩き出します。
 堺は空襲に遭ったため焼け野原になったそうですが、古い建物がところどころに残っています。

こちらは昭和初期?

鉄砲鍛冶屋敷(内部非公開)
 鉄砲鍛冶屋敷です。こちらは江戸時代前期の建物なんだそうで、土間には大ふいごなどがあるそうです。
 堺は国友と並んで鉄砲の街でした。

こちらはお香のお店

鏝絵です。

会社の事務所だった感じ
 ようやくまじめに歩き始めまして、阪堺電鉄が紀州街道から外れるところを通過しました。
 道幅がまた狭くなりまして、街道らしい雰囲気が戻ってきました。

こちらは刃物屋(鍛冶や)さん

紀州街道
 細くなった街道を北上すると、やがて道は堤防に突き当たり、横に堤防上に折れます。
 この堤防が大和川の堤防
 江戸時代から続く大和橋が架かっていました。
 宝永元年(1704年)に大和川付け替えに伴って架けられた公儀橋(幕府管理橋)でした。
 住吉大社のお祭りでは数百人が神輿を担いでここを渡り、その松明の火は対岸の西宮〜明石からも見えたとか。

大和橋
幕末には幕府もお金が足りず、
かなり荒れていたとか。
大正5年にようやく鉄橋になったそうで、
現在の橋は昭和49年のもの。

大和橋から大阪市内を見る
 明治以降国道だったという橋を渡り終わると、そこは大阪市です。
大和橋北詰にある小さな川の橋

大阪市のマンホール
意匠は大坂城天守
 住之江区安立を歩くと街道がアーケードの商店街になりました。
 めちゃ安いドーナツとか魅力的な商品がいっぱい。
 さすがは大阪だなあと思わせます。
 ここ安立は半井安立軒元成(なからいあんりゅうけんもとなり)というお医者さんが住んでいたことに由来する地名です。
 かつては住吉郡安立町でした。

町屋

町屋

町屋
 ところどころに旧家があって楽しい商店街でした。
 まだ生きている商店街でしたよ!

町屋

霰松原の碑がある公園
安立町の役場跡なんだそうです。
 この安立はかつて霰松原(あられまつばら)と呼ばれていたそうで、天武天皇の第4皇子長皇子(ながのみこ)が詠んだ和歌に由来します。
 奈良・平安時代は海岸で堺まで松原が続き、風光明媚な場所だったそうです。
今は絵に描いたような下町なんですけどね。

大きな木がありました。

住吉大社
日本書紀の頃から続く神社です。
 旧安立町を抜け、国道479号線を渡り、細井川を越えると有名な住吉大社です。
 摂津国一の宮で本殿などは国宝になっています。
 海の神様が祀られてまして、航海の安全祈願などで有名な神社です。

住吉大社
ここから船が出入りしていたそうです。

住吉大社
 このあたりは古代は潟湖が広がる天然の良港だったそうで、海の神が祀られるのにふさわしい場所でした。
 この日は正月明け最初の週末ということもあって、参拝客が歩道からあふれて車や阪堺電車が往生してました。

縁起焼きのお店
 住吉大社北側にあるお店で気になるお餅をゲットしました。
 太宰府にある梅ヶ枝餅にそっくりのお餅でした。
 おいしかったです。
 時刻は12:45。お腹空いたので、通りにあったパン屋さんでクロワッサン食べました。うまかったです。

太宰府の梅ヶ枝餅にそっくりでした。

住吉大社北側の
紀州街道の様子
 紀州街道は住吉大社の前で再び阪堺電車と合流して道が広くなります。
 住吉大社より東側は少し高台になっていて、帝塚山などの高級住宅街になっています。
 紀州街道のあたりはかつて海岸線だったところで、現在は下町になっています。
 街道は南海電鉄高野線の高架下をくぐるあたりで再び阪堺電車と分かれます。
 高架下をくぐったあたりが、駅名にもなった天下茶屋のあった場所です。近くに阿倍野神社があります。(安倍晴明ゆかりだそうで)

天下茶屋跡の碑
このあたりのわき水は水質がよく
茶屋がありました。
住吉参拝のおり、豊臣秀吉が茶屋に
立ち寄り、わき水で点てたお茶を激賞
したことから「天下茶屋」
と呼ばれるようになり、
地名になりました。

