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![]() 日向灘 |
東京から帰ってきた翌週、早くも次の旅へと出発したれんと。 行き先は宮崎港。大阪南港からの出発です。 多少揺れてたみたいですが、お構いなく寝てたモノで気がつきませんでした。 (^^; 翌朝の宮崎は快晴。心も晴れ晴れです。 今回のツーリングでは、先月見逃した佐土原城と高鍋城を見物することにします。 まずは佐土原城へ向かいます。 JR日豊本線の佐土原駅あたりかな〜と思って走りましたが、 さにあらず。 西都ICにもほど近い、国道219号線沿いに佐土原城はありました。 |
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![]() 佐土原城看板 |
お城の前の駐車場にバイクを停めて見物に向かいます。 石段の手前、白い標識が立っているところには、かつて水堀があったそうです。 なんと佐土原城は、駐車場、入場料とも無料です。 太っ腹〜 |
![]() 佐土原城 |
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![]() 二条城の御殿を模して建てられた御殿 |
佐土原城は、14世紀中頃には築かれていたようです。 その後、日向一国を支配した伊東氏の持ち城となり、伊東48城の一つとなりました。 伊東氏と島津氏の争い後に島津氏の城となり、島津4兄弟の末弟である島津家久が入りました。 家久の死後、子の豊久が城主となりましたが、関ヶ原の合戦で豊久は 島津義弘の身代わりとなり討ち死に。 しばらく天領となった後、島津以久(家久、義弘のいとこ)が3万石で入城し、以後明治維新まで続きました。 |
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![]() 佐土原城鳥瞰模型 |
佐土原城の縄張りは、山上の城と山下の居館からなる、中世以来のものでした。 山上の城部分は江戸時代初期に取り壊され、城の中心は山下に移りました。 江戸時代の佐土原城屏風には山上に三重の天守が描かれており、屏風の信憑性が疑われていましたが、最近の発掘で二の丸から天守台跡と金箔瓦が見つかったため、注目を集めています。 なお、山下に最近建てられた御殿は、二条城の御殿を参考に建てられた模擬建築です。 内部は資料館になっていて、佐土原城などの資料が展示されています。 ガイドのおじさんがいまして、案内してもらいました。 この時は特設展として、佐土原藩最後の藩主である島津忠寛の三男、 島津啓次郎の資料が展示されていました。 島津啓次郎は、西南戦争の時に子弟を率いて西郷軍に身を投じ、城山で戦死しました。 |
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![]() 山上への登山口 |
さて、ガイドのおじさんの説明が終わったので、山上を見学に出かける事にします。 登りはじめるとすぐに切り通しがあります。 尾根伝いに攻め込まれるのを防ぐと共に、本丸への通路とすることで、攻め寄せる敵の数を制限したり、見通しを悪くするために使われました。 |
![]() 切り通し |
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![]() 案内板 |
佐土原城には、小さいながらも案内板と解説板が整備されていて、とても行き届いていました。 | ![]() 解説板 |
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![]() 穴蔵 |
途中で、先生に連れられた幼稚園児が何かを拾っているのを見かけました。 ドングリかな? |
![]() 土塁 |
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![]() 本丸虎口跡 |
本丸の入り口には枡形虎口が設けられていました。 進入路を折り曲げることにより、敵を横から攻撃します。 |
![]() 本丸跡 |
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![]() 二の丸天守台跡 |
本丸の北側には二の丸がありました。 二の丸北端には、かつて三重櫓が建てられていました。 本丸ではなく、二の丸に天守が建てられた理由としては、 山下からの景観を意識していたようです。 同じような例は徳島城なんかでも見ることができます。 |
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![]() 佐土原城搦め手口 |
狭い山道を下り、佐土原城の搦め手口に降りてきました。 ここも切り通しになっていて、大軍の通過を阻んでいました。 搦め手口近くには資料館が建てられていて、郷土の歴史資料が展示されていました。 右の写真の網は、山越えをする鴨を網で捕まえていた猟に使われていた網なんだそうです。 |
![]() 巨田の鴨越網猟 |
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![]() 航空自衛隊新田原基地 |
佐土原城の見学も終わったので、次の目的地の高鍋城を目指します。 道中で飛行場を発見。 航空自衛隊新田原基地でした。いや〜こんところにあるなんて全然知らなかったです。 F15の3機編隊が訓練やってたので、思わず足を止めて見入ってしましました。 基地横の空き地には20人くらいの人が集まっていて、見物していました。 |
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![]() 高鍋城(舞鶴城)案内板 |
道草食って遅くなりましたが、やって来ました高鍋城です。 ここには以前にも来たことがあったのですが、その時は建物があるのがお城〜ってな思いこみがありまして、ろくに見もせずに通過してしまいました。 今回はじっくり見ていくことにします。 |
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![]() 高鍋城二の丸 |
