フェリー明石
(泉大津港)
 さて、10月は私の誕生月でして(^^;
 この年になると「目出度さも中くらいなり」なんですが、
誕生日くらい仕事を忘れてぱーっと行こうか〜ってことで、
お休みとってツーリングです。
(なに?年中ぱーっとしてるじゃないかって?ほっといて〜(笑))
 今回は泉大津港から阪九フェリーに乗船です。
 なんで阪九フェリーかって?
仕事終わってから乗れるのがこれだったんです。
(20:00出港)
 久しぶりにフェリー明石に乗船します。
船内のレストランで晩ご飯食べたんですが、
あんまりおいしくないのは相変わらずでしたね・・・
 で、21:00前には寝てしまったんですが、2:00頃目が覚めました。
 デッキに出てみると、月光が海を照らしていました。
とっても幻想的な光景でした・・・

新門司港接岸中のダイアモンドフェリー
 翌朝は6:00起床。
 お風呂はいらずに寝てしまったので、とりあえず朝湯です。
 最近、阪九フェリーでは焼きたてパンの販売をやってまして、これがまずまずおいしい。
 朝ご飯はレストランに行かず、焼きたてパンと入れ立てコーヒーとしゃれてみました。
 7:30には新門司港入港。
 先着しているダイヤモンドフェリー、オーシャン東九フェリー、僚船のフェリーつくしがお出迎えです。

オーシャン東九フェリーの「おーしゃんのーす」
阪九フェリーの「フェリーつくし」

中津城旧地図
 新門司港に上陸した後、国道10号線を南下していきます。
 目指すは何度かスルーしている中津城。
 最近城巡りに凝ってるんで、訪問してみたかったのです。
 さて、中津城はかの有名な黒田如水が、豊臣秀吉から豊前の国(現在の福岡県と大分県にまたがる地域)6郡を与えられ、この地に築城したのが始まりです。
 黒田家は関ヶ原の合戦後、福岡へ転封(引越)となり、築城は一時中断されます。
 黒田家の後には細川忠興(ガラシャの夫)が、豊前一国と豊後2郡で39万石を与えられ、築城を再開します。
 その後、忠興は小倉城(北九州市)を築いて本拠地としましたが、
工事は続けられ、細川家の時代に城は完成します。
 完成した中津城は、縄張りが直角三角形になっているのが特徴で、
「扇城」と呼ばれていました。
 その後、熊本の加藤家が改易(領地没収)となり、細川家は熊本へ転封となり、
中津城へは徳川譜代の小笠原長次が8万石で入城し、ここに中津藩が成立します。
 その後、奥平昌成が10万石で中津城に入り、代々受け継いで明治維新を迎えています。

水手門跡
 さて、中津城を探索です。
 まずは川沿いにあった本丸への入り口です。
 水御門と呼ばれていました。
 石垣を食い違いさせて防御を固める「食い違い虎口」の形式をとっています。
 水御門を入ったところには松の御殿がありました。

松の御殿跡

川が外堀です。
 松の御殿は江戸時代末期、諸大名に対する統制がゆるめられ、
大名の妻子が国元に帰っても良いことになったとき、国元に迎え入れるために
建てられました。
 その後、役所として使われていたのですが、西南戦争の時に西郷隆盛に呼応して挙兵した中津隊の攻撃を受けて焼失したそうです。
 松の御殿のあった本丸外には川が流れ、天然の堀になっていました。

本丸西側の堀
 水御門から続く本丸の石垣と堀が整備されていました。

石垣内に埋め込まれていた石垣
 現在は、石垣の一部が削り取られ旧本丸にある神社の参道となっています。
 その削り取られた石垣の内側には、何度かの拡張工事のために埋め込まれた石垣が露出していました。
 解説板を読むと、現在の石垣は4度の拡張工事を経ていることが説明されていました。

解説板

中津城模擬天守と復興櫓
 中津城には天守がなかった、と言うのが通説ですが、かつての隅櫓跡に、萩城天守を模したという模擬天守がそびえています。
 実はこの天守にはおもしろい話があります。
 現在城跡には奥平神社があり、城地は奥平神社の所有となっています。
 その奥平神社の理事?が、かつてこの地を治めた奥平家の子孫でして、その子孫が観光のために建てたのが、この天守風の建物。
 だから大きく言えば、殿様が建てた天守ってことになるようです。(笑)
 ただ、最近は管理が大変なようで、3億円で売りに出たこともあります。
 現在は中津市と協議中みたいですが、
3億あればあなたも城主
になれますよ〜
(爆)

