千石橋
 さて、千石橋を渡ると、そこから高野町です。
 道はT字路になってまして、地図に従って右に曲がります。
 山を回り込むとものすごい急坂が現れます。
 さすが「薬研堀の底」と言われた河根。
 ものすごい坂です。息が切れて、何度も休みながら、息も絶え絶えに登ります・・・

おわかりいただけるでしょうか?
この急坂を

第五の地蔵脇に建つ石灯籠
文政4年(1821年)のもの
江戸屋嘉兵衛さん建立
 作水(さみず)坂を登り切り、ようやく尾根筋に上がりました。
 ここも弘法大師伝説の地でして、水に不自由している村人のため、弘法大師が「水を作った」ことに由来する地名なんだそうです。

ながめはいいですが、
山ばかりです。

道は舗装されてますが・・・
 道は舗装されてますけど、登りがきついです。
 休み休み歩きます。
 第六の地蔵尊がありました。
 この辺りが桜茶屋で、紀伊國名所図会には、この辺りは桜が多いが、一本だけ吉野と同じ時期に咲く桜がある、と紹介しています。

高野六地蔵の最後
第六の地蔵尊

人気のない集落
 観音坂と呼ばれる坂道を登ります。
 途中、人気のない集落を抜け、涼しい杉並木の中を歩きます。
 日向を歩くと暑い時期になってきました。

杉並木

高野の仇討ち解説板
横にあるのが黒岩
 明治4年(1871年)2月30日に、日本最後の仇討ちが行われた場所にやって来ました。
 

解説板から少し離れた場所にお墓
討たれた元脱藩藩士7名のお墓だそうです。

杉並木が続きます。
 文久2年(1862年)、赤穂藩の家督争いの中、斬新派(公武合体派)が勝利しましたが、これに治まらなかった急進派(尊王攘夷派)の藩士が、家老と参政を暗殺して脱藩。
 脱藩藩士は長州藩に身を寄せていましたが、赤穂藩に戻るよう命じられました。
 赤穂藩としてもまたトラブルが発生するのは困るので、脱藩藩士に高野山の歴代藩主の御廟所守護を命じました。
 殺生禁断の高野山にいれば復讐されないと考えたのでしょう。
 しかし、参政であった村上家一族が納得できるはずもなく。
 村上一族は河根の本陣、中屋に泊まって脱藩藩士を待ち伏せ。
 で、ここ黒岩で村上家一族ら7人が、元脱藩藩士7名を襲撃。
見事本懐を遂げたそうです。

すごい大木
 この辺りの街道は平坦で歩きやすいです。
 おやつを食べながら歩きます。
 間もなく一里石に到着しました。

是より高野山女人堂江一里
その横の道標
右 京大坂道
施主 京三条大橋 いせや半兵衛
とあります。

神谷の集落が近づいてきました
 しばらく歩くと神谷の集落があります。
 ここはかつての神谷宿で、本陣と脇本陣が置かれていました。

道標発見
高野山女人堂まで
4400メートル
一里四町二十間
とあります。

ご成婚記念道程標
 なんと大正13年に建てられた、昭和天皇ご成婚を記念した道標でした。
 ということは、大正時代にはこの街道は生きていたってことですねえ。
 調べてみると、高野線は大正13年に九度山駅まで、翌14年にようやく高野下駅まで開通していますので、まだまだ街道は現役だったのです。

至 高野口 1012メートルとあります。
おそらく高野下駅までの距離でしょう

木造校舎内
 旧白藤小学校までやって来ました。
 ここは木造の校舎が現存していて、トイレが利用可能です。
 そう言えば中学校は木造校舎だったっけ・・・砂埃がすごくて、掃除大変でした。
 制服がね、真っ白になるんですよ・・・

郷愁をそそる?

小さい道標
これも大正13年のもの
高野山まで4200メートル
 道は下りになります。
 切り通しを抜けていきます。

切り通し

高野線が見えました。
 道は下っていき、やがて高野線の真上に出ます。
 かつてはこの道をバスでも走っていたかのような道です。

高野線の真上

高野線をまたぎます。
 高野線をまたぎ、川を渡らずに作業道のような道を歩いて行きます。
 左上に高野線が走っています。

作業道みたいな道です。

極楽橋駅
特急こうやが見えます。
ここで降りてもなんにもありません。
ケーブルカーとの乗り継ぎだけです。
 やがて小さな広場に出まして、向こうに極楽橋駅が見えました。
 で、右側には駅名の由来になって極楽橋が架かっていました。
 極楽橋とは、高野山という聖域と、俗界を分ける結界の橋です。