高鍋城ははじめ財部城と呼ばれていました。 平安時代には土持氏が築いていたと言われています。 その後伊東氏、島津氏の持ち城となり、秀吉による九州征伐の後、 筑前秋月城主であった秋月種実が三万石で移封されてきます。 秋月家ははじめ串間城(宮崎県串間市)を居城としますが、 1604年に高鍋城に居城を移し、以後明治維新まで秋月家の居城でした。 ちなみに都井岬の馬は、秋月家が軍馬を放牧したのが野生化したものなんですよ〜知ってました? あ、あと名君で知られる上杉鷹山(治憲)は、この秋月家出身(次男)でして、上杉家へ養子として迎えられました。 鷹山のお兄さんの秋月種茂も名君として知られています・ |
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![]() 岩坂門礎石 |
上の写真にある石段を登り切ったところには岩坂門がありました。 岩坂門は二の丸の正門でした。 |
![]() 長峰門跡 (本丸正門) |
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![]() 本丸 |
二の丸からさらに石段を上がったところには長峰門があり、門をくぐれば本丸でした。 ここには藩主の居住区および政庁があり、高鍋藩の中枢でした。 |
![]() 本丸御殿間取り図 |
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![]() 四の郭 |
本丸の上には、中世高鍋城の流れをくむ曲輪が残っています。 本丸の上には四の郭(詰の丸)がありました。 ここには見事な石垣が残っています。 |
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![]() 三の郭 (櫓台) |
石垣の上には三の郭がありました。 この三の郭には、かつて三重櫓が建っていました。 |
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![]() 物見台から高鍋市街を見る |
三の郭の上には物見台や二の郭があります。 この辺になると訪れる人もまばらのようで、雑草が生い茂り、蜘蛛の巣も多くて歩くのも一苦労です。 山の頂上には狭い平地があり、ここが中世高鍋城の本丸でした。 |
![]() 主郭 (中世高鍋城の本丸) |
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![]() 三の丸堀跡 |
城山から降りてきて東側に行くと、農業高校があります。 | ![]() 三の丸堀から城山を見る |
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![]() 三の丸堀跡 |
この辺りはかつての三の丸で、武家屋敷や役所があったところです。 | ![]() 三の丸大手門跡 |
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![]() 三の丸堀跡 |
建物はありませんが、かつての三の丸堀が残っています。 そのお堀端が結構いい雰囲気なんですよ〜 オススメですよ。 |
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![]() 外堀だった川 |
お堀の外側には川が流れていました。 かつては外堀の役割を果たしていたのでしょう。 鴨が泳いでました。 のどかでいいなあ・・・ |
![]() 鴨が泳いでました。 |
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![]() 高鍋城付近 |
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![]() 高鍋でラーメンいただきます。 |
お城見物も終了してお腹が空いてきました。 国道10号線沿いにあった「げんこつラーメン」でお昼ご飯です。 とんこつラーメンいただいたのですが、さっぱりとおいしいラーメンでした。 ラーメン二郎が油濃すぎるという噂もありますが・・・(笑) |
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![]() 延岡のアーケード街 |
高鍋からのんびり国道を北上したのですが、15:00過ぎには延岡に到着してしまいました。 ここからどこかに移動するにしても微妙な時間です。 道ばたにバイクを停めて思案していたら、通りかかりのおばさんに話しかけられました。 なんでも都農町から来ているんだとかで、宮崎県のいいところを教えていただきました。 都農町では12月にクラシックのフェスタが開催されるんだとか。 行ってみたいけど、年末忙しいしなあ・・・・ 30分ほど話し込んでました。いろいろ教えていただいてありがとうございました。 |
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![]() 直ちゃん |
さて、宿へのチェックインを先に済ませてから、晩ご飯に繰り出します。 先月5分遅れで食べられなかった、 チキン南蛮のお店「直ちゃん」 にやって来ました。 なんでもここがチキン南蛮発祥のお店なんだそうです。 で、チキン南蛮誕生のきっかけは、ここの先代がアジの南蛮漬けをヒントに考案したのが始まりらしいです。 |
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![]() チキン南蛮定食 (900円くらい) |
期待に胸ふくらませて待つことしばし・・・ チキン南蛮定食が運ばれてきました。 ふむふむ、こりゃうまそうですね〜 「いただきま〜す」 うんうん、こりゃおいしいっす。 タルタルソースのようにしつこくなく、ぱくぱくといただけます。 これはオススメ! 延岡にお越しの際は是非どうぞ〜 |
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![]() 今宵は満月・・・ |
お腹いっぱいでお店を出ると、この日は満月でした。 「♪月がとっても青いから〜」 コンビニで「天孫降臨」買って帰りました。(笑) |
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to be continued・・・ | |||
2009.1.3作成 | |||
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