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![]() 大洲城古図 (案内板) |
内子の街を後にして、やって来たのは大洲市。 ここには加藤家6万石の居城、大洲城があります。 現存4櫓(台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓)と、 市民の寄付によって2004年に復元された4層4階の天守があります。 小さいながらも見所多いお城だと聞いていたのでわくわくしながらやって来ました。 (^^ |
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![]() 二の丸大手門跡 (左手に石垣が残っています) |
まずは二の丸大手門跡にやって来ました。 今は埋め立てられていますが、かつては内堀を渡ったところにあった、枡形を持つ櫓門でした。 石垣がわずかに残っているのが見えますか? |
![]() 案内板 |
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![]() 下台所 |
大手門をくぐると、上下2段に分かれた二の丸がありました。 二の丸下の段に残っているのが下台所。 かつては食料庫として使用されていた建物で、床下が吹き抜けになっているのが分かるかなあ? |
![]() 解説板 |
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![]() 下台所から本丸を見上げる。 |
〜大洲城の歴史〜 この地に初めて築城したのは、鎌倉時代の守護であった宇都宮豊房(伊予宇都宮氏)で、1331年の事だと言われています。 戦国時代末期、宇都宮氏は長曽我部に通じた家臣、大野直之に追われます。 しかし大野直之も羽柴秀吉による四国征伐で小早川隆景に敗れ、 大洲城は伊予35万石を与えられた小早川家の一支城となります。 その後小早川家は筑前名島へ移り、大洲城には戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が入ります。 藤堂氏、脇坂氏の時代に天守を含む現在の大洲城が完成したと言われています。 1617年に伯耆米子から加藤貞泰が6万石で入り、以後加藤家支配のまま明治維新を迎えます。 |
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![]() 二の丸解説板 |
二の丸下の段には、藩主が政務を執り行う表御殿があり、 上の段には藩主の生活の場である奥御殿の建物が並んでいました。 |
![]() 二の丸上の段 (本丸から見下ろす) |
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![]() 二の丸から天守を見る |
本丸を巻くように歩いていくと天守群が見えてきました。 この天守は2004年に木造で復元されました。 藩大工の家に天守の木組み模型が残っていたことや、明治期の鮮明な写真(石垣の石が一つ一つ確認できるほど)があったなどの幸運に恵まれ、解体前の勇姿が忠実に復元されました。 |
![]() 天守(木造復元)と高欄櫓(現存) |
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![]() 解説板 |
この復元に伴う発掘調査で、天守の地下に大型建物の痕跡が残っていることが判明しました。 いつの時代の建物だったのか?現在の天守は2代目だったのか? 興味は尽きないところです。 |
![]() 本丸南面の石垣 |
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![]() 暗がり門跡 |
本丸への入り口、暗がり門跡です。 かつては枡形に覆い被さるように櫓門が建っていたため、門内は真っ暗でした。 このために暗がり門の名前が付きました。 現在は直進していますが、かつては左に折れるようになっていて、門内に侵入した敵が暗闇の中で混乱する仕掛けでした。 |
![]() 解説板 |
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![]() 天守群 (左から高欄櫓、天守、台所櫓) |
大洲城は背後に肱川を持つ後堅固のお城でした。 従ってその縄張りも本丸に向かって階段状に曲輪が並ぶ梯郭式と呼ばれるものです。 かつての本丸の周囲は多聞櫓で囲まれていて、堅い守りを誇っていました。 |
![]() 肱川の流れ |
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![]() 大洲城天守木組み模型 |
また天守は両脇に付櫓を持つ連立式です。 また大洲城天守の大黒柱は、中心からややずれた位置に建っていたことが分かっています。 不思議な構造ですよね・・・ |
![]() 大洲城古図 (梯郭式の縄張りがよく分かります) |
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![]() 台所櫓内部 |
一説には1階に吹き抜け空間を作るためだったとも言われています。 さて、天守群には台所櫓にある受付から入ります(入場料500円) 台所櫓内には土間があり、籠城時にはここで煮炊きする計画だったようです。 |
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![]() 真新しい天守内部 |
台所櫓を過ぎると木組みが新しくなり、新築されたことが一目で分かります。 | ![]() 出窓 |
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![]() 天守からの眺め (北面) |
狭い階段を登って天守最上階へ。 層塔型のため、表にでることは出来ませんが、眺めはよかったですよ〜 |
![]() 頭上注意! |
