![]() |
|||
![]() 近鉄古市駅 |
さて、前回から間を置かず、竹内街道の旅を再開します。 今回は、近鉄南大阪線の古市駅から再開です。 駅前には近鉄系列のスーパーがありました。 |
![]() 近鉄系列 近商ストア |
|
![]() 道標 |
駅から西に歩いて行くと、大きな道標がありました。 ここが街道になります。 しばらく行くとお堀のある古墳があり、これが伝説の日本武尊御陵になります。 日本武尊が伊勢国能褒野でなくなった後、白鳥となって飛び立ち、降り立ったのがここだと言われています。 ただし、奈良県の御所市にも同じ言い伝えのある古墳があります。 |
![]() 日本武尊御陵 |
|
![]() 街道 |
御陵の横を竹内街道が西に延びています。 街道はやがて外環状線の大きな交差点を越えて上り坂に差し掛かります。 |
![]() かるはか神社 かつては白鳥御陵の脇の祠だったそうです。 現在地に移ったのはまだ新しいようです。 |
|
![]() 常夜灯と道標 右 大坂 左 狭山? |
ラブホテルの前を通ったり、池の横を歩いたり、街道らしくない風景が続きますが、池のほとりの遊歩道といったところを歩き、地蔵堂の辻までやって来ました。 ここに、伊勢の常夜灯と、道標がありました。 この辻を左に曲がります。 |
||
![]() 野中寺(やちゅうじ) |
すると交差点に出るのですが、北側に野中寺が見えました。 伝承では、聖徳太子が建立した48寺の一つですが、発掘調査では白雉元年(650年)頃の創建らしいです。 どちらにしても気が遠くなるほど昔の話しです。 交差点には伽藍礎石跡の碑がありまして、かつてはもっと境内も広かったようです。 |
![]() |
|
![]() |
|||
![]() 東除川には伊勢橋がありました。 かつて伊勢に向かう街道だったことに由来するのでしょう 昔の欄干が残されていました |
街道は西に続いて、狭山池から続く東除川を渡ります。 この辺りは大きな川が少ないので、ため池がたくさんあります。 |
![]() 緑の一里塚 |
|
![]() |
|||
![]() 松原市のマンホール |
街道は一瞬だけ堺市をかすめ、松原市に入ります。 | ![]() 松原市のマンホール |
|
![]() 中高野街道との辻 |
やがて竹内街道は、中高野街道と交差します。 | ![]() 辻には寛政9年(1797年)5月の道標がありました。 右 ひらの 大坂 |
|
![]() 左 さやま 三日市 かうや(高野) |
かつては人通りも多く、賑わったことでしょう。 | ![]() 左 さかい |
|
![]() 北へ延びる中高野街道 |
竹内街道を西に進み、やがて堺市に入ります。 | ![]() 堺市のマンホール |
|
![]() 堺市のマンホール |
|||
![]() |
|||
![]() |
|||
![]() 金岡神社 |
金岡神社までやって来ました。 平安時代初期の画家、巨勢金岡を祀る神社です。 仁和年間(885年)に創建されたと言われています。 難波大道の南端に当たるとも言われています。 |
![]() 金岡神社 |
|
![]() 昭和初めの金岡村 金岡小学校前にありました。 |
金岡を通過します。 | ![]() 道標 どこにあったかなあ? |
|
![]() |
|||
![]() |
|||
![]() 黒土西不動尊 |
黒土西不動尊にやって来ました。 ここには、弘化二年(1845年)に立てられた道標がありました。 |
![]() 黒土西不動尊 |
|
![]() 三国ヶ丘の切り通し JR西日本阪和線が通ります。 |
街道は、かつて摂河泉の国境があった三国ヶ丘を通ります。 |
||
![]() |
|||
![]() 西高野街道との分岐 右が西高野街道、左が竹内街道です。 |
竹内街道のゴール、西高野街道との分岐までやってきました。 |
![]() 懐かしい女人堂までの道しるべ |
|
![]() おうどん頂ました。 |
これにて竹内街道は終了です。 | ![]() 阪堺鉄道 |
|
![]() |
|||
![]() |
|||
竹内街道 完 | |||
2023.3.5作成 | |||
2022年ツーレポトップへ | |||
Home |