篠山城東門馬出
 9月の半ばに有給休暇を二日取って、3連休で銚子にサンマを食べに行こうと計画していました・・・
 「レ・ミゼラブル・・・」
 台風13号のおかげで計画はお流れです・・・
 3連休最後の日、ようやく天気は回復。
 私は引き絞られた矢のように、すっとんで行きました!
 豊中までは阪神高速で、そこから国道176号線で丹波をめざします。
 途中宝塚市を初めて通過。
 谷の底から山の中腹まで、へばりつくようにマンション(高級そうな)が建ち並んでいるのが印象的でした。
 三田市を通過し、放たれた矢が最初に落ちたのは、
丹波篠山

 篠山城を見物です。
 

外堀
 丹波篠山城は、大阪城に寄る豊臣家への押さえとして、慶長14年(1609年)に築かれました。
 徳川家康は、姫路の池田輝政をはじめとする15カ国20家に及ぶ大名に助役を命じ、6ヶ月で完成しました。
 縄張り(設計)は藤堂高虎(伊勢津藩祖)が担当しました。
 初代城主は松平康重(松井松平家)で、5万石です。 
 その後も譜代大名が歴代城主となりますが、めまぐるしく入れ替わりました。
 寛延元年(1748年)に青山忠朝が入り、6代続いて明治維新を迎えました。

本丸石垣
(石垣下に犬走りがあります)
 このお城の縄張りをした藤堂高虎ですが、
彼は名手と言われていました。
 この篠山城も過剰とも言えるほど堅固な縄張りとなっています。
 まず城内に入るには3カ所からになりますが、
そのすべてに馬出(城門外に設けられた区画のこと。防御力が増す)が設けられていました。
 この馬出を突破すると、今度は広い外堀が行く手を阻みます。

篠山城復元模型
(縄張りがわかるかなあ?)
 外堀を突破するとそこは三の丸です。
 二の丸への入り口は2カ所。
 しかし、その入り口前にたどり着くには、仕切石垣と塀で区画された馬出状の区画を突破しないといけません。
  

二の丸大手門跡
 三の丸を突破すると、そこには内堀が。
 堀の向こうには二の丸大手門があります。
 今は石垣しか残っていませんが、かつてここには櫓門がそびえていました。
 寄せてきた侵入者には頭上から鉄砲が撃ちかけられます。

一つ目の枡形
 櫓門を突破したらそこには枡形(門を二重に構えて防御力を高めた区画のこと)が・・・
 三方向からつるべ撃ちです。
 目の前にはもう一つの門が・・・
 そこを破ったら二の丸・・・ではなく、二つ目の枡形が広がります。
 ここでも三方向からの攻撃が・・・ 

二つ目の枡形

ここにはかつて鉄門が・・・
 そして目の前には鉄門が・・・
 名前からすると、門扉に鉄板が打ち付けられた門があったはずです。
 ここを破るとようやく二の丸です。 

本丸入り口
 篠山城の御殿等は二の丸にあったので、ここまで来ればほぼ勝負あった・・・と言いたいところですが、守備側は徹底抗戦を選択したようです。
 二の丸の奥には本丸があります。
 この石垣上には多聞櫓が巡っていました。
 多聞櫓を乗り越えることは不可能なので、入り口は多聞櫓下にある門一つです。 本丸に侵入しようとすれば、またも頭上からの攻撃を浴びます。 

本丸石垣
(この上には多聞櫓があった)

天守台
 で、本丸内に侵入した攻撃側の目の前には天守がそびえ・・・てません。
(^^;
 一説では篠山城があまりに堅固になることに難色をしめした家康が、天守の建造を許さなかったといいます。
 天守台の角に、一重の隅櫓が建てられただけでした。
 これで篠山城は落城です。城攻めって大変ですよね〜
 「表から行くから大変なんじゃ?裏から行けば〜」という方もいるとは思います。  が、裏門は枡形こそ一つですが、長細い形になっていて、次の門にたどり着くまでに、常に左側から攻撃を受ける形になります。
 