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![]() 天守から見た高欄櫓 |
天守を堪能した後は高欄櫓へ | ![]() 天守から見た台所櫓 |
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![]() 高欄櫓内部 (石落とし) |
高欄櫓は、南方に高欄を持つことからその名が付きました。 | ![]() 高欄櫓内部 (梁) |
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![]() 本丸北側二の丸跡 |
本丸北側にも二の丸があり、肱川越の攻撃に対応するために二基の二層櫓(鉄砲櫓・玉櫓)が建てられ、守りを固めていました。 | ||
![]() 水手門跡 |
二の丸から本丸北側に沿って下がって来ると、かつての水手門・水手櫓跡に出ます。 この門を出ると肱川に出ることが出来ました。 脱出経路や、肱川越の攻撃に対応するために造られたようです。 |
![]() 水手門・水手櫓跡 |
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![]() 苧綿櫓 |
水手門跡から細い遊歩道を歩いた先に苧綿櫓があります。 | ![]() 解説板 |
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![]() 苧綿櫓 |
この櫓は二の丸の東北端に建っています。 建物は現存ですが、肱川の洪水対策で、石垣が2.9メートルかさ上げされています。 かつてはもっと水面に近い櫓だったのです。 |
![]() 肱川 |
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![]() 二の丸南面石垣 (市民会館裏) |
苧綿櫓から二の丸上の段を通ってお城の西北にある二の丸搦め手門を目指します。 | ||
![]() 二の丸搦め手門跡 |
二の丸搦め手門跡を出ると急な石段を下り、かつての内堀跡にでます。 かつての内堀は菖蒲園としてかろうじて残っていました。 |
![]() 内堀跡 (菖蒲園になってます) |
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![]() 搦め手門下からみた天守 |
菖蒲園前には大洲のユースホステルが建ってました。 その前をてくてく歩いてかつての三の丸を歩くことにします。 |
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![]() かつての三の丸石垣 |
三の丸の石垣が残っていました。 大洲城の堀跡はほぼ埋め立てられていますが、区画がはっきりしているのでその範囲がわかりやすいです。 |
![]() 道から外側が外堀でした。 |
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![]() その名も三の丸バス停 |
かつての外堀に沿って歩きます。 大洲城の南西側は自然の山が防衛ラインになっていました。 そこからは三の丸跡を歩きます。 |
![]() 大洲市のマンホールは鵜 |
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![]() 三の丸南隅櫓 |
三の丸バス停の交差点を南に歩くと 三の丸南隅櫓 がありました。 櫓下に広がるグランドは、かつての外堀跡です。 |
![]() 解説板 |
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![]() 三の丸大手門跡 (左は大洲高校) |
南隅櫓をさらに南に歩くと、 三の丸大手門跡 にでます。 今は学校のために削り取られていますが、左側には山がありました。 大手門前に立って本丸を見ると、三の丸南隅櫓などが、視覚を計算して建てられていることがよく分かります。 すべての建物があった頃はさぞや壮観だったでしょう・・・ |
![]() 三の丸大手門跡から本丸を望む |
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![]() 外堀跡 |
かつての外堀は埋め立てられて大洲高校のグランドになっていました。 この堀が復元されたらなあ・・・ とある城ヲタは妄想してみました・・・(笑) |
![]() 三の丸南隅櫓 (ちょっと痛々しい・・・) |
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![]() 大洲城 |
今度は小学校の辺りから本丸を見てみました。 大洲市街にはあまり高い建物がないので、 江戸時代の大洲城を想像しやすくて楽しいです。 |
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![]() 月窓餅のお店 |
城下町も歩いてみようとぶらぶらしてたら、おいしそうな看板を発見! さっそく買ってみました。 「月窓餅」 はわらび餅でこしあんをくるみ、きな粉をまぶしたお菓子でした。 |
![]() 買ってみました |
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![]() おいしそう〜 |
「月窓餅」 を作っているのは、 創業1624年(!) の 「村田文福老舗」 この店の主人が、大洲特産のわらび粉を使ったこのお菓子をお殿様に献上したところ、時の藩主加藤泰興は大変喜び、自分の号である「月窓」の名を与えたのだとか。 以来、大洲名物なんだそうですよ〜 大洲に来たらぜひどうぞ。 |
![]() ウマー!! |
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to be continued・・・ | |||
2009.8.23作成 | |||
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