伊賀上野城天守
(この天守風の建物は昭和10年に地元の衆院議員が私財で建てた木造(!)建築です)
 さて、今回は2.5連休の日程でございます。
 日曜の仕事(半ドン)をやっつけて、そのまま出発しました。
 名阪国道を伊賀上野まで来たとき、走るのに飽きてしまいました。
(ツーリングに出てきた人の言うことじゃないね・・・汗)
(でも名阪国道は退屈なんですよね・・・)
 で、そのままICを降りて伊賀上野城の見物にやってきました。
 この日は日曜日と言うこともあり、結構な人出でした。
警備員さんの指示に従ってバイクを停めて歩き出します。
 お城は伊賀盆地に浮かぶ島のような丘の上にありました。
 伊賀上野城は、大和の国から移された筒井定次が築きました。
 筒井家は関ヶ原で東軍について所領を安堵されましたが、1608年に突如改易されました。理由は定かではありませんが、大坂の近くに豊臣色の強い大名を置いておくことは危険視されたのかもしれません。
 その証拠に筒井家の改易後、藤堂高虎(親徳川であった)が伊勢に加えて伊賀一国を与えられています。
 大阪城包囲網の一翼を担う城として、高虎は伊賀上野城の改修を開始します。
 筒井家時代の本丸の西側(大坂側)に高石垣を伴う新しい本丸を築き、その中央に5重の天守を築きました。
 しかし5重の天守は完成直前に暴風雨のために倒壊。
 また工事途中で大坂城が落城したために作業は中断され、伊賀上野城は未完成のまま維持されることになりました。
 このため、今でも城内のあちこちに石材が積まれたままになっています。
 江戸時代を通じ、城代が上野城の管理に当たっています。
 

城代屋敷への虎口
 筒井氏時代の本丸には、城代屋敷が築かれていました。
 筒井時代の天守が江戸時代の初め頃まで残っていたようですが、どのような建物だったかの記録は残っていないようです。

城代屋敷跡

これが有名な高石垣
 伊賀上野城を有名にしているのがこの高石垣です。
 高さは約30mあり、大阪城に次ぐ高さを誇っています。城の西側(大坂側)に高石垣が築かれているのは、偶然ではないでしょう。
 

下に見えてるおうちの小ささに注目
 石垣のてっぺんから下をのぞいてみました。
 下にある家の小ささに注目。
かなりの高さなんです。
 お城の外からも石垣を撮ってみました。
 迫力あります・・・

城外から見た高石垣

台湾ラーメン
 お城を堪能したので、再び名古屋に向けて走り出した私。
 日もとっぷり暮れてから名古屋に到着。
 先月名古屋に来たときに気になってた「台湾ラーメン」なる看板。
 食べてみようと、通りかかった「龍美」金山店に入ってみました。
 ラーメンだけではお腹空くかな〜とチャーハンのセットを頼んでみました。
 どうでもいいけど、このお店はスタッフみんな台湾?の人なのね・・・
日本語ちゃんと通じてるのかいまいち不安になる私(汗)
 ちゃんと注文通りの品が運ばれてきたときは安心しましたよ(笑)
 「うん、うまい!」
 これおいしいっす。おすすめします。名古屋に来たら是非どうぞ〜

犬山城周辺図
 翌朝早くに名古屋市内の宿を出発。
 国道41号線をえっちらおっちら北上します。
 途中、小牧山城に心惹かれますが、犬山までの時間が分からなかったのでスルーしました。
 8:20、犬山城到着。駐車場の管理人に「開城9時からですよ」と言われる。
 「がーん!早すぎたんだ・・・」
 最近このパターン多し。
 年寄りは朝早いから・・・(自嘲)

犬山城縄張り図

大手前の街並み
 仕方ないので、開場前の時間を城下町散策ですごします。
 犬山って結構昔の街並みが残っていて感心しました。
 空襲に遭わなかったんでしょうねえ・・・

いい風情です

いわゆる「ウナギの寝床」ですね
 ちょうど町屋の解体現場に遭遇しました。
 昔の商家なんかは間口の広さで税金取られたんですが、犬山でもそうだったんでしょうか?
 典型的なウナギの寝床ですよね〜 