裏門
(この上にも櫓門が・・・)

天守台からの眺め
 さて、脳内城攻めも終わったし、城下の景色でも眺めますか・・・
 三の丸には小学校がありまして、ちょうど運動会の真っ最中でした。
 中央右の山には、波多野氏や明智光秀がらみの八上城がありました。

大書院の屋根
 天守のなかった篠山城の象徴的な建物と言えば、この大書院です。
 昭和19年に火災で失われましたが、復元されています。

大書院広間

昼ご飯
 腹が減っては戦は(ツーリングは?)できません。
 丹波産の山芋を使ったとろろ定食をいただきます。

歴史ありそうな和菓子屋さん
 おみやげを物色。
 古めかしい和菓子屋さんがあったので、栗ようかん(2000円)と栗もなか(130円?)を買いました。
 栗ようかんは、まだ新栗ではなかったのですが、栗と寒天、砂糖のみの優れものでした。
 後でスタッフがおいしくいただきました(笑)
 あと栗納豆おまけにもらったのですが、これがおいしかった。
 また買いたいな・・・

栗入りもなか

栗ソフト
 まだ食べます。(^^;
 とあるお店でくりソフトを食べました。
 結構濃厚な味でとってもおいしかったです。
 なぜか店員のおじさんとお兄さんに気に入られ、しばらく話し込んでました。
 お兄さんは今日の4:00まで飲んでたらしく、死にそうになってました(笑)
 でも団体のお客さん来たらきびきび働いてました。すごい・・・
 トウキビをごちそうになりました。ありがとうございます(^^;
 あと近所に住んでるおじいさんにも捕まって話を聞かされて、
けっこうな時間が過ぎてしまいました。
 私って話かけやすいんでしょうか?(^^;

復元天守
 篠山城を攻め落とした後は、福知山城へと向かいます。
 国道176号、175号線を北上します。
 途中、柏原陣屋(織田家2万石)があったんですが、ちょっとパスしました。
(篠山で話し込み過ぎ・・・)
(^^;

本丸からの眺め

福知山城縄張り
 福知山城は、丹波一国を支配した明智光秀によって築かれました。 
 川を背にした後堅固の構え(岡山城もそうですね)で、
平野に突き出た台地を、堀切で切り離して防御を固めました。
 関ヶ原の合戦後、有馬豊氏(赤松氏の庶流で、摂津の有馬温泉あたりを支配していたので有馬を名乗った。キリシタン大名の有馬氏とは無関係)が6万石で入りました。
 有馬豊氏は大阪の陣でも手柄を立てたので、筑後久留米へ20万石で転封。その後譜代各家が5万石で入れ替わりますが、最後は朽木家が3万2千石で入り、明治維新まで続きました。

転用石
 さて、福知山城の特徴と言えば、大量の転用石
 墓石や石灯籠だったものが、石垣の材料とされているのをみることができます。
 転用された理由としては、工期を短縮するためとか、寺院に対して権力を誇示するためとか言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。

本丸の裏門?
 福知山城で現存している建物は、かつて二の丸にあった銅門番所(本丸に移築)のみです。
天守からの眺め

銅門番所
(あかがねもんばんしょ)
 立派な天守と小天守は外観のみ復元されたものです。
 内部には福知山城や明智家に関する資料が展示されています。

小天守と天守
 小天守は2階がせり出していて、南蛮造りのようになっている気がするのですが、気のせいかな?
 2階に石落としがあるような・・・

 さて、日も陰って来ましたし、帰るとしますか・・・

豊中の「麺哲」
 お友達に呼ばれましたので、帰りに池田に寄ります。
 話し込んでいる内に遅くなってしまったので、おいしいラーメン屋さんを教えていただいて食べに行きます。
 これがまたおいしい・・・
 
さっぱりしているのにコクがあるんだよなあ〜
 また行きたいです。
 さてすっかり遅くなってしまいました。
 家に帰るのをあきらめて、大阪で泊まって行くことにします。

にくしお
to be continued・・・
2008.10.5作成
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