水面に映る空と山

 翌日は延岡からのスタートです。
 国道10号線から、すぐに国道388号線に入りました。
今回は通ったことのない豊後水道沿いルートを走ってみることにします。

道の駅北浦付近
 この日の朝は冷えたので、ちょいと道の駅北浦でトイレ休憩小休止。
 晩秋なもんで、空も海も眠たい青ですが、真夏は結構いけそうな景色です。
 缶コーヒー1本飲み終わったので、再び走り出します。
 国道388号線は、リアス式海岸を走るルートなので、結構上下左右に振り回されます。
 ということは、かなり楽しい道ってことです。
 ただ、生活道路ですから、対向車や飛び出しには十分注意が必要です・・・

ちょっとガスってきました。

山にはもやがかかってます。
 ずっと海沿いを走るつもりだったのですが、地図の確認をさぼったばっかりに行き損ないました・・・
 しょうがないので、「この先大型車通行困難」の看板があるところから脇道に入って海を目指します。
 江川の河口で海に到着。近くの岩山に登ったりして景色を堪能します。

江川河口付近

峠から見るリアス式海岸
 地図を見ていたら、海沿いの県道を南に戻ったところに
波当津海水浴場
があるのを発見。
結構有名そうなので、寄ってみることにします。
 

波当津海水浴場
 波当津海水浴場に到着しました。
 11月なので海水浴客はいませんが、サーファーの黒い頭が海に浮かんでました。
 浜には防砂林の松林が続いていました。
 古き良き日本の海岸ですねえ・・・
 ちなみに波当津海岸は、日本の青松白砂海岸百選に選ばれているんですよ。
 夏に是非来てみたいです。

松林がきれいです。

小さな湾が続きます。
楠本湾にて(多分・・・)
 波当津海岸に別れを告げ、国道388号線を北上します。
 名護屋湾、猪串湾、小蒲江湾、蒲江湾、元猿湾、河内湾、楠本湾・・・
小さな湾を次々と通過していきます。
 やがて388号線は海から離れ、峠を越えます。
 越えた先は佐伯市です。

コーヒー牛乳シリーズ
 佐伯市街に入ったところで、エブリワンで一休み。
 朝ご飯を食べていたにもかかわらず、また食べてしまいました・・・orz
 コーヒー牛乳シリーズの写真も一枚増えました(笑)

ハムエッグベーグル

佐伯城
 コンビニから、目指す佐伯城が見えました。
 えらい山の上だわ・・・メタボな私は大丈夫なんかなあ・・・(汗)

佐伯城前の小学校
 国道217号線にある大手前交差点を曲がると佐伯城前です。
 右手には佐伯小学校がありました。
 お城前だけあって、えらい立派な校門が・・・
佐伯城前には大きな駐車場がありました。
 佐伯城の旧三の丸には市民会館が建っているのです。
 駐車場は市民会館利用者のためのもののようです。
停まっている車もなかったので、利用させてもらうことにしました。
 ちなみにこの日は天童よしみのコンサート開催日だったらしく、追っかけの皆さんが並んではりました。

佐伯城三の丸櫓門(大手門)
現存
 佐伯城は、初代佐伯藩主毛利高正によって築かれました。
 1602年着工、完成は1606年です。
 八幡山山頂に本丸と三層三階の天守、南北に二の丸、北出丸、西出丸が築かれました。
 1617年、二の丸から出火し、本丸と天守を焼失しました。
以後、天守は再建されませんでした。
 太平の世に山上暮らしでは不便が多かったのでしょう。
寛永14年(1637年)に、三代藩主毛利高尚が山麓に三の丸を新設して居館を移しています。三の丸櫓門はこの時に建てられました。
(現在の門は享保11年(1726年)に再建されたもの)
 このパターンでは山上の城は放棄される事が多いのですが(佐土原城もそうでした)、佐伯城では維持・管理されていたようで、1709年に天守以外の建物が再建・修復された記録が残っています。
 明治維新後の明治4年に佐伯城は廃城となり、三の丸以外の建物はすべて払い下げになり、撤去されました。
 昭和45年には三の丸御殿の一部が解体・払い下げられてしまい、城内に現存する建物三の丸櫓門のみになってしまいました。
 