奥平家の家紋
「軍扇」
の入った賽銭箱

奥平軍扇の前立てがついた甲冑
 さて、入館料を払って天守に入ってみます。
 天守内は博物館になっていて、奥平家にまつわる資料が、割と無造作?にに展示してます。

なんと長篠の合戦に使ったホラ貝

一番上の槍が白鳥の槍
 奥平家と言えば、結構格の高い家柄でした。
 藩祖九八郎信昌は最初貞昌と名乗っていましたが、長篠合戦の功で織田信長から名乗りを与えられ、信昌と改名しています。
 さらに奥さんは家康の長女、亀姫(家康の正室、築山御前の娘)で、その間に生まれた4人の息子のうち、跡継ぎの長男をのぞく3人は家康の養子となっています。
 しかも長男、次男には家康の名乗りが与えられ、家昌、家治と名乗り、三男、四男は秀忠の名乗りが与えられ、忠政、忠明(松平を名乗る)と名乗るなど、破格の待遇でした。
 また鎮西八郎源為朝所用といわれる「白鳥の槍」を、三代忠昌が家康より拝領、参勤交代時はこの槍を押し立てて行進し、その権威をしめしました。

江戸地図
(奥平家の屋敷を示したもの)
 その後の奥平家は宇都宮>古河>宇都宮>山形>宮津>中津と引っ越していきました。
 

模擬天守から周防灘を望む

奥平家の由来書
 奥平家は蘭学にも理解がありまして、七代昌鹿(まさしか、まさか)は、教科書にもでてくる蘭学者、前野良沢を保護して蘭学を奨励しました。
 九代昌高も「蘭癖大名(オランダかぶれの大名)」として知られています。
それもそのはず、昌高の実父は同じく「蘭癖大名」として知られる島津重豪(しげひで)で、9男だった昌高は奥平家に婿養子に来たのです。
 これは昌高のおじいさん昌鹿と重秀が、同じ蘭癖大名同士仲がよかったまとまった話らしいです。
 昌高はオランダ好きが高じてオランダ語を学び、ついに通訳なしで会話できるまでになりました。
 息子昌暢に家督を譲った理由もふるってまして、
「シーボルトとゆっくり話したいから」
(当時の日本は鎖国で、現職の殿様が異国人に会うのははばかりがあったため)
だそうです。(^^;

模擬天守と櫓
 今度は本丸の外に出てみます。
 お城の東側は警察署になってました。
 非常階段でたばこ吸ってたり、婦警が建物の影で電話してたり、のどかそうな感じでしたね。(ニヤニヤ)

本丸東側の石垣

ぬこ戯れる中津城
 本丸への入り口だった樫木御門前にはぬこの親子がいました。
 お母さんはのんびり寝てましたが、子猫は遊び回ってました。
 しばし子猫と戯れます。
にゃーにゃー鳴いてかわいかったなあ・・・

樫木御門跡

福沢諭吉旧居
 中津と言えばこの人。
 現在の一万円札になっている福沢諭吉の出身地でもあります。
 福沢諭吉の旧居は入場料が必要だったので、外から撮影のみです。

大分名物?唐揚げ定食
 中津城を見た後は、国道沿いにあった「如水庵」というお店でお昼ご飯。
 大分なので、唐揚げ定食(小うどん付き)を食べました。
 大分の唐揚げって骨付きなの???
 わし、半分くらい骨食べちゃった・・・orz
 それからうどんがすごくおいしかったです。
 如水庵、また行きたいな・・・
 中津に別れを告げ、宇佐八幡横を通過。
 峠を越えて杵築に向かいます。
 途中の線路沿いには撮り鉄の方がちらほら・・・
 私も負けずに撮ってみました(笑)

青いソニック!

