敦賀湾
 とある5月の晴れた日に、れんとは旅に出ました。
 面白い日本酒の本を見つけてからというもの、おいしい日本酒に興味津々。
 まずは福井県の蔵から訪ねようと言うわけです。
 ETC割引の車を尻目に、定価で高速を利用するれんと。
 真のセレブは割引なんか利用しちゃいけません(笑)
 日本経済を立て直すため、定価で利用しなくては・・・泣
 北陸道をひた走ると、美しい敦賀湾が見えてきました。
 まずは杉津PAで一休みです。
 まだ10:30ですが、なんか
走ってばかりで退屈

したので、
軽くソースカツ丼定食

をいただきました(笑)


福井城本丸堀
 12:00前に福井城前に到着しました。
 なに?酒蔵に行くんじゃないのかって?
 酒蔵だけじゃ間が持たないですから・・・
ほら、なんせバイクだから
飲めないでしょ?(笑)
 福井城の真ん前に福井中央郵便局があったので、
そこの駐輪場を利用しました。
 この日はとっても暑かったので、
郵便局前のコンビニでお茶を買ってから福井城見学へと向かいます。

福井城石垣
美しい切り込みハギです・・・
福井城の歴史(笑)
 えーとですね、福井城は大きく2期に分かれております。
 T期は織田信長の重臣であった
柴田勝家

が築いた北の庄城です。
 朝倉氏が滅亡したあと、
越前を支配していた一向一揆を鎮圧した功により、
越前に領地を与えられた柴田勝家が、
ここに城を築いたとされています。
 本丸は現在の柴田神社の辺りにあったと伝わっていますが、
確定されていません。
 文献によると、足羽山で産出する笏谷石製の石瓦で屋根を葺かれていた。
(同じ福井県にある丸岡城屋根も同じです)
天守は7重(もしくは9重)の屋根を持つ巨大なもので、
安土城に匹敵する大きさだったと伝えられています。
 柴田勝家による北の庄城は、同じ位置に現在の福井城が築かれたため、
正確な位置などを含めて詳しいことは分かっていません。
 

見事な雁木
 現在の福井城は、
関ヶ原の合戦後に越前で68万石を与えられた
結城秀康(徳川家康の次男)
が、1601年から6年をかけて築いたものです。
 2代将軍秀忠の兄でもあり、
「制外の家」とされた結城秀康の居城となった北の庄城は、
2キロ四方の広さを持ち、何重の堀で囲まれ、
4重5階の天守が建てられました。
 北の庄という地名を「福井」に改めたのは、
城主としては4代目の松平忠昌です。
(始め福居、後に福井)
 その後、1669年に天守をはじめ多くの建物を火災で失いました。
 天守は再建されず、二重の辰巳櫓を三重に改築して天守の代用としました。
 明治維新後、すべての建物は撤去され、
堀も本丸の周囲を残すのみとなりました。
 本丸内には福井県庁、福井県議事堂、福井県警本部のビルが建ち並び、
いまだに福井県の政治の中心となっています。
 

山里口御門跡
 福井城は笏谷石の石垣がとても見事でした。
 かなり高い石垣で、お城ファンなら一見の価値有りですぞ〜

解説

御廊下橋
殿様の姿が見えないようにするための橋です。
 後期の福井藩主は本丸に住まず、西三の丸にあった御座所で生活していたようです。
 政務を見るために本丸へ向かう藩主が利用した廊下橋が復元されていました。
 廊下橋は他に府内城(大分県)や和歌山城で見ることが出来ます。

解説板

天守曲輪石垣
 福井城本丸には一段高い天守曲輪があり、
その中にあった天守台上に4層5階の天守が建てられていました。
 天守台の大きさは東西11間、南北13間あり、
広島城天守より大きいのです。
かなり大きいでしょ? 

