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![]() JR三島駅前 |
おはようございます。 三島で二日目の朝を迎えました。 朝ご飯もそこそこに出発です。 今日はどこまで行けるのかなあ・・・ |
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![]() 山中城案内板 |
・・・言ってるそばから寄り道です(笑) 国道1号線沿いに「山中城」の看板を発見。 ふらふら〜っとバイクを停めてしまいます(爆) 時刻はまだ7:00前・・・・・・ さてさて山中城とは・・・ 静岡県三島市山中新田にあるお城です。 永禄年間(1560年頃)に北条3代、北条氏康によって築かれました。 小田原城の西の守りとして築かれ、東海道を取り込んだ縄張りでした。 北条5代北条氏直に至り、豊臣秀吉との対立が決定的になると改修が急がれましたが間に合わず、城は取り囲まれます。 城将松田康長以下4千の兵が守備を固めていましたが、 山中城を取り囲んだのは豊臣秀次率いる7万(!)の兵・・・ 戦力差17倍の力攻めに会い、 わずか半日で山中城は落城。 松田康長はじめ城兵は全滅します。 北条氏滅亡後、山中城は廃城になりました。 |
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![]() 案内板 |
現在の山中城は国史跡に指定され、発掘調査も進んでいます。 また、城跡の復元・整備も進んでいて随所に解説板などがあり、とても見学しやすくなってます。 結構オススメですよ・・・ |
![]() 三の丸堀 |
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![]() 西の丸元櫓台 |
北条氏の城の特徴は、堀と土塁の城だということです。 石垣は用いられませんでした。 しかし防御力が弱かった訳ではなく、北条氏独特の技術が見られます。 左の写真は西の丸元櫓台。 見上げるばかりの高い土塁です。 |
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![]() 解説板 |
北条氏のお城の特徴の一つとして、 「畝堀(うねほり)」 があります。 空堀の底に高い畝を築き、敵兵が堀底を移動するのを防いでいました。 |
![]() 畝堀 |
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![]() 解説板 |
これも北条氏の城で見られる 「障子堀」 です。 幅の広い空堀に作られました。 この堀もまた敵兵の移動を妨害するためのものです。 |
![]() 障子堀 |
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![]() 西出丸 |
また山中城は随所に馬出を築き、防御力を高めていました。 山中城は西方からの攻撃を想定して作られた城で、 その方面の防御を特に重視していました。 |
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![]() 解説板 |
西の丸には見張り台が作られ、西方からの敵兵の動きを監視していました。 | ![]() 西の丸見張り台から西を見る |
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![]() 二の丸 |
西の丸と二の丸の間にも深い堀がありました。 二の丸には木橋を渡って出入りしていたようです。 |
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![]() 木橋と折れ曲がり虎口 |
西の丸からの入り口には、さらに折れ曲がり虎口が設けられ、敵兵の直進を防いでいました。 また虎口を見下ろすように櫓台があり、迫る敵兵を頭上から攻撃出来るようになっていました。 |
![]() 二の丸への城門 |
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![]() 本丸入り口 |
二の丸は広く作られていたので、館などがあったのかもしれません。 二の丸と本丸の間にも深い堀があり、木橋を渡って出入りしていたようです。 |
![]() ここにも障子堀 |
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![]() 「矢立の杉」 解説板 |
本丸には 「矢立の杉」 がありました。 この杉の下で、戦の勝敗を占ったりしていたそうです。 |
![]() 矢立の杉 |
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![]() 天守台 |
本丸にある天守台の跡です。 天守台といっても、後世のような立派な建物があったわけではなく、見張り台程度のものであったようです。 |
![]() 天守台解説板 |
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![]() 北の丸北方の堀 |
本丸の北方は尾根続きになっていたので、さらに北の丸を築いて防御を固めていました。 北の丸外側の堀はとても深いものでした。 |
![]() 北の丸から見た天守台 |
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![]() 東海道 |
山中城は東海道を監視する城でもありました。 城の近くには旧街道が残っていました。 かつてはこの石畳を大名行列が行き来していたと思うと、 ちょっと感慨深いものがあります。 |
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![]() 雲助徳利の解説板 |
街道脇に酒好きの雲助(荷物運びの人夫)の墓がありました。 なんでも雲助仲間達が、酒好きの故人を悼んでこの墓を建てたのだとか。 ちょっといい話ですね。 |
![]() 徳利の墓石 |
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![]() 箱根峠 ここから相模の国(神奈川県) |
山中城に別れを告げ、国道1号線を登っていきます。 朝早くからライダーがたくさん走っていて(ほとんどリッターバイク)、 爆音を上げながら追い越していきます。 私はぽくぽくと登っていきます(笑) やっと頂上に到着。 ここから神奈川県に入ります。 左に芦ノ湖を見ながら走ります。 |