大分の田園風景
 杵築市街に到着したのは1:30頃かな?
 とりあえず杵築城に向かいます。
 杵築城は、西暦1400年頃に木付氏によって八坂川河口の台地に築かれました。
 戦国時代には木付氏は大友氏の支配下に入っていたため、島津氏の大軍に攻められますが、杵築城に籠城してこれを退けています。
 その後木付氏は大友氏の没落と運命を共にし、前田玄以や杉原氏が城主となります。
 細川氏や小笠原氏の持城時代を経て、1645年に松平英親(能見松平氏)が3万2千石で入り、そのまま続いて明治維新を迎えています。
 松平時代には山上の城は廃止され、藩主の住まいや政庁は山下の堀に囲まれた居館に設けられており、城よりは陣屋に近いものだったようです。

八坂川河口
 現在山上には天守風の建物が建てられ、中は松平家や杵築出身者の資料が展示されていますが、特に見るものはありませんでした。
 ただ、天守からの眺めはとてもよかったです。

杵築の城下町

勘定場の坂
 ここでトラブル発生!
 前回の美濃・尾張ツーリングの際、雨天にもかかわらず撮影したせいか、
阪九フェリーに乗船前の時点でデジカメの液晶モニターがお逝きになりました。
 なんとか撮影は出来ているようだったので、旅を続けていたのですが、
杵築城でメディアが一杯になってしまいました。
 不要のデータを消去しようにも、液晶モニターが使用不能なのでそれもままなりません。
 お城の近くにベスト電器を発見したので、
安いデジカメでも買っちゃえ〜
ってことで入ってみました。
 若いお兄さんに声かけられて交渉開始。(Fight!!)
 お兄さんは新製品のイクシの新型「38000円」を勧めてくる。
28ミリという広角レンズにひかれたので、
「じゃあそれで」
というと、
「すいません、在庫ありませんでした」

(^ω^)ハア?

おまえは在庫のない商品を勧めたのか
と小一時間問い詰めたい気持ちにかられました。(怒)
「ではパワーショットの新型を」というと、
「すいません、それも在庫なかったです・・・」

「な、なんだってー!?」

 ベ○ト電器、やる気なさ過ぎ。
 すったもんだのすえ、あまり安くもなかった旧型イクシを購入。
半時間ばかり店員にカメラの電池を充電させる。
 25000円で買ったけど、家に帰って「価格.COM」で調べたら、
18000円台だった・・・Orz

 ベス○電器、ぼったくりすぎ。

 今回杵築には初めてやって来たのですが、城跡は大したことなかったです。
が、城下町がすてきでした。
(ここテストに出ます)
 左の勘定場の坂をはじめ、かつての武家屋敷の雰囲気が
濃厚に残っていたのです。
 この勘定場の坂の石段は馬や駕籠かきの脚に合うように、
幅や傾斜が計算されているそうです。
 

志保屋の坂
 城だけ見て帰るつもりが、思わぬ長居になりました。
 城下町をのんびり散策します。
 杵築の武家屋敷は台地の上にあるので、写真のような雰囲気のある坂道がたくさんあります。

志保屋の坂と酢屋の坂

酢屋の坂
下から
 石畳の坂道がすてきだと思いませんか?
酢屋の坂
上から

北台家老丁
 ちょうど小学生の下校時間だったので、変質者に間違われないように慎重に散策します(笑)。
 漆喰の落ちた土壁がいいですよね〜
 かつて武家屋敷があったであろう石段もすてきです。

かつての武家屋敷入り口?

味噌屋さん
 道沿いには昔風の建物が並んでいました。
 味噌屋さんや和菓子屋さんが並び、市役所も和風の造りでした。
 この味噌屋さん、かつては酢屋だったので、先ほどの坂の名前が付きました。

このひねり具合がなんとも・・・

かぼすソフト
 大分と言えばかぼすが有名ですが、かぼすソフトクリームをいただいてみました。
 オススメですよ〜
 右は石垣上にある長屋門。
 きっと大身の家臣の屋敷門だったのでしょう。

石垣上の長屋門

神社の石垣に萌え(笑)
 もっとゆっくり回りたかったのですが、時間がなくなってきたので、出発することにしました。
杵築城の天守風建物

美しい干潟が広がっていました。
 お城の下を通り大きな橋を渡ると、左手に美しい干潟が広がっていました。
 思わずバイクを停めて見入ってしまいました。
 杵築ファンになってしまいそうです。
 でもベ○ト電器杵○店は嫌いです(爆)
to be continued・・・
2008.11.1作成
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