棚田百選にも選ばれた北庄の棚田
 さて、翌日は半日お仕事でした。
 よ〜やく終わったと思ったら、激しい雷雨が・・・orz
 30分くらい逡巡していましたが、
えいや〜っと出発しました。
 がらがらどしゃーん!
と雷が落ちる中、西へと向かいます。
 国道43号線を西へ、西へ。
 40キロ制限に何度か切れそうになりながら、自分の忍耐の限界を試すべく走ります(笑)
 月見山からは第2神明道路へ。加古川・姫路・太子BPを走ります。
 神戸からやんでいた雨に、姫路で再び遭遇・・・orz
 痛いほどの雨の中を走りました。
 県境を越えるあたりでようやく雨も上がり、西の空に雲の切れ目が・・・
 19:00、ようやく岡山市へ。この日は岡山泊まりとなりました。
 岡山在住の友人どんちゃんを呼び出し、1時間ながらツーリング談義。
(ありがとうございます!)
 しかし男二人ファミレスで甘味をつついてる画はどうだろう・・・?
(^^;
 翌朝、昨日の雷雨が嘘のように晴れた中、国道53号線を北上します。
 途中、日本の棚田百選の看板を見つけたので、寄ってみました。
 半分ほどの田は稲刈りが終わっていましたが、美しい風景でした。

津山城備中櫓
 10:00、津山市内を通過。
 最近、地方都市の衰退が言われて久しいですが、津山駅周辺の寂れ方もすごいものがありますねえ・・・
 津山城備中櫓が、青空に映えてきれいでした〜

久松山(鳥取城)が見えてきた
 お昼前に鳥取市内に入りました。
 鳥取は池田家32万5千石の城下町でした。
 池田輝政に始まる池田家は、江戸時代の初めに大きく2つに分かれています。
 ざっくり言うと、輝政の先妻(中川清秀娘)の子である利隆から光政へとつながる備前岡山の池田家(31万5千石)と、輝政の後妻である督姫(徳川家康娘)の子である忠雄から光仲へとつながる因幡鳥取の池田家(32万5千石)です。
 どっちかというと光政の方が本家筋なんですが、光仲は家康の血を引いていることもあり、外様ですが松平姓が与えられたうえ三ツ葉葵紋の使用も許されており、石高も若干高いのです。

鳥取城大手筋
 鳥取城の縄張りは、山上の城と山下の居館からなるもので、中国地方ではよく見られます。
(備中松山城、萩城など)
 平和な江戸時代には、山上の施設はあまり顧みられず、もっぱら山下部分が藩の中心となりました。

鳥取城水堀

太鼓門跡
 大手門を入っていくと、三の丸の入り口である太鼓門の跡に着きます。
 かつては登城の時刻を知らせた太鼓が置かれた場所であり、また、登城してきた家臣が、馬や駕籠から降りる場所だったのです。

説明板

発掘調査中
 江戸時代中頃から藩主の住居が置かれた三の丸は、現在学校の敷地になっています。
 鳥取城では30年計画でお城を復元する計画があり、
学校も城外へ移転するようです。
 太鼓門を復元するのか、発掘調査が行われていました。

鳥取城縄張り
 工事中の大手筋をあきらめて、搦手(裏口)である北の御門から城内に入ります。
 左の図で言うと、水色で描かれた堀にかかっている左側の橋になります。
(右が大手門)
 左の図を見てもらえれば、山の上と下に分かれた鳥取城の縄張りがよく分かると思います。

復元された城門
 北御門跡から城内に入ると、復元された城門があります。
 門を入って石段を登ると右膳の丸です。

二の丸三階櫓の石垣を見上げる
 右膳の丸から登り石垣に沿って石段を登り、二の丸に入ります。
 二の丸には江戸時代中期まで、藩主の住む御殿群がありました。

二の丸西側にある登り石垣

御三階櫓石段
 二の丸の南西角には、3重3階の
「御三階櫓」
がありました。
 山上の本丸にあった2重2階の天守が落雷で焼けた後、
御三階櫓は鳥取城の象徴でした。
 櫓とは言いながら、現存する丸亀城(香川県)天守より巨大で、天守そのものでした。

後三階櫓から鳥取市内を見る

菱櫓台
 二の丸の南東角には2重2階の菱櫓がありました。
 名前の由来は、櫓台がひずんでいため、櫓も菱形をしていたことによります。
 菱櫓と後三階櫓の間には、走り櫓と呼ばれる多聞櫓があったそうです。

菱櫓台上

鉄御門跡
 二の丸大手には、鉄門という櫓門がありました。
ここが二の丸の正門になります。 
 

修復工事中の石垣
 鳥取城の山下部の一番高いところに天球丸がありました。
 池田光仲以前に池田輝政の弟、池田長吉が城主だった時代がありました。(6万石)
 その頃、ここには山崎家盛の妻であった長吉の姉(天球院)が住んでいたことから、この名が付きました。
(嫁ぎ先を飛び出して来た模様(笑))
 ここにも三階櫓がありました。

