狭山池 |
中高野街道を歩いた翌月。 今度は下高野街道を歩きます。 南海電鉄大阪狭山市駅を降りて、狭山池に向かって歩き出します。 府道を渡ったところで中高野街道と分岐して、下高野街道が始まります。 |
下高野街道 |
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美原町のマンホール (現:堺市美原区) |
狭山駅を過ぎると、堺市東区に入ります。 北野田駅を遠くに見ながら街道を北上すると、やがて堺市美原区になります。 |
この辺りの民家は、 こういう玄関の造りが多いです。 |
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左 大さか 天王ぢ |
阪和自動車道を越えて北上します。 小寺集落の菅原神社前に小さな道標がありました。 |
すぐ(まっすぐ) 富田林 ふじゐ寺 |
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出ジボ池 |
この辺りは大きな河川がないので、ため池がたくさん作られました。 | ||
大きな狸や変なポスターを見ながら歩きます。 竹内街道、長尾街道と交差しながら北上を続けます。 |
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布忍(ぬのせ)神社 そう言えば、白鳥陵は羽曳野にありますね。 |
布忍神社までやって来ました。 祭神は素戔嗚尊で、本殿は江戸時代初期のものです。 大和川手前にある阿麻美許曾神社から、素戔嗚尊を白い布で当地にお招きしたことから、「ぬのせ」の地名になったそうです。 または、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)日本武尊の娘に由来する地名という説もあるそうです。 |
街道の案内板 |
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河津桜ですかねえ? |
陽が出てきて、少し暖かくなってきました。 | 道標 右 志ぎ山 八尾 ひらの 三宅村 左 天王寺 あま岸 |
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久多美神社鳥居 |
大阪市が細長く伸びている処までやって来ました。 大和川の南岸にある阿麻美許曾神社を含む一帯はもともと(後に大阪市の一部となる)矢田村の一部だったのですが、江戸時代に大和川の付け替えにより村が分断されてしまいました。 神社を含めて南岸に残された矢田村の大半は後の松原市となる側に編入されたのですが、神社は矢田村の氏神であったことから、神社の周囲と参道のみは矢田村に残りました。 このために、神社周辺は大和川の南岸にありながら大阪市に属し、参道に当たる下高野街道が細長く松原市に食い込んで大阪市として残っているそうです。 |
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阿麻美許曾神社 |
阿麻美許曾神社までやって来ました。 大同年間(608年頃)の創建だと言われています。 本殿は文久2年建立だそうです。 天美の地名の由来です。 |
樹齢500年以上の大楠 |
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下高野大橋 |
神社を過ぎて堤防に上がると、その名も下高野大橋が見えました。 隣には近鉄南大阪線の鉄橋があります。 |
近鉄 |
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橋を渡ると、阪和貨物線跡があります。 2009年に廃止になりましたが、かつては旅客列車も通過していました。 |
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光明寺 |
えらく立派なお寺がありまして、さらに街道は北上していきます。 長居公園を遠くに見ながら北上し、東住吉区役所前を西に折れて行きます。 |
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うどにゃ風一夜薬さん |
寒いし、お腹も空いてきたし、ご飯をそろそろ・・・と思っていたら、うどん屋さんがありました。 やったーと思ったら、風邪薬のお店でした・・・・ |
ショーウィンドウ |
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自販機 |
明治9年創業のお店で、生姜を使った風邪薬の会社です。 のど飴はたまにスーパーなんかで見かけていたのですが、お店がこんなところにあるとは・・・ ちょっとビックりです。 |
生姜湯なんかがあります。 |
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私はこれ 「for PRO」ってなんかかっこいい |
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神馬塚 |
住吉大社に仕えた神馬のお墓跡がありました。 そう言えばここからなら住吉も近いですねえ。 JR阪和線の高架下をくぐります。 |
阪和線の高架 複々線用の用地がなんか寂しい・・ 複々線化はないようです。 |
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池の中に家がある、桃ヶ池 |
池の中に住宅地がある桃ヶ池を過ぎ、阪神高速松原線の高架下を通過します。 阿倍野区役所近くを通過して、北上すると、辻調理師専門学校がありました。 |
鹿児島県長島大陸から来たという ブリうま食堂のトラック |
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辻調理師専門学校 |
辻調理師専門学校を過ぎると、あべのハルカスが大きく見えてきました。 この辺りはまだ下町の風情を残してますねえ。 |
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ゴールの四天王寺に到着しました。 創建は推古元年(593年)の古刹です。 |
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お疲れさまでした〜 | |||
下高野街道 完 | |||
2024.2.18作成 | |||
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