広島県に入ってずんずん進むと、いくつかの石碑がまとめられている辻がありました。
 一つは外ヶ島弥五郎の碑で、安政4年(1858年)建立です。
 弥五郎は寛政9年(1797年)に毒殺された福山出身の力士だそうで、仲間と喧嘩した際、風呂に入っていた相手を、風呂桶ごと持ち上げて屋外に投げ捨てたほどの怪力だったそうです。
 あとは、陸軍予備役一等兵齋藤市之助の墓、馬頭観音の石碑などです。

素戔嗚尊神社常夜燈
 次にあったのが、素戔嗚尊神社の常夜燈です。
 素戔嗚尊神社ですが、天平年中(729〜49)、備後国司・小治田諸人の創建と伝えられる古社です。 応仁年中(1467頃)社殿大破したため、氏子等が小社を建てたそうです。 永禄年中(1558〜70)、毛利元就が再建命じ、杉原盛重が社領三貫を寄進しましたが、福島正則に没収されたそうです。
 お次は急な石段がある日吉神社の前を通過しました。

日吉神社
 長屋門の前に堀跡らしい窪地がある立派なお屋敷がありました。
 大庄屋さんだったんでしょうか?

下御料八幡神社前
 下御料八幡神社前、国分寺前を通過しました。
 この先は川沿いを進み、お昼ご飯を食べるため、少しルートを外れました。

国分寺南大門前

古市荒神社
 区画整理された街並みを抜け、高屋川を渡ります。
 古市荒神社の境内内に、一里塚跡の石碑が建てられていました。

平野一里塚跡
 いよいよ神辺宿の入口までやって来ました。
 宿場の入口に、高屋川の増水から宿場を守るための止水板を入れた跡がありました。
 東海道島田宿でも同じようなものがありましたねえ。
 神辺宿に入りました。
 神辺は近世までは城下町として備後国の中心でしたが、江戸時代初めに水野勝重が福山城を築いたため、その後は西国街道の宿場町として栄えました。
 江戸時代後期の儒学者・菅茶山(1748〜1827)は、ここ神辺宿の東本陣を営む家に生まれ、19歳のときに京都で朱子学を学び,その後ふるさとに帰って,のちに「廉塾」と呼ばれる私塾を開きました。1796年(寛政8年)には塾を永続させることを目的に塾の建物などを福山藩に献上し,福山藩の郷校としました。全国から常時20人ほどの塾生が学び,頼山陽が塾頭を勤めていたこともありました。

廉塾遠景

解説板
 宿場には立派な町屋がまだまだ残っていました。
 廉塾横の和菓子屋さんで、茶山まんじゅうと羊羹を頂きました。

東本陣跡
 宿場町とくれば酒蔵ですが、神辺宿には天寶一株式会社がありました。
 直販もやってます。

「天寶一」の蔵元

旧山陽道神辺驛あと
奈良時代の驛があったほか、
朝鮮出兵の際、豊臣秀吉が立ち寄った場所だそうです。
 宿場の中を写真を撮りながら進みます。
 なかなか前に行きません。(笑)

神辺宿西本陣
 神辺宿西本陣は、筑前福岡の黒田家専用だったそうです。
 長い板塀と御成門が立派です。

御成門と板塀

黒田家の家紋
 本陣の瓦には、黒田家家紋である「藤巴」があしらわれていて、黒田家とのつながりの深さがうかがえます。
 神辺宿もなかなかの見応えでした。
 また時間のある時にゆっくり着たい場所です。
 街道は左に折れて神辺駅の方に向かいます。
 そこにも白壁の街並みが続いていました。

JR福塩線
 楽しい時間が過ぎると今度は地獄。
 10月とは思えない高い気温が我々を攻撃します。
 国道182号線を横切り、打ちっ放しのゴルフ場下を通って福塩線沿いに国道313号線を進みます。

暑いので日傘代わりに傘さしてます。
鶴が橋南詰め

出雲大社道の道標
 鶴が橋南詰交差点に、出雲大社道の道標がありました。
 また、交差点には鞆屋商店という醤油蔵もありました。
 この近くに横尾という駅があるのですが、ここを通過すると次は山陽本線の備後赤坂駅まで駅がありません。
 少し考えましたが、先に進むことにしました。

鞆屋商店と福塩線と高屋川

中津原小学校跡
 高屋川と芦田川の間を進みます。
 川に挟まれた土地柄のためか、民家はかさ上げされた石垣の上に建っていました。
 あまりの暑さにコンビニで買った「ガリガリ君」をかじりつつ、 ついに芦田川を渡ります。
芦田川

山郷橋
 ここからは、芦田川の氾濫は河川改修で西国街道が消滅していまして、ひたすら芦田川堤防下の歩道を南下します。
 山陽自動車道の高架下を通過し、ひたすら退屈な道を歩くのは、なかなか骨が折れることです。
 ようやく街道は堤防を離れますが、細い道にもかかわらず抜け道になっているようで、交通量が多いので、歩いていても楽しくないです・・・

一里塚の榎

湯傳稲荷神社
 湯傳稲荷神社で小休止。
 足も痛んで来ました。しかも暑い・・・
 さて、この神社、詳しい創建年代は分かりませんが江戸時代初期承応年間に再建されたとの事です 本殿は一間社流造、拝殿は切妻造で境内周辺は縄文時代から弥生時代にかけて集落の遺跡があったそうです

紀元2600年(昭和15年)記念

旧一本松跡
 西国街道の旧蹟や、新幹線の高架を見ながら、備後赤坂駅を目指します。
新幹線の高架が見えます。

広島カープのマスコットの看板
広島って地元に根ざしてますね。
 歩くスピードも落ちてきて、とぼとぼと歩きます。
昭和初期の建物でしょうか?

防火水槽
 飛脚問屋の解説板があり、
 宝暦2年(1752年)に備後〜江戸間に定期飛脚便が開かれたとの説明がありました。
 水越郵便局(岡本家)には、その時の看板が残っているそうです。

備後赤坂駅
 大正5年開業の備後赤坂駅にようやくたどり着きました。
 水越(みのこし)駅として開業しましたが、大正7年に備後赤坂駅に改称して現在に至っています。

国鉄によくある2面3線の駅です。
 長い戦いが終わりました。
 岡山に戻る電車を待ちます・・・
 岡山までは1時間かかるので、なんとか座れたらいいのですが。

広島方面には新車が来ました。
227系「Urara」

我々は旧車です。(笑)
115系
国鉄製造の電車で廃車が進んでます。
 座席に座れて一安心。
 福山駅からなら座れなかったでしょう。
 1時間ばかり揺られて岡山駅に到着。
 ぼっけえ(岡山弁で「すごい・とっても」の意)ラーメンで晩ご飯です。

おいしかったです。
 翌日、雨になりました。
 せっかく岡山まで来たので、長船にある刀剣博物館を見学して帰りました。

赤穂線の電車
西国街道をゆく 続く
2026.1.18作成
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