武田神社
(武田館跡)
 さて、翌日も早起きして行動開始です。
 まずは甲府駅の北にある
武田神社
にやってきました。
 武田神社は、
躑躅が崎館
(甲斐武田氏の居館)跡に建っているのです。
 躑躅が崎館といえば、
武田信虎、晴信(信玄)、勝頼

の居館だったところで、武田氏最盛期の本拠地だったところです。

城の真ん前に
穴山入道梅雪の屋敷跡

館と城下地図
 躑躅が崎館は、北にある要害山城(いわゆる詰めの城)という戦時の山城を持つ平時の館でした。
 城の周囲には有力家臣団の屋敷があり、
家臣団の統制を図っていました。
 街角にある歴史地図をみると、馬場や山県、真田など、歴史好きにはよく知られた名前が見えます。

家臣団の屋敷跡マップ

武田神社参道
 躑躅が崎館は当初本丸だけでしたが、武田氏時代に西曲輪が増設され、
武田氏滅亡後も改修が加えられていたようです。
 甲府城が築城されたとき、甲斐の中心はそちらに移り、躑躅が崎館と要害山城は廃城となったようです。

水堀

まっすぐに伸びる道
 武田時代の甲府では、京都を真似た街作りが行われていたようです。
 館前の道は、まっすぐ南に延びていました。

武田神社本殿
 さて本丸跡の武田神社にご挨拶。
 で、帰りがけに奉納された絵馬をみていると・・・
「ま、間違えとるやん・・・」
 この絵馬の主は果たして
大「物」
になれるのでしょうか・・・
(^^;

残念な間違い・・・(笑)

うっそうと茂る西側の堀
 現在は神社の境内だけあって、
ちょっとお城の跡には見えないですよね・・・
 でも発掘では石垣なども出てきているんですよ〜

発掘調査を示す解説板

発掘により復元された石段
 本丸の東側では現在も発掘が続けられているようです。
 武田氏以後に築かれたとみられる
大手馬出石垣
と石段、
その外側にあった惣堀が一部復元されていました・

復元された堀

本丸東側の大手の部分です。
 左が躑躅が崎館の縄張りで、復元されているのは
黒い四角で囲まれた部分です。
 しかし、この石垣の下には、武田時代のものと見られる
三日月堀と丸馬出
が発掘されています。
 この三日月堀と丸馬出は、武田氏によって造られたお城の特徴でして、他に新府城(山梨県)や松本城(長野県)、諏訪原城(静岡県)で見ることができます。
 神社の宝物館は、訪問が早すぎて開いていませんでした(笑)
 仕方ないのであきらめることにします。

改修を受けたことが分かったそうです。

山手御門解説板
 はい、躑躅が崎から南へ2キロほど、
甲府城にやってきました。
 甲府城はその城域を甲府駅で寸断されている上、かつての三の丸には県庁があります。
 まずは甲府駅で分断された北側にある、
山手御門にやってきました。

山手御門一の門

山手御門二の門
(櫓門)
 山手御門は最近になって復元されたもので、
周囲は歴史公園という形で整備されていました。
 街中に門だけあるってのも妙な感じですが・・・
(^^;

山手御門から本丸を見る
(中央本線の電車が見えます)

陸橋から見た山手御門
 甲府駅の北側と南側は、年期の入った陸橋で結ばれています。
 陸橋の上からも写真を撮ってみました。
 いよいよ本丸へ向かいます。

陸橋からみた天守台と稲荷櫓

復元された稲荷櫓
 ここで甲府城の歴史など・・・(笑)
 本能寺の変のどさくさで、徳川家康が甲信2カ国を手に入れたのはご存じとは思いますが、
その時、家康は甲府城の築城を平岩親吉に命じています。
 が、完成を見る前に徳川家は関東に移封されてしまいます。
 対徳川の最前線となった甲府には豊臣秀勝(秀吉の甥、秀次の弟)が、
甲信2カ国を与えられて城主となります。
 その後も加藤光泰浅野長政・幸長父子など、
秀吉子飼いが甲府城に入ります。
 いかに豊臣秀吉甲斐と甲府城を重視していたか分かりますね〜
 甲府城は浅野家時代に完成したと言われてます。
 関ヶ原の合戦後、甲斐は徳川家の直轄領となり、
甲府城は平岩親吉が城代として入ります。
 1603年、甲斐25万石は徳川家康の9男義直に与えられますが、この時義直は3歳。
 義直の付家老となった平岩親吉が引き続き城代を勤めています。
 1607年に義直は尾張へ国替えとなり、甲斐は再び天領へ。(甲府城は城番支配へ)
 その後は徳川忠長(三代将軍家光弟)の支城になったり、
三代将軍家光の三男綱重とその子綱豊(後の6代将軍家宣)の居城となったり(ただし国入りはせず)、
5代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保の居城になったりしますが、
いずれも長続きせず、結局甲斐の国は天領のまま、
甲府城は城番支配のまま明治維新を迎えています。
 ちなみに江戸時代も半ば頃には、
甲府勤番は旗本の左遷コース