通天閣
新今宮駅北側から撮りました。
 紀州街道をさらに北上。
 天下茶屋の駅を過ぎ、萩ノ茶屋あたりから街の雰囲気が微妙に変わってきます。
 いわゆる「あいりん地区」と呼ばれる地域になります。
 このあたりは大坂の町外れにあたり、大坂に流入してきた人々が住み着いてできた街なんだそうで、日雇い労働者が暮らす簡易宿所がたくさんあり(ドヤ街と呼ばれる)、日雇い労働者向けのお店がたくさんある場所です。
(お弁当安かった!)
 かつてはお世辞にも治安のいい場所とはいえず、私が学生の頃には暴動なんかもありまして、なんというかちょっと行けない場所でした。
 最近は簡易宿所の安さが海外からの観光客の人気を集めているようで、すぐ近くのジャンジャン横町も含めて街の雰囲気が変わってきています。
 が、用心にしくはないので写真は撮らず、相方さんと二人で早足で駆け抜けました。
 西成警察署は鉄柵で囲まれて要塞のようだった、とだけお伝えします(笑)

十萬堂跡の碑
小西来山は平野町に生まれた俳人で
晩年を今宮に建てた十萬堂で過ごしました。
その十萬堂跡の碑です。
 新今宮駅のガード下をくぐると少し雰囲気も変わりまして、ちょっと安心です。
 ここからは右手に通天閣が見えます。
 国道25号線を横切るとかつてのホームグランド?日本橋です。
かつては電気屋街で、私にとって夢のような街でした。
 今は東京秋葉原と同じくオタクの街になってまして、さらにアジアからの観光客も多くて雰囲気が一変しています。
 この日もたくさんの人出で歩きにくかったです・・・

黒門市場入り口
この時はもうすぐご飯だ!
とワクワクしていたのですが・・・
 さて、この時点でお昼はとっくに過ぎていたのですが、ここまでお昼ご飯をぐっとこらえていたのは、黒門市場でなにか食べようと期待をふくらませていたからです。
 黒門市場は大阪の台所と呼ばれてまして、かつては年末になると買い物客でごった返す黒門市場のニュースがお約束で流れたものです。
 東京でいうアメ横みたいな感じですかね?
 いろんなお店がテレビで紹介されるので期待していたのですが・・・・
 アジアからの観光客がどのお店もあふれてまして、落ち着いて食べられる雰囲気ではなく・・・
 早々に退散しました。

道頓堀
久宝寺の商人、安井道頓の功績にちなんで
道頓堀という名前になりました。

長堀橋跡
 空きっ腹を抱えて北上する我々。こうなったらとsyunさん戦法で昼ご飯抜きで北上します。
 紀州街道は大阪市内に入ると堺への道、堺筋と名前を変えます。
 今は亡き長堀川に架けられていた長堀橋跡の碑がありました。
 紀州街道に架かる橋ゆえ、幕府が管理する公儀橋でした。
 昭和35年に長堀川が埋め立てられて橋が撤去されたのです。

堺筋の建物

立派なビルです。
 堺筋は昭和12年に御堂筋ができるまでは大阪市のメインストリートとして繁栄を極め、三越、白木屋、高島屋、松阪屋などの百貨店がこぞって出店しました。
 その名残で堺筋にはモダンな昭和初期のビル建築などがたくさん残っています。

大正・昭和モダンの空気を
今に伝えています。

小西儀助商店の建物
木工用ボンドで有名なコニシ発祥の地です。
 堺筋の北端近くの道修町(どしょうまち)は、薬の街として知られています。
 江戸時代、清やオランダから輸入される薬は、道修町にあった薬種中買仲間を通じて全国に流通していました。
 この歴史から、道修町には現在でも製薬会社のオフィスがたくさん集まっています。
 その一角に小西儀助商店の建物がありました。
 木工用ボンドで有名なコニシも道修町で薬屋として創業しました。

おしゃれな街ですよね〜

高麗橋
 時間も14:00を回りました。・
 空腹のあまり入ろうとしたうどん屋とラーメン屋に目の前でのれんを外され、打ちのめされた我ら。
 日も傾き、寒さが身にしみてきた15:00。
 ようやく高麗橋に到着しました。
 これにて紀州街道の旅は終了でございます。この日は20キロ歩きました。

里程原標跡碑
西日本の道路がここが起点となりました。

高麗橋
 すっかり疲れたはずの我々。
 しかし船場センタービル街で服を見たり、長堀橋にあるハンズでちろりを買ったり、マッサージチェアを試したり。 
 心斎橋筋にある帽子屋さんで帽子買ったり。
 晩ご飯は法善寺横町でもつ鍋いただきました。
 空腹と寒さで冷えた体を、鍋は優しくいやしてくれたのでした・・・・
 結局この日はトータルで28キロ歩き、21:30に帰宅しました。

もつ鍋
紀州街道をゆく 完
2017.10.28作成
2017年ツーレポトップへ
Home