福の井
 天守曲輪には福の井と呼ばれる井戸がありました。
 この井戸が福井の名前の元になったのです。

天守台入り口

天守台入り口
 天守台の南側には脇櫓台があって、脇櫓が建っていました。
天守台上

福井城天守絵図
 福井城は屋根こそ4重でしたが、最下層が2階構造になっていて、
5重天守に匹敵する規模を持っていました。
 5重天守は遠慮したものの、
実質5重の天守を築く事によって
将軍家の兄である威信を示そうとしたのでしょう。
 しかしこれが将軍家にとっては気になる所であったようです。
 秀康に始まる越前系の松平家は、
その後巧妙に領地を分割されてしまい、
もっとも石高の多かった福井藩でも幕末には32万石で、
水戸家を下回っていました。

小天守台
 天守台東側には小天守台がありました。
 一部陥没しているのは福井地震によるものです。
 痛々しいですねえ・・・

天守台石垣

廊下橋を見る
 天守台からは廊下橋を見おろすことが出来ました。
福井県庁

結城秀康像
 越前系松平家の祖、結城秀康家康の次男でした。
 生まれたときに醜かったことから家康に疎まれ、浜松城外の家臣の家で育ちます。
 不憫に思った兄信康の取りなしで、ようやく父に目通りがかないますが、冷遇は続きます。
 信康亡き後は徳川家の長子だったのですが、豊臣秀吉に養子(実質人質)に出されてしまいます。
 さらに豊臣家から関東の名家である結城家に養子に出され、
結城秀康
と名乗る訳です。
 関ヶ原合戦では小山へ残され、将軍家は弟秀忠が継ぐことになり、秀康はさぞや不満であったろうと思います。
 結局、秀康は1607年に34才の若さでこの世を去ります。

結城秀康肖像

御本城橋
(本丸大手)
 秀康の子孫はいくつかの大名家に別れています。
以下ちょっとご紹介・・・

 津山藩・・・長男忠直から続く。幕末時10万石。 
 福井藩・・・次男忠昌から続く。幕末時32万石。
        分家に糸魚川藩(1万石)あり。
 松江藩・・・三男直政から続く。幕末時18万6千石。
        分家に広瀬藩(3万石)母里藩(1万石)あり。
 大和守家・・5男直基から続く。結城家の祭祀を継ぐ。
         この家系は以前このHPでも紹介した
         「引っ越し大名」さんです。(笑)
         越前勝山→越前大野→山形→姫路→越後村上
         →豊後日田→山形→陸奥白河→姫路→前橋
         →川越→前橋
         とめまぐるしく引っ越してます。
         幕末の頃は17万石でした。
 明石藩・・・6男直良から続く。幕末時8万石(10万石格)

とまあこんな感じですね。
 全国各地に散ってますねえ・・・
だから、このHPによく登場するわけです
(笑)

 ちなみに津山市の市章「剣大」は、
信康>秀康に受け継がれ、
越前松平宗家の合印(略章)であった
「剣大」
をそのまま使っているんですよ。
 あと、名古屋市の市章「丸八」も、尾張徳川家の合印です。
          

福井城本丸鳥瞰図

辰巳櫓跡
 天守焼失後は、本丸南東隅にあった
辰巳櫓

を3重に改築して天守代用としました。
 幕末の写真が残ってます。

天守代用の三重櫓が建っていました。

本丸東側堀
 御本城橋から出て、お堀端をてくてくと歩きます。
 幅の広い立派な堀が巡っています。
 かつて福井城には何重もの堀が巡っていまして、
百間堀

という巨大なものもありました。
 現在は埋め立てられてしまい、
右の地図でいうと水色の部分しか残っていません。

現在の福井市との比較

ヨーロッパ軒
 お友達どんちゃんからメール受信。
 福井には
ソースカツ丼発祥のお店

があるとのこと。
 ・・・早く言ってよ(笑)
 と言うわけで、片町にあるソースカツ丼のお店にやって来ました。
 本日2回目の昼食でございます。
(爆)
ウマー
でございます。
おすすめ!
 あと、すぐ近くに羽二重餅の元祖
「錦梅堂」
さんもあります。
 お土産にどうぞです。