だったらしいですよ(笑)
 柳沢吉保を除いて、甲斐の国は天領もしくは親藩支配の国でした。
 これは万が一江戸城が落城した際、将軍は江戸城半蔵門から甲州街道を経て甲斐に入り、
この地で籠城する構想だったためと言われています。
(つまり甲府城は江戸城の詰めの城だったのです)
 ちなみに半蔵門の名前は、甲州街道沿いに服部半蔵をはじめとする伊賀者を多く住まわせていたことに由来します。
(伊賀者を将軍の逃走経路に住まわせて、万が一に備えていた)
 

17メートルの高石垣
 さてお城見物を再開です(笑)
 本丸東側の稲荷曲輪には、城内一の高石垣があります。
 高さはたしか17メートルです。

内松陰門
(復元)
 お城のまわりをぐるっとまわって、
内松陰門から城内へと入ります。
 この門は城主の住まう屋形曲輪から二の丸に入る門でした。

解説板

連続する虎口
 内松陰門を抜けて本丸へと向かうルートには、虎口を連続させた様な
折れを多用した縄張りになっています。

銅門跡
(礎石が残ってます)
 その折れ曲がった石段を抜けると帯曲輪に入り、
その先に銅門跡があります。
 その名の通り、かつては銅で補強された門が守りを固めていたのでしょう。

解説板

天守台
 銅門を抜けると、そこは本丸
 本丸東側には大きな穴蔵(地階)を持つ天守台がそびえていました。

水抜き用の穴

天守穴蔵
 天守台は平面が真四角ではなく、ちょうど岡山城天守台のような
不整形な形をしています。
 このため、岡山城天守のような古風な天守が建っていたものと推定されていますが、
詳しい資料は残っていないそうです。

天守台から南アルプスを望む
 さすが天守台だけあって、眺めは最高です。
 遠く南アルプスの山々や、富士山がよく見えます。

天守台から見る富士山

真下は稲荷曲輪
 しばしパノラマを楽しみます。
 周囲を高い山々で囲まれた甲府の地は、
詰めの地としては最高の立地なのがよく分かります。

遠く韮崎方面を見る

二重の石垣
 さて、本丸からいったん出て稲荷曲輪に向かいます。
 ここには石垣の奥から発見されたもう一つの石垣を見ることができます。
 いつ頃の改修工事の時に埋め込まれたものなのか、興味は尽きないですね〜

解説板

稲荷曲輪からみる天守台
 稲荷曲輪は割と大きめの曲輪で、きれいに育った芝生の緑がとてもきれいです。 
公園案内図

数寄屋櫓跡
 稲荷曲輪の一段下がったところに数寄屋曲輪がありました。
 その隅には数寄屋櫓の跡がありました。
 古写真から明治までは残っていたのが確認できるそうですよ〜

解説板

数寄屋曲輪から鍛冶曲輪へ
 石段を下りて鍛冶曲輪へ向かいます。
 鍛冶曲輪には作事所(城の建物などを保守管理する場所)があったのでしょうか?

石切場跡
 鍛冶曲輪には石切場の跡が残っています。
 石垣に使用された石材は、ここから切りだされたのですね〜

解説板

堀と石垣
 お城の南側には唯一堀が残されています。
 かつては城を取り巻いていたんですが・・・

鍛冶曲輪門
 てくてく歩いて
鍛冶曲輪門
までやって来ました。
 甲府城には楽屋曲輪(山梨県庁あたり)と呼ばれる風流な曲輪がありまして、そこから鍛冶曲輪に入る門です。
 この門も明治初めまで残っていたものの復元です。

解説板

坂下門跡
 鍛冶曲輪から二の丸に入るところにあった
坂下門
の跡です。
 言い伝えによれば、城を建てる前にあったお寺の門を流用していたそうです。

解説板

中の門跡
 二の丸から帯曲輪へ入るところにあった
中の門
です。
 絵図では柵門として描かれているそうですよ。

解説板

石段を登った先には・・・
 中の門を入って左に折れて石段を登った先、
本丸の入口には
鉄門跡

がありました。
 鉄で補強された黒い門がそびえていたのでしょう・・・
 再び本丸に戻ったところで、甲府城を後にすることにしました。


鉄門跡
to be continued・・・
2010.2.24作成
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