毎日新聞社(笑)
 竹橋御門跡を渡ると、左手には毎日新聞社(笑)がありました。
 毎日新聞といえば英字サイトで、日本人を貶める事実無根の記事を10年以上も海外に垂れ流し続けたってことで有名になってましたね〜
 

平川門前
 毎日新聞社前には平川門がありました。
 江戸城からみて鬼門にあたることから普段は閉ざされていて、城内で死者が出た時はこの門から城外へ運び出されたそうです。
 この門も枡形虎口形式でした。
ちょっと変わっているのは、枡形内に入る門が、城外からと帯曲輪からの二つのルートがあることです。
 こういう門はちょっと見たことないですねえ〜

平川門二の門

平川門一の門

帯曲輪門

平川門解説板
 平川門内には警察の詰め所があります。
 ここで入園証を再びもらって城内にはいります。

下梅林門へ
 平川門を入って右にUターンするように歩くと下梅林門跡に出ます。
 この門を入ると二の丸になります。

天神堀

下梅林門枡形

上梅林門跡
 梅林坂は、本丸と二の丸を結ぶ坂道です。
 江戸城を最初に築いたのは太田道灌なんですが、道灌がこの場所に天神社を祭り、梅を数百株植えたことからこの名がついた・・・と書いてました(笑)
 この坂を登ったところが、上梅林門です。

解説板

梅林坂・汐見坂間の石垣
 梅林坂から汐見坂間の石垣の建造は、1656年(明暦2年)から始まったのですが、翌年に明暦の大火が起こっていて、工事に影響がありました。
 石垣の裏には、火災で焼けたり溶けたりした瓦が埋め込まれているそうです。

削った跡が残ってます

解説板
 また、この石垣が出来る以前、ここには徳川家康を祭った東照社の石垣があり、土台に流用されていることが分かったそうです。
解説板

汐見坂
 本丸への入り口の一つ、汐見坂です。
 今では信じられませんが、かつては皇居前広場あたりまで入り江が広がっていて、この場所から海が見えたことからこの名が付いたそうです。
 坂の上には汐見坂門がありました。

汐見坂の解説板

汐見坂門跡

白鳥堀
 本丸と二の丸の間には白鳥堀があります。
 かつて白鳥が飼育されていたことからこの名が付きました。 
 築城当時はもっと大きな堀だったようですが、平和な時代になって埋め立てられ、かなり縮小したようです。
 五代将軍綱吉の時代には堀の上に能舞台が設けられ、納涼能?が演じられたそうです。

白鳥堀と本丸石垣

二の丸庭園
 二の丸には9代将軍家重時代の庭園が復元されていました。

桔梗堀
 さて、本丸・二の丸を見終えたので、外に出てきました。
 桔梗堀端をてくてくと歩いて皇居外苑へ向かいます。

桜田二重櫓
 三の丸隅には桜田二重櫓がそびえていました。
 堀に映った姿には、なかなかの風情があります。
 江戸城には20もの櫓がありましたが、この櫓はその中でも小さい方なのです。

皇居外苑案内図
 かつての西の丸下、今の皇居外苑までやってきました。
 坂下門前からまっすぐに行幸通りが延びてます。
 この通りは、お召し列車に乗る天皇陛下が東京駅に向かうためにつくられました。

行幸通り

桔梗門
 桔梗門は、かつて内桜田門とよばれていました。
 三の丸南門に当たるこの門は、幕府の要職者が登下城する門で、6大門の一つでした。

蛤堀と蓮池辰巳櫓跡

坂下門
 桔梗門のすぐ近くには坂下門があります。
 西の丸への入り口になる門です。
 現在の門は正面にありますが、かつては左に折れた位置にありました。
 この門外では和宮降嫁に怒った水戸浪士が、時の老中安藤信正を襲撃する事件が起こっています。
 この時はからくも門内に逃げ込み、信正は助かっています。

皇居正門
(旧 西の丸大手御門)
 現在の皇居正門、かつての西の丸大手門です。
 江戸城は一つの城のように思われていますが、実は二つの城の集合体一城別郭といいます。)なのです。
 つまり、本丸を中心とする江戸城と、西の丸を中心とする江戸城があるという訳です。
 現在の西の丸大手門は一重の門ですが、かつては枡形が設けられ、二重の門構えとなっていました。

二重橋と伏見櫓・伏見多聞

西の丸の石垣
 もう一つの本丸である西の丸には、次の将軍たるお世継ぎや、隠居した将軍である大御所が暮らしていました。

桜田門
 西の丸下の西門である桜田門です。
 桜田門と言えば、有名な「桜田門外の変」が起こった場所です。
 現在の憲政記念館あたりにあった井伊家上屋敷から登城せんとしていた大老井伊直弼を、水戸・薩摩の浪士が襲撃して殺害した事件です。
 これにより、幕府の権威は大きく傷ついてしまいました。
 また大久保利通暗殺までの、テロと暗殺時代の幕開けともなったのです。

桜田門外
 ちょっと調べてみてびっくりしたのですが、直弼を守ることができなかった家臣達のその後です。
 直弼を守ろうとして果たせず、死亡した家臣8名については跡目相続が認められました。
 問題は生き残った家臣達です。
 重傷者は減知(減給ですね)の上、流罪幽閉
 軽傷者は切腹(!)
 無傷の者については士分(侍身分)から駕籠かきに至るまで斬首および家名断絶。
 切腹すら認められませんでした・・・
 また処分は本人にとどまらず、親族にも及びました。
 すごく厳しいような気もしますが、武士と言えばもともと軍人な訳で、
けが人はともかく無傷の家臣については敵前逃亡扱いもやむを得ないのかな・・・と思います。

警視庁
(桜田門)
 さて現在、桜田門前には警視庁のビルがそびえています。
 警視庁が別名「桜田門」と呼ばれる由縁です。
 その向こうには、選良(笑)が集う場所、国会議事堂が見えました。
 井伊家上屋敷はあの辺りですね〜

国会議事堂

桜田門を望む
 少し離れたところから桜田門を見てみました。
 それにしても桜田堀は土居が美しいです。 

土居が美しい桜田堀

国道20号線です。
 歩くのにも少々飽きてきました。(疲れてきたとも言います)
 霞ヶ関から日比谷線に乗って渋谷を目指すことにします。
to be continued・・・
2008.12.5作成
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