元祖ソースカツ丼

舎人門
 福井城本丸の北に、発掘復元された門があるというので見に行きました。
 舎人門といいまして、福井城の外堀にあった門です。
 すぐ隣に福井市立郷土歴史博物館御泉水屋敷(福井藩別邸)があります。
 この発掘で上水の跡も見つかっていて、とても面白かったですよ。
 ついでに博物館も見学してきました。
 博物館に取材に来ていた新聞記者に写真を撮られました。
(見学風景って感じで、展示物を見ててくださいって言われた)
 どの新聞だったかって?
 それを聞き忘れちゃって・・・
せっかくの新聞デビューだったのに(笑)
 博物館内は福井城や福井の歴史、福井が生んだ著名人関連の
展示が充実していました。
 歴史ファンなら必見です。

福井城マップ

久しぶりに愛車の写真
(このHPはツーリングのHPか?という質問多数)
 せっかくの福井県ってことで、朝倉氏の拠点だった
一乗谷
にやって来ました。
 福井市街から意外と近く、15キロほどの距離のところにあります。

下木戸解説板

復元された下木戸の土塁と堀
 足羽川の支流である一乗谷川に沿った小さな盆地(東西約500メートル、南北約3キロメートル)に、朝倉氏の居館と城下町がありました。
発掘された下木戸の虎口と石垣

一乗谷案内図
 左の地図が一乗谷の全体図になります。
 谷の入り口を土塁と堀で遮断(上木戸、下木戸)するとともに、
谷を見下ろす尾根には山城が連続して築かれ、
館と城下町を守っていました。 
 朝倉氏は、ここ一乗谷に南北朝時代から本拠地を構えていたようです。
 その後朝倉孝景の頃に全盛期を迎え、
人口は1万人を超えていたとされています。
 この孝景という人は名君として知られていまして、
有名な家訓も残してますよ。
 朝倉氏は加賀の一向一揆の勢力との摩擦はありましたが、
かなりの勢力を蓄え、
応仁の乱で荒れ果てた京都からたくさんの貴人が落ち延びて来たため、
文化活動も盛んだったようです。
 三好氏に対抗するために、足利義昭(室町幕府15代将軍)も
一度はここに滞在しています。
 しかし朝倉義景(ゲーム信長の野望にも出てきますね)の時、
織田信長との抗争が始まります。
 結局、義景は信長の前に敗れ、
義景は逃亡先の越前大野で自刃。
一族も織田信長に虐殺されました。
 その後、越前は朝倉家の旧臣である前波吉継が治めましたが、
越前一向一揆の前に破れて自刃。
 その後は柴田勝家が治めることになりました。
 勝家は本拠地を北の庄(福井)に置いたため、
一乗谷は田畑に埋もれていきました。

朝倉景鏡屋敷跡解説板
 朝倉景鏡といえば義景のいとこでして、朝倉家の重鎮で、越前大野が所領でした。
 対信長戦役では一乗谷で敗れた義景を自領に招いた上で自害に追い込み義景の家族を捕縛して信長に差し出して許されています。
 本領を安堵されていましたが、越前一向一揆の時、一揆勢に囲まれて討ち死にし、子供達も殺害されています・・・
 因果は巡るのかな・・・

ここに住んでたんだな・・・

城下町発掘中
 で、現在の一乗谷では発掘調査がすすんでおりまして、
かつての街並みがかなり詳細に分かってきています。

復元された街並み
 一部は通りが復元され、出土した礎石などが見学できるようになっています。
解説板

蔵の跡なんだそうです。
 町人町の辺りが復元されていたのですが、
蔵の跡があったり、医者の屋敷跡があったりと
非常に面白かったですよ〜

武家屋敷跡
 もちろん城下町ですから武家屋敷もあります。
 左の写真は武家屋敷の跡ですが、
ちゃんと門が食い違い虎口になってるでしょ?

復元された街並み
 入場料はいりますが、一部建物が推定復元されている区画もありました。
 朝倉氏の全盛時代はこんな感じの街並みだったんですね〜

この辺武家屋敷

義景の館跡
 さあ、一乗谷の中心、
朝倉義景の館跡
にやってきましたよ。
 わりと小さな館造りですが、館廻りには堀が巡っていました。

館跡の唐門
(秀吉の寄進、江戸時代中期の再建)

屋敷跡
 唐門をくぐると屋敷跡。
 意外な狭さにびっくりです。

解説板

櫓台跡
(石列が見えるかな?)
 館の隅には土塁造りの櫓台がありました。
 かつては櫓が建っていたのでしょう。
 手前の石列(見えるかな?)は、弓の的の跡らしいですよ。

