朝の宍道湖
 翌朝は6:00起床。
 ホテルのサービス朝ご飯を食べてから荷造り。
 7:00には出発しました。
 静かな湖畔の国道431号を西へ向かいます。
心配していた雨は、路面が濡れている程度で夜の間にあがっていました。


出雲大社
 8:00過ぎ、出雲大社前に到着しました。
 まだ早い時間なのに、
早くも渋滞の予感です。
 私はバイクだから関係なしですが。

出雲大社参道

出雲大社御仮殿
 参道でなにやら行列を発見!
 よく分からないけど、とりあえず並んでみます。
 しばらくして、ご本殿の特別拝観の行列だと理解しました。
 そういえばお友達のなずなさんがそんなこと言ってたな〜と思いながら並んでいると、
 「ジーンズ、短パン、Tシャツなどの格好の方は拝観できません」
の札を持った警備員の人が回ってきました。
 襟のあるシャツ、スラックスとかでないと駄目みたい・・・女性ならミニスカートなんか論外のようです。
 まあ神様の御座所を見ようかというのに、軽い格好は駄目でしょうねえ・・・
 何人かが警備員に指摘されて列をはずれていきます・・・
 どおりでみんなまじめな格好していると思ったんだよな・・・
 で、私はといいますと、フリースにGパンという、NGストライク!の格好なんですが、幸い?ライダージャケットとパンツ(天気悪そうだったので)を上から着込んでいました。
 が、自分で言うのもなんですが、ちょっとアウトかな?と。
 どきどきしながら並んでいると、警備員さんによる一次審査はなんとかクリアーした模様。(笑)
 とりあえず並び続けます・・・

この格好はアウトかセーフか?
  1時間並んでようやく列の終わりが見えてきました。
しかし最後に神社関係者による服装チェックがあるようです。
 うむむ・・・ここまで並んで駄目とは言われたくないなあ・・・
 案の定、じろじろと上から下までチェックされてます・・・
 なんか迷っているようでしたが、
「ま、いいか」
と思ったらしく、何も言われませんでした。
 「やったー!」
 並ぶこと1時間あまり、出雲大社の本殿を見学することができました。
写真撮影が禁止されていたので写真はありませんが、厳かな雰囲気の建物でした。
 なかでも天井に描かれた極彩色の雲の絵は、260年前に描かれたものとは思えないほど、美しい色合いを保っていました。

旧出雲大社駅舎
 さて私が並んでいたときの4倍近くまで伸びた行列を横目に見て、出雲大社に別れを告げます。
 次に向かった先は、旧大社線の終着駅、
出雲大社駅跡です。
 大社線が廃止になった後も駅舎が保存されている訳は、その立派な大社造りの駅舎にあります。 

切符売り場
 見てください!この駅舎内の雰囲気!
 なんとも立派な造りで、重厚なイメージを醸し出しています。
 それもそのはず、戦前は宮内庁からの勅使(天皇からの使い)が出雲大社を訪れたときに利用する駅だった訳ですからね。
 

運賃精算所
 門司港駅もそうですが、昔の日本の駅には風情がありますよね〜
 日本ももっと古いものを大事にしてほしいと思います。

駅表示

鰻屋さん
 出雲大社を堪能したので、次の目的地の津山を目指します。
 っとその前に。
大根島に寄って行くことにします。
 なんでかって?
 前回山陰を訪れた時に偶然入って、すごくおいしかった鰻やさんに寄っていくためですよ〜(^^)
 ウマーな鰻よもう一度って訳です。
 再びおいしい鰻を堪能することができました。(幸せ)

美作追分PAにて
 なんだかんだと時間食ったので、米子からは高速を使って時間短縮をねらいます。
 美作追分PAで小休止。冷たいコーヒーでリフレッシュします。

津山城到着
 院庄ICで中国道を降りて、一般道を走ることしばし。
 15:00前にようやく津山城に到着
 文化センターにバイクを停めて、搦め手(裏口)から津山城に攻めかかります。
 ・・・とりあえず入場料とられました。
(210円)

裏下門跡へ

裏中門跡
 津山城の魅力といえばやはり「石垣」でしょう!
 見事な石垣が何段にも築かれている姿は、得も言われぬ美しさです。
 あとは過剰防衛とも思える縄張り(設計)の複雑さ。
 本丸に至る通路は、すべて複雑に折り曲げられており、さらに高石垣と堅固な門で行く手を阻み、そこに横から攻撃を加えようとする巧妙さは、さすが実戦をくぐってきた経験が生きていると感じさせます。