江戸時代中頃の犬山城
 開城も近くなってきたのでお城に戻ります。
 ここで恒例の犬山城の歴史について・・・
(興味のない方はカレーにスルーで(笑))
 犬山城は1469年に織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりと言われています。
 1537年に織田信長の叔父である織田信康が木ノ下城から居城を移しました。
信康は斎藤道三との合戦中に戦死し、息子の信清が跡を継ぎます。
 が、後に信清は信長と争って破れ、甲斐(山梨県)に逃亡します。その後は池田恒興(池田輝政の父)や織田勝長などが城主を務めます。
 この城が脚光を浴びたのは小牧・長久手合戦の時。
 織田信雄の持ち城であった犬山城は、池田恒興父子や森長可(森蘭丸、森忠政の次兄)に攻め落とされます。
 これに対して徳川家康小牧山に陣を引き、睨み合いとなっていくのです。
 織田信雄と羽柴秀吉の和睦後、城は信雄に返還されます。しかし信雄は転封(引っ越し)を拒否したために改易(領地没収)になり、秀吉時代は石川貞清が城主となります。
 関ヶ原で石川貞清は西軍に付いたため改易。尾張
 五二万石松平忠吉(家康四男)が清洲城に入り、犬山城には付家老小笠原吉次が入って整備を行います。
 1607年、忠吉は跡継ぎなく28歳で死去。代わりに徳川義直(家康九男)が名古屋城に入り、犬山城には付家老の平岩親吉が11万石余で入ります。
 親吉は跡継ぎなく死去。9年間の城主不在期間をおいて1617年、同じく付家老の成瀬正成が3万石で犬山城に入り、以後成瀬家は尾張藩付家老、犬山城主として明治を迎えます。
 ちなみに今でこそ犬山城は財団所有の城ですが、つい最近まで成瀬家が個人で所有していたお城なんですよ〜(^^

矢来門跡
 さて、本丸を目指します。
 まずは矢来門跡を通過します。

礎石です

大手道
 犬山城の大手道は本丸に向かってまっすぐ延びており、安土城の大手道を彷彿とさせます。
 二の丸はこの大手道の両側に、樅の丸、杉の丸、桐の丸と並んでおり、横矢をかけられるようになっています。

上から見た大手道
(右側が桜の丸、左手前が杉の丸、左奥が桐の丸です。かつては石垣の上に土塀がありました。)

鉄門(復元)
 大手道は本丸手前でクランク状になっており、敵の直進を防いでいます。
 その先には本丸大手門である「鉄門」があります。

犬山城天守
(国宝)
 鉄門をくぐると本丸です。
 正面に国宝である天守がそびえています。
 望楼型と呼ばれる古い形式で建てられた天守は非常に美しいです。
 ちなみに国宝天守は4城しかありません。
(姫路城、犬山城、松本城、彦根城)

穴蔵への階段
 さっそく天守に登ってみます。
 玄関をくぐると急な階段があり、石垣内の穴蔵(地階)に入ります。
 ここで通路は右に折れていて、敵を直進させない工夫がされています。

天守穴蔵部分

天守内
 天守の窓は小さくて、室内は昼間でも薄暗いです。
 右の和室は人が暮らしていたわけではなくいた訳ではなく、装飾用の部屋らしいです。

この部屋は装飾のために作られたそうです

天守内にある武具庫
 天守内部は平時は倉庫として使われていて、武具を納めていた棚が残されています。
 天守の階段はとても急ですが、これも防御を容易にするためなのは言うまでもありません。
 が、おじいちゃんは大変そうでした・・・

急な階段を登ります。

犬山城下の眺め
 最上階まで登ってきました。
 濃尾平野(名古屋方面)が一望できます。
  ここ犬山城と清洲城の間には、小牧山しか要害になりそうな場所がありません。
 小牧・長久手の戦いの時、犬山城を落とされた徳川家康が小牧山に陣を張った理由がよく分かります。

名古屋市方面を見る

木曽川
 で、城の背後には木曽川が流れています。
 犬山城もまた「後堅固」の地に作られていることが分かります。
 ちなみに左の写真に写っている橋は、つい最近まで車と電車(名鉄)が併用していました。

川向こうは美濃の国(岐阜県)

天守付櫓
 天守の細かい部分の写真を・・・
 ちなみに犬山城天守には、石落としは一カ所しかありません。

石落とし

七曲がり門跡
 本丸の隅には七曲門跡がありました。
 この門の外には崖を下る細い道があり、木曽川に通じていました。
 落城時の脱出ルートだったのでしょう。

七曲がり門跡

川へと下る石段
 かなり埋もれていてよく分かりませんが、かすかに石段が残っていました。

懐かしい・・・
 本丸の自動販売機で懐かしいジュース発見!
 学生の頃はやってましたが、最近は見ませんね〜
 しかし黄色のジュースって毒々しい・・・(苦笑)

山車
 お城見物が終わったので、犬山市の文化資料館を見学。
 犬山城下のお祭りに使われる山車が展示されていました。
 そういえば城下町を歩いていたとき、格納庫があったっけ・・・

山車の格納庫

犬山城外堀の川
 犬山城の東側には郷瀬川が流れています。
 この川が犬山城の外堀でした。

岐阜県側から見た犬山城
 先ほど見えていた橋を渡ると、そこはもう岐阜県です。
 木曽川越しに犬山城を見ます。
 木曽川に移った天守がとてもきれいです(ちょっと逆光きついですが・・・)
 荻生祖来(江戸時代の学者)はこの様子を、中国白帝城の眺めに例えました。
 以来、犬山城は白帝城とも呼ばれています。

白帝城と呼ばれています。
to be continued・・・
2009.1.31作成
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