城内側から見た櫓門

佐伯城鳥瞰図
(山上部分)
 佐伯藩は初代毛利高正以来、江戸時代を通じて毛利家一家支配でした。
石高は2万石、外様、柳間詰、城主格でした。
 ここで毛利家についてご紹介・・・
 初代毛利高正の旧姓はでして、尾張国荒子庄花筏村の出身です。
高次が羽柴秀吉の馬廻衆だったので、高正も秀吉に仕えました。
 高正は秀吉の中国大返しの際、兄重政とともに毛利家に人質として預けられました。
 その時、高正を気に入った毛利輝元に、「森も毛利も似たようなもんだ。今後は毛利を名乗りなさい」(えらい乱暴な話や・・・)と言われ、以後毛利姓を名乗ります。
 その後も秀吉の子飼いとして働いていたようで、奉行として内政を行ったり、朝鮮にも出兵しています。
 大友氏改易の後、他の秀吉子飼いの奉行達同様、豊後国に所領(日田・玖珠2万石)を与えられ、直轄地の代官も兼任しています。
 関ヶ原の時は最初西軍に付き、丹後田辺城攻めに加わったりしますが、途中寝返り、藤堂高虎の取りなしもあって改易を免れています。
 関ヶ原合戦の翌年、日田から佐伯に2万石で移され、佐伯城を築くなど藩政の基礎を築きます。
 しかし、徳川家に目をつけられていたようで、江戸・駿府・名古屋・大坂の天下普請にかり出され、藩財政は一気に悪化したようです。

ずーっとこんな感じです
(尾根筋ルート)
 とまあ能書きはこれくらいにして、三の丸から本丸を目指しますよ。
 えーっとルートは三つあるんですよ。
 尾根筋を行くルートと、江戸時代の登城ルート、あと「詩人の路」だかなんだかという変な名前の付いたルート
 うーん、眺望があるかな〜と、尾根筋ルートを行ってみました。
 ・・・木だらけでなんも見えん・・・
 で、結構きついんですよ、坂が・・・
 重たいお腹を抱えているから、なおさら・・・
 途中、4回ほど息継ぎをしました(笑)

西出丸入り口
 15分くらい歩いたかな?
 ようやく西の出丸の入り口に到着です。

西の出丸から佐伯市街を見る
 西出丸からは結構眺望がききまして、海側から山側までの佐伯市街を見ることができます。
 お弁当広げてる人たちもいました。
 あと遠足の保育園児も・・・

西の出丸から佐伯市街を見る2

二の丸入り口
 西出丸の次は二の丸に向かいます。
 石垣はさほど高くなく、せいぜい肩辺りまでです。
 が、かつてはこの上に渡櫓門がそびえていたので、乗り越える事は不可能だったことでしょう。
 おもしろいのは、スペースの関係か、虎口がくの字に折れ曲がっただけになっていることです。
 幅は大人二人が並んで歩くのがやっとなんで、これでよかったのかな?

くの字になった二の丸虎口

二の丸
 二の丸は比較的広々としていて、かつての居館はここにあったようです。
 二の丸の一番奥には、本丸へのルートと、本丸帯曲輪に降りるルートがありました。

二の丸から本丸へのルート
(橋が架かっています)

本丸への石段
 二の丸と本丸の間には小さいながらも堀切があり、橋を落とすと通行できなくなっていました。
 かつてここには廊下橋がかかっていたそうです。
 橋を渡り終えると、大人一人通るのがやっとの石段があり、ここを登ったところが本丸になります。

二の丸から本丸への橋

天守台
本丸は非常に狭く、しかもその中央に天守台があります。
 そのため、本丸北西隅にあった二重櫓跡は、非常に小さいものでした。
 本丸の中央に天守台というのは安土城にも見られる形式で、とっても古風な建て方なのです。

本丸二重櫓跡

本丸から帯曲輪への石段
 本丸の反対側には、帯曲輪に降りる急な石段がありました。
 帯曲輪から見る本丸の石垣はかなりの高さです。攻め込むにはかなりつらそうです。

本丸石垣

北出丸
(本丸から)
 帯曲輪から喰違虎口を出た先には、北出丸があります。
 北出丸の一番先には北出丸二重櫓があり、北の尾根筋に睨みをきかせていました。

食い違い虎口
(この上には櫓門がありました)

水の手門
 北出丸には水の手門がありました。
 ここを下ったところには、谷を石垣で塞いだ貯水池(雄池と雌池)が残っています。
 山城に残る貯水池は、ここや備中松山城など数例しかなく、大変貴重なものです。

北出丸全景

登城道
 さて、佐伯城も一回り見たので、帰りは江戸時代の登城ルートで下山することにします。
 これは谷筋をつづら折れに通っているルートなので、歩き辛いルートです。
しかも中途半端に石畳なので、時折滑ります(笑)
 慎重に下山しました・・・

佐伯城縄張り図

武家屋敷門
 佐伯は城下町の趣を今に伝える街でもあります。
 三の丸下には、かつての武家屋敷の塀や門が残っていて、江戸時代の雰囲気を伝えています。 

井戸

武家屋敷門と丸ポスト
 結構画になる風景でしょ?
武家屋敷長屋門

お菓子のうめだ
 食い意地張った私の事。
 当然お城だけ見て帰った訳ではございません。(笑)
 国道沿いにあったお菓子屋さんに、ふらりと立ち寄ってみました。
 「佐伯むすめ」っておまんじゅう見つけました。
 中の餡は、こしあんや抹茶などのオーソドックスなものから、カフェオレやお味噌までバラエティに富んでます。
 私のお薦めは味噌餡
これ結構いけます。
 佐伯にお越しの時はお試しあれ〜

to be continued・・・
2009.1.10作成
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