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![]() 七曲登山道終点 |
犬山からは県道を使って岐阜に移動しました。 (途中ちょっと道に迷いましたけどね) 岐阜にやって来た理由はただ一つ! 信長ゆかりの岐阜城を見るためです。 しかし駐車場分かりにくい・・・結局城前の駐輪場に停めましたけど(汗) さて、岐阜城は標高329メートル(ふもととの標高差319メートル)の金華山上にある山城。 歩いて登ったら何時間かかることやら・・・ てな事で、ロープウェーを使いました。(すいません、へたれで) あっさりと山頂駅に到着。そこから本丸まで歩き始めます。 |
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![]() 上格子門跡 |
七曲登山道の終点には、かつて上格子門と呼ばれる門があり、左の岩山上には七間櫓がそびえていました。 | ![]() 解説板 |
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![]() 二の丸門についての解説 |
コンクリートで舗装された山道をしばらく歩いていくと、二の丸がありました。 二の丸といっても岩山の尾根筋なんで、さほどの広さはありません。 ここにはかつて煙硝蔵があったそうで、関ヶ原前哨戦である岐阜城攻防戦では引火して大爆発を起こしたそうです。 その火は遠く尾張の国からも見えたそうです。 |
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![]() 岐阜城絵図 |
ここで岐阜城の歴史を・・・ 岐阜城の始まりは意外に古く、1201年(鎌倉時代ですね)に、二階堂行政が金華山上に砦を築いたのが始まりだそうです。 しかし知られているのは、斎藤道三が城主になった頃からでしょう。 その頃は稲葉山城と呼ばれていました。 1567年には織田信長が稲葉山城を攻略し、斉藤氏時代の縄張りを一新し、名前を岐阜城と改めました。 「岐阜」という地名は、古代中国の周の文王が、岐山から立って天下を平定した故事に由来する地名です。 この頃から使い始めた「天下布武」の印章とともに、信長の天下統一への野望が伺えるエピソードですね。 信長は山の麓に「千畳敷」と呼ばれる御殿を築き、安土城に移るまでの間住んでいました。 信長が安土に移った後は長男の信忠が居城としていましたが、本能寺の変で死亡。その後は三男信孝が居城としました。 信孝も柴田勝家と共に挙兵し、羽柴秀吉に敗れたために切腹。 その後は池田元助、池田輝政の兄弟が城主となった後、 織田秀信(三法師)が13万石で岐阜城主となっていました。 秀信は関ヶ原では西軍についたため、関ヶ原前哨戦で福島正則、池田輝政に攻められて降伏。高野山に上ります。 関ヶ原合戦後、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌(中津城でもご紹介しました)に10万石を与えて加納城を築かせます。 これは岐阜城が時代にそぐわない山城であったためとか、「岐阜」という地名が天下取りの意志を込めたものであるのを嫌ったためとも言われています。 |
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![]() 岐阜城天守 (模擬) |
二の丸を過ぎたあたりで岐阜城の天守が見えてきました。 この天守は模擬復元でして、岐阜城天守を移築したと言われる加納城の御三階櫓の図面などを参考にし、鉄筋コンクリートで昭和31年に建てられたものです。 |
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![]() 長良川 |
金華山の北側には長良川が流れていて、天然の外堀となっています。 | ||
![]() 城の西側(関ヶ原方面)を望む |
天守からの眺めは最高でした。 確かにこの風景を眺めたら、天下取った気になりますね~ (^^) |
![]() 城の南側(名古屋方面)を望む |
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![]() 岩肌(本丸付近) |
岐阜城が建っている金華山は岩山でして、本丸付近には岩肌がたくさん露出しています。 岩山ということで、当然井戸を掘っても水はでません。 このため岐阜城では岩山を掘って雨水をためて井戸としていたそうです。 城内にはいくつかこうした井戸の跡が残っているそうです。 |
![]() 本丸井戸 |
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![]() 千畳敷入り口にあった虎口 |
山上を堪能したので、再びロープウェーで降りてきました。 ロープウェー駅の近くには、信長の千畳敷跡らしい遺跡が発掘されていました。 千畳敷への入り口には巨石を組み合わせた虎口があったそうです。 |
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![]() 滝 |
千畳敷の一番奥には滝があり、その手前には信長時代のものとされる水路が発掘されていました。 | ![]() 信長時代とされる水路の跡 |
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![]() 発掘現場 |
千畳敷跡については、まだまだ不明な部分が多いために現在も発掘が続けられています。 もしかしたら新発見があるかもしれませんね~ |
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![]() 岐阜城と加納城 (左の赤文字が加納城、右が岐阜城) |
さて、岐阜城の見物が終わったので、次は加納城へ向かいます。 江戸時代の岐阜の中心は、この加納城の方でした。 加納城の大手門前には中山道も通っていて、宿場町としても繁栄していたからです。 |
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先ほども書いたとおり、1601年に岐阜城が廃城になったあと、 この地方の中心として加納城が築城されました。 初代城主は、徳川家康の娘婿であった奥平信昌です。 その後、奥平家>大久保家>松平(戸田)家>安藤家>永井家と藩主はめまぐるしく変わって明治維新を迎えています。 その後も昭和14年に陸軍の司令部が置かれたり、昭和50年まで自衛隊の駐屯地になったりしましたが、現在は国の史跡に指定されています。 |
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![]() 本丸北側の石垣 |
現在、本丸の北側に入り口がありますが、本来の入り口ではなく、近代の改造によるものです。 (石垣を壊して通路にしている) 本丸の北西隅には天守台が築かれました。 が、天守は建てられませんでした。 |
![]() 天守台 |
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![]() 本丸南側の門跡 (左の平地は堀跡) |
かつての本丸には、東側に出枡形の大手門、南側に内枡形門がありました。 |
![]() かつての二の丸土塁の跡 |
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![]() 岐阜地方気象台 |
加納城には、二の丸の東北隅に「御三階櫓」と呼ばれる天守がありました。 現在は岐阜地方気象台の敷地になっていますが、北側の加納小学校に面したところに、櫓台の石垣が残っています。 |
![]() 御三階櫓台跡 |
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![]() 解説板 |
加納城の御三階櫓は、岐阜城の天守を移築したものと言われていましたが、1728年に落雷のために焼失しています。 破風のたくさんついた、天守にふさわしい建物だったようです。 |
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![]() 本丸大手門跡 (通行止めになってます) |
かつての大手門前には民家が建っていて、道路には車が路駐されていました・・・ ちょっと本丸大手門とは思えない光景ですね~ |
![]() 本丸石垣 |
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![]() 加納城大手門跡 |
加納城大手門前には、中山道が通っていました。 左の写真で言うと、奥から手前に伸びている道路が、かつての中山道です。 |
![]() 立派な石碑があります |
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![]() 道しるべ |
交差点を越えて北上すると、中山道と岐阜街道の分岐点に来ます。 | ![]() 解説板 |
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![]() 北に向かう岐阜街道 |
左の写真、、奥に見えている踏切は、名鉄名古屋本線です。 この後、ほんとは大垣城を見に行く予定だったのですが、名古屋のお友達ケントさんに呼ばれたので、名古屋まで戻りました (笑) ラデッシュで遅い昼ご飯の後、21:00くらいまで話し込んでました。 (^^; |
![]() 東に向かう中山道です。 |
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to be continued・・・ | |||
2009.2.10作成 | |||
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