櫓台から見下ろします。
 館から山を登っていくと、一段高いところに庭園の跡がありました。
 湯殿跡庭園
というところで、孝景時代に築かれた古いものなんだそうです。

ここから一乗谷城(山城)に登ります。
 湯殿跡庭園の脇には、山上にある一乗谷城への登山口がありました。

庭園跡から屋敷跡を見る。
 湯殿庭園からは、義景館の全部を見下ろすことができます。
 越前一国を支配したにしては小さいかな?
 でも甲府館もこんな感じだったし、こんなものなのかも。

解説板

空堀
 庭園脇には巨大な空堀がありました。
 やはり戦時を意識した造りになっていますね。

中の御殿跡
 堀を渡った先は、中の御殿跡でした。
 ここには義景の母が暮らしていたとされています。

解説板

ここは整備中
 中の御殿の山側には土塁と空堀があって、背後からの攻撃に対する備えとなっていました。
堀と土塁

諏訪館跡
 その南側には諏訪館跡がありました。
 ここには義景の妻である小少将が住んでいたと言われています。

解説板

上木戸跡
 一乗谷遺跡の南端には、上木戸跡の土塁が復元整備されていました。
 かなり巨大なものでして、朝倉氏の栄華を偲ぶよすがになります。

なんだこの看板?
 一乗谷を見た後、近くにある
一乗谷朝倉氏遺跡資料館
を見物。
 閉館時間がきたので、福井市内に引き返します。
 が、道中の電柱で
妙な看板を発見

 看板に誘われるまま、一軒のお宅を訪問します。

ここ?

見事な蔵ですね
 説明によれば、400年の歴史を持つお酒なんだそうで、みりん酒に秘伝の薬草を浸した
薬用酒
なんだとか。
 体質改善にばっちりなんだそうで、とりあえずおためしサイズを購入してみました。
 その日の宿で飲んだ感想・・・
「薬くさい!」
まあ薬用酒なんだから当たり前なんだけど・・・(笑)
 まあ効いたような気はします。
 一乗谷にお越しの際はお試しあれ。
 でもお店が分かりにくいよね・・・

これが蘭じゃ酒
(お試しサイズ)

越前そばのお店
 チェックイン前に晩ご飯。
 めんどくさいのでぐる○びで調べたお店にGO!
 さっそく
越前そば
をいただきました・・・
福井はやっぱりこれですよね〜
おいしいっす

うん、うまい

そば汁粉
 そば大盛りを平らげましたが、隣のお客さんが
そば汁粉
(蕎麦の実入り)
を食べていたので私も注文(笑)
 ほんのり甘くておいしかったです。

福井のぬこ

日向門跡
 食べ過ぎたので、付近をぶらぶら。
 福井のぬことの会話を楽しみました。
 いや、
「にゃー」っていうと、
「にゃー」って返事してくれるからつい・・・
 ぶらぶら歩いていても城跡にたどり着くのが
真の城オタ。
 福井城の日向門跡に到着していました。

解説板
 福井城の三の丸にあった門で、南側に開いていました。
 当時、この門は高さ3メートルの土塁で囲まれていたそうです。

日向門跡

九十九橋解説板
 江戸時代に足羽川に架けられていた
九十九橋
の解説板がありました。
 九十九橋は半分石橋、半分木橋で出来ていた有名な橋で、江戸時代の全国橋番付でも紹介されています。
(横綱が矢作橋(愛知県岡崎市)だったような・・・)

レプリカ

柴田神社
 同じ敷地に
柴田神社

がありました。
 言い伝えに寄れば、柴田時代の北の庄城の本丸はこの辺りだったそうです。
 とすれば勝家とお市の方はこの辺りで自害したということになります。

柴田勝家とお市の方
三人の娘達
 本丸かどうかは分かりませんが、北の庄城時代の石垣が発見されていました。
 福井城築城の際に破壊されていますが、間違いなく石垣の石列でした。
 

北の庄城堀跡

石垣が残ってます。
to be continued・・・
2010.1.23作成
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