天球丸

山上本丸への登山口
 天球丸の隅には、山上にある本丸への登城口がありました。
天球丸から二の丸と三の丸を見る

斜めに築かれた雁木
 鳥取城と言えば有名なのが、吉川経家ですねえ。
 織田家と毛利家との戦いが激しさを増す頃、それまでの領主である山名氏を追放した地侍達に要請されて鳥取城にやってきた経家は、やがて羽柴秀吉の攻撃を受けます。
 ここで秀吉は鳥取城を完全包囲し、兵糧を絶つ作戦に出ます。
 食料尽き、人肉を食べるまでに追い込まれた城兵を見て、経家は自らの自刃と引き替えに城兵の命を救うことを条件に、開城・降伏。
  「日本に名だたる織田家と毛利家の戦いの中で果てるのは名誉なことだ」と言い残し、見事切腹して果てました。 

御三階櫓脇の城門跡
 久松山の山中には中世鳥取城の遺構がたくさん残ってます。
 また近くには秀吉が本陣を置いた場所が、太閤平として名を残してます。

礎石が残ってます

仁風閣・・・は工事中
 鳥取城の丸の内には、大正天皇の山陰巡幸の際、宿泊所として建てられた洋館が移築されて残ってます。
 あいにく工事中でしたが、中には鳥取池田家の資料が展示されていて、歴史好きにはたまらなかったです。おすすめです。

市役所前のラーメン屋さん
 遅くなりましたがお昼ご飯。
 役所の近くのお店はわりとハズレがないかな〜と、市役所前のラーメン屋さんへ。
 普通においしかったですよ。
 食後にコーヒーついてるのが役所近くっぽかったですね(笑)

味噌ラーメン

市役所前から本丸を見る
 さて、鳥取を離れる前に、もう一度鳥取城を眺めます。
 市役所前からだと、山上の石垣がよく見えます。

日本の海岸美
 鳥取からは、国道9号線を東に向かいます。
 途中、国道178号線に入って日本海沿岸を走ります。
 国道178号線は、これぞ日本の海岸美といった景色が続くし、ほどよくワインディングロードはあるしで、いい道でした〜

日本海

餘部鉄橋
 国道を走っていると、目の前に大きな鉄橋がそびえ立ってます・・・

「餘部鉄橋だっ!」

 日本で一番高い鉄橋(高さ40メートル)です。
今はコンクリート橋への架け替え工事が進んでいます。

そびえ立つ鉄橋
 鉄橋のすぐ下までやってきました。
 
「でけ〜!!」

 ものすごい高さです。ちなみにウルトラマンと同じくらいです(笑)
 こんな巨大な建造物が、明治時代のものとは・・・
 明治日本の意気込みを感じますね〜
 

完成したのは明治時代

あおりで撮ってみる
 あおり位置で見てみると、さらに巨大感が増します。
 ちなみに私は上を向くと口が開きます。
(^^;

見上げると口が開きます(笑)

鉄橋を支える鉄骨
 マクロの後はミクロってんで、鉄橋を支える鉄骨の写真も撮ってみました。
 それから餘部の駅に向かって、山を登り始めました。

山の中腹から

餘部駅への道
 餘部には長い間駅がなかったのですが、集落の人々の請願により、駅ができました。
 集落の人は小学生まで石を運び、駅工事に協力したそうです。
 登山道のような山道を登ると、餘部駅に到着します。

駅の踏切から

駅の標識
 ホームへは踏切を渡っていきます。
 何人か鉄分豊富(笑)な方々がおりまして、一緒に写真撮ってました。(^^;
 やがて下り列車がやってきました。

列車が来ました

時刻表
 かつてお友達のたお吉さんが、夜に餘部鉄橋を渡る列車を見て、
「銀河鉄道みたいだ!」
の名言を残しましたので、私も雰囲気だけでも味わおうと、19:00まで粘ってみました。
 しかし18:00あたりからモスキート編隊の襲撃を受けます。(ぶーん)
「あ、かゆいっ!」
ロシアンタイプの襲撃を受けてから、少々の攻撃では腫れないのですが、今回はぷっくり腫れてます。
「かい〜よ〜」
指やら首やら顔やら刺されつつ、列車の到着を待ちます・・・

「おおっ!?」

ちょっとは雰囲気味わえたかな?
でも写真撮影は失敗しました
(^^;
 かゆみをこらえつつ餘部鉄橋を後にして、この日は豊岡泊まりです。

今度は登り列車
to be continued・・・
2008.10.26作成
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