裏鉄門跡

裏切手門跡
 この津山城を築いたのは、森忠政さん
 彼の森家の戦歴がすさまじいの一言。
 父、森可成は織田信長に仕え、近江宇佐山城にて浅井・朝倉の軍勢と交戦中に討死。48歳
 長兄の森可隆は朝倉家の敦賀手筒山城攻城戦の際、一番乗りを果たすも深入りし討死。19歳
 次兄の森長可は鬼武蔵と呼ばれた猛将。小牧・長久手の戦いで徳川軍と交戦中に眉間を鉄砲で射抜かれて討死。23歳
 三,四,五兄の蘭丸、坊丸、力丸は織田信長に小姓として仕え、本能寺の変で信長を守って戦い、討死。それぞれ17歳、16歳、15歳
 忠政以外はすべて戦死しているというありさまです。
 

粟積櫓台

粟積櫓台から津山市北部を望む
 森忠政は関ヶ原の合戦後、美作で18万6千石を与えられて国入りし、この津山城を築城しています。
  

走櫓跡

天守台
 この津山城、18万石余りの大名の居城にしては立派すぎるんですよね。
 例えば天守。なんと5層5階の巨大さ
 5層5階の天守といえば、熊本城や広島城、名古屋城など名だたる巨城と肩を並べる訳で、その大きさが分かりますよね〜
  

天守台穴蔵跡

仕切門跡
 あまりに巨大・堅固なお城すぎて、幕府に睨まれ、未完成の部分が残されたという説もあるくらいです。
 津山城では備中櫓が復元されているので、見ていく事にします。

備中櫓

御座所
 津山城のおもしろいところは、本丸が狭かったために御殿が入りきらず、櫓の内部も居住空間として活用しているというところです。
 当然、備中櫓の内部も居住空間になっています。

茶室

トイレ
 この備中櫓だけでなく、津山城では御殿の玄関が櫓門の2階に作られるなど、居住空間の確保に苦労しています。
 ちなみにこの備中櫓の名前は、森忠政の娘と結婚していた池田備中守長幸(鳥取藩主(6万石)、姫路城を築いた池田輝政の甥に当たる)にちなんだものだそうです。
 池田家と森家は、輝政の姉?が忠政の兄、長可に嫁いでたり結構交流があったようです。

見事な藤
 本丸にはみごとな藤棚もありました。
 津山城と言えば桜が有名ですが、藤もなかなかのものです。

太鼓櫓台
 さて、今度は大手筋(表口)から帰る事にします。
 太鼓櫓は城下に刻を知らせた太鼓が置かれていた櫓です。

表鉄門跡から備中櫓を見る

切手門跡
 大手筋も複雑に折れ曲がり、横矢掛かりを意識した設計になっています。

二の丸から備中櫓を見上げる
 二の丸から備中櫓を見上げていると、大粒の雨が降ってきました。
 寒冷前線の雨らしく、みるみる激しさを増していき、遠くの山々が見えなくなりました。
 寒冷前線の雨はすぐやむので、しばらく雨宿りして待つことにしました。

津山市のマンホール
(かっぱ)

玉櫓方面に向かう石段
 20分ほどすると雨が小降りになってきました。
 早速移動再開です。
 右の写真は表中門の跡です。
 すごい幅の石段で、天下人のお城のような規模です。
 さて、お城を見た後は、郷土博物館を見学。
 この博物館には津山城の復元模型があるんですよ〜
 もうかぶりつきで見てました。楽しい時間でした
(^^)

表中門跡

冠木門から続く石段
 あまりに立派なお城を造りすぎたせいか?森家は跡継ぎ関係のごたごたで津山城を追われ、かろうじて2万石で赤穂藩として存続します。
 森家の後は、結城秀康系松平家が10万石で入り、幕末まで続いています。

桜馬場から搦め手口へ戻ってきました

国守り
 津山のおみやげ。
松平家の家紋、三ツ葉葵をあしらった最中で、3種類の餡が入っていました。
 津山はゆずが有名なんだとか。

 さてこの日は岡山泊まり。
 お友達のどんちゃん夫妻に迎えに来てもらって、晩ご飯を御一緒しました。
 楽しい時間でしたよ〜どうもありがとう
(^^)
 

要は三色最中
(餡、白あん、ゆず餡?)
to be continued・・・
2008.5.24作成
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