こちら極楽橋

不動坂の道標
女人堂まで24丁とあります。
講だ建てたらしい道標です。
 橋を渡って道は左へ。
極楽橋を振り返る

不動坂
 ケーブルカーの索道を左手に見ながら坂を登り始めます。
 ケーブルカーが降りてきました。
 極楽橋まで開通したのが昭和4年のこと。このケーブルカーが開通したのが昭和5年のことでした。
 

ケーブルカーが降りてきました。
この車両は四代目だそうです。

普通の坂道と思いきや
 舗装された坂道を登っていくとですね、いろは坂との分岐っていうか、別れ道に出ます。
 いままで歩いて来た道は、近代になって整備された道のようで、道理で歩きやすい訳です。
 で、江戸時代は一気に標高を上げる尾根筋の道を歩いたってことなので、そちらを歩きます。

こんな道です。
傾斜分かるかなあ?

相方さん撮影
 いろは坂の名前に恥じぬ、つづら折りの坂道な訳です。
 もうね、最後の最後にこの坂道な訳ですよ。

くるし~

ちょっとなだらかに
 はあはあぜえぜえ言いながら登ります。
 なんで昔の人って一気に標高上げるの好きなんですかね?

峰が近くなってきました。

すごいでしょ?
 途中、断崖の上を歩きますが、ここは万丈転と呼ばれ、高野山では重罪人を簀巻きにしてここから谷へ落として追放(死刑?)したそうです。
いろは坂解説板
明治時代の高野山参詣ガイドには
「玉の汗を流し、杖の力を借りてよじ登る」
と紹介されてます・・・

万丈転解説板
 だいぶ体力が限界に近づいて来ました。
 ようやく尾根に上がったようですが、登りはまだまだ続きます。

この辺は平らです。

寛政四年の道標
南無大師遍照金剛とあります
 先ほどの新道に再び出会いました。
 そこには清不動がありました。
 もともと我々の歩いてきた旧道にあったそうなんですが、新道が開通すると誰も通らなくなって参拝する人もなくなったそうで、新道沿いの現在地に移設されたそうです。

清不動
大正9年移設

大正7年に清不動に寄付した記念石碑
東京市の方で、694円も寄付してます。
 寄付した記念石碑が不動堂の横に立ってました。
 694円寄付したそうで、大正9年にで米10kg3円くらいで買えたそうで、令和2年で4600円ですから、大体100万円くらいの感覚ですかね?
 信心深いですね

清不動過ぎても登り・・・

ファイトォー
イッパアアアアツ!
 なんというかね、飽きてくるんですよね、登りに・・・
 で、ようやく緩い登りになりまして、花折坂の石仏を左に見ながら歩くと車道にでます。
 で、しばらく歩くと・・・・

花折坂の仏さん

ようやく到着
女人堂です
 14:12、ようやく到着しました!
不動坂口女人堂です!!
 9時に橋本駅前を出発して18kmを5時間かかってようやく到着しました。
 

奥の院まで30丁(約3キロ)
今日はもういいです・・・

大坂住吉 谷澤伊兵衛さん建立
26?
 私はバス停前でがっくりと座り込みましたが、相方さんは元気に写真を撮りまくってました。
 10分後、高野山駅ゆきのバスがやって来まして乗り込みます。

女人堂前の大仏

高野山駅
 最近は外国人に人気の高野山。
 駅もきれいになってました。
 ケーブルカーも新調されてぴかぴかです。

新車

登りと対向しました
 息も絶え絶えに登った不動坂をあっという間に下って行きます。
 わずか5分です・・・

あっという間に到着

極楽橋駅
 極楽橋駅に到着しました。
標高539m

まだぴかぴかです

特急こうや

極楽橋に別れを告げます
 高野線に乗車して山を下ります。
 車輪をキイキイ言わせながら、ゆっくりゆっくり山を下ります。

紀伊神谷駅

 「列車とホームの間が広く開いてます」という車内放送はよく聞きますが、これほど開いてるところってあんまりないような。
相方さんの足がすっぽり落ちる
隙間が空いてます。

特急と行き違い
 橋本駅~極楽橋間は単線です。
 時々駅に停まって対向車をやり過ごします。

特急は極楽橋を目指します。

ものすごく狭いホーム
 台風被害で単線化した上古沢駅を通ります。
上古沢駅

キイキイずっと言ってます。
 ずーっと線路が鳴りっぱなしです。
 速度もすごく遅いのです。

まもなく高野下駅

紀ノ川渡河
 ようやく紀ノ川を渡りました。
高野山から極楽橋、本駅まで約1時間、830円の旅でした。

 16:00過ぎ、橋本市内で遅い夕飯を食べました。
王将の餃子とチャーハンが妙に染みました・・・

こうして見ると、ほぼ直線のルートですね
高野街道をゆく 完
2020.7.26作成
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