京都府に入ったとたん雰囲気が変わりまして、
林の中を下って行きます。

八幡市のマンホール
 杉苔で有名なもみじ寺(宝青庵)の裏を歩いて行きます。
涙川の碑 向左 宝青庵(もみじ寺)

松花堂
 間もなく街道はお弁当で有名?な松花堂の横を通ります。
 松花堂は、石清水八幡宮の社僧であった松花堂昭乗が、寛永14年(1637年)に構えた庵のことです。
 明治の神仏分離令までは、神社とお寺は一緒くたに祀られていました。
 で、松花堂弁当はというと、昭乗が農家が種入れとして使っていた器をヒントに十字の仕切りのある器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していたそうです。
 昭和のはじめ、貴志彌右衛門が自邸の茶室「松花堂」で茶事を催した際に、料亭「吉兆」の創始者
である湯木貞一に、この器で茶懐石に弁当を作るように命じたのが始まりです。

中はすごい庭園だそうですが、
時間がなくってあきらめました。
道標が立ってます。
長尾停車場まで一里とか書いてました。
昭和2年のもの

ベンガラ塗りの民家
 九品寺近くで街道は一本脇道に入ります。
 日が傾いてきてひんやりする中をひたすら歩きます。
 

街道はまっすぐ続きます。

樟葉道 道標
ここから山越えで枚方まで続いていたのでしょう
 志水郵便局前を通過。志水と言えば石清水八幡宮の祀官家である田中家の分家に志水家があります。
 徳川家康の側室お亀の方(徳川義直生母)が志水家出身でして、志水家はその縁で尾張藩付家老(大高1万石)となっています。
 この辺りの出身なのでしょうか?

京街道 道標
昭和2年のものです。
伏見まで2里半

八幡市のマンホール
 まだ3時ですが、かなりひんやりしてきました。
所々に町屋が残ってます。

上法寺
徳川家康公の側室、尾張藩初代藩主・徳川義直公の実母である「お亀の方(相応院)」の菩提寺
 徳川義直生母、お亀の方の菩提寺を見つけました。
 やはりお亀の方はこの辺りゆかりのようです。 
 街道は一本脇の道に入って小さな川のほとりに、寝物語古跡の碑がありました。
 寝物語国分橋というのは、その昔、郡や村の境を決める際に、両方の村から同時に出発し、出会った場所をその境界としたといわれ、その際に「出発までにはまだ時間があるから、もう少し休もう」と、そのまま寝込んでしまったために、出発の時刻を過ぎてしまい、領域が減ってしまったという伝承を伝える碑です。
 

寝物語古跡の碑

巡見道の碑
 巡見道の碑が立ってました。
 ここは「馬場」と「神原」との字界で、巡検道は、ここを起点とし、幅3mに満たない道が曲がりくねり、東へと延びています。旧市街地を抜けて大谷川を渡り、田園地帯を下奈良まで、その距離は約2km。古くはこの道を境にして、南を綴喜郡、北を久世郡とした、いわゆる郡界でした。

巡見道

見所が急に増えました。さすがは京都です。

 いよいよゴールが近づいてきました。

八幡市マンホール
 本日のゴール、京阪石清水八幡宮駅です。
 ここで東高野街道は東海道(京街道)に合流します。

石清水八幡宮駅
(旧:八幡市駅)

新しくなったケーブルカー
 せっかくなので、石清水八幡宮にお参りすることにしました。
石清水八幡宮

りっぱですね
 石清水八幡宮は、平安時代前期の貞観2年(860年)に宇佐神宮から勧請された神社で、平安京の裏鬼門を守護していました。 
 源義家がここで元服したこともあって、武家の篤い信仰を集めていました。
 街道旅が無事終わったお礼をしてきました。

ケーブルカーからのながめ
 ケーブルカーからは、京都盆地を一望できました。

京阪電車で帰ります
 長かった東高野街道をようやく歩ききりました。
 次はどこを歩きますかねえ?
東高野街道をゆく 完
2020.5.2作成
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