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![]() 芦ノ湖 |
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![]() 箱根関所 京口門 |
箱根関所の看板を見つけたので少し寄り道。 まだ開店前の箱根関所を見物しました。 ほんとはお金いるみたいですよ(笑) |
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![]() 大番所 |
開店準備中だったからか、門外から写真撮ってても何も言われませんでした・・・ 大番所の幔幕には 大久保家の家紋 が入ってました。 大久保家といえば、小田原城主。 箱根の関所も管理してたんですね・・・ 関所見物を早々に切り上げ、国道1号線を通って山を下っていきます。 8:00台だけあって、まだ道は空いてました。 前回の轍は踏みませんよ〜(笑) |
![]() 江戸口門 |
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![]() 石垣山城石垣 |
箱根板橋のあたりで国道1号線を外れます。 なんでかって? この近くに「石垣山一夜城」があるからですよ〜(^^) 石垣山城といえば小田原の役の時、 豊臣秀吉がその陣城(合戦時に臨時に築かれる城)として築いたお城です。 関東初の総石垣の城を惜しげもなく陣城として築き、 小田原方に太閤の威光をあますことなく見せつけました。 |
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![]() 野面積みの高石垣 |
一夜城と呼ばれた理由は、森に隠れて城を築き、できあがったところで回りの木々を伐採。 一夜にして城ができたように見せかけた所から来ています。 しかし実際の工期も80日とかなり短く、突貫工事であったことが伺えます。 にしても立派な石垣だ・・・ |
![]() よく残ってます |
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![]() 石垣山城縄張り |
石垣山城の縄張りは豊臣の城によく見られるもので、 肥前名護屋城ともよく似ています。 |
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![]() 虎口の跡 (巨石がごろごろ・・・) |
一夜城は小田原開城後は廃城になっており、江戸時代からたびたび直下型地震に見舞われたため、石垣がかなり崩れてしまっています。 が、雰囲気はよく伝わってきますよ〜 |
![]() 下南曲輪跡 |
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![]() 折れ曲がり虎口跡 |
曲輪の入り口はすべて折れ曲がり虎口が採用されていて、厳重に守られています。 | ![]() 門の礎石も残ってます。 |
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![]() ずり落ちた石垣 |
あちこちに石垣が崩れているので、落石や足下に注意が必要です。 | ![]() 西曲輪跡 |
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![]() 本丸への道 |
崩落が進んではいるものの、解説板が多数整備されているので退屈しません。 おすすめですよ〜 |
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![]() 展望台からの眺め |
本丸跡には展望台がありました。 相模湾がとてもきれいでした。 |
![]() 小田原城攻防図 |
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![]() 石垣山城から小田原城を見下ろす |
石垣山城からは小田原城を見下ろす事ができます。 意外な距離の近さにびっくりします。 写真真ん中左寄りに小田原城が写っているのが分かりますか? |
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![]() 天守台 |
本丸南西隅には天守台があります。 土の小山の回りには大きな石がごろごろしており、かつては石垣造りだったことが分かります。 |
![]() 巨石 |
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![]() 天守台から本丸を見る |
ちなみに石垣山城が築かれたのは天正18年(1590年)の事。 今から400年余り昔、この場所を 豊臣秀吉や徳川家康 が歩いたと思うと、 なんだか不思議な気がしますね。 |
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![]() 枡形虎口 (北口門跡) |
北口門跡を通り、二の丸へと向かいます。 |
![]() 本丸石垣跡 |
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![]() 本丸石垣跡 |
二の丸は馬屋曲輪とも呼ばれていました。 馬屋があったんでしょうか? |
![]() 二の丸 |
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![]() 二の丸櫓台 |
石垣山城には珍しい遺構が残っているんですよ。 それをこれから見に行きます。 |
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![]() 二の丸から下っていきます。 |
二の丸から下って行き、途中で北口への道からも外れます。 | ![]() 石垣山城北口への道 |
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![]() 木製の階段を下ります。 |
整備された木の階段を下っていくと見えてきました | ![]() 見えてきました。 |
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![]() 井戸曲輪の石垣 |
そう、石垣山城には谷を高石垣で遮断した 井戸曲輪 があるのです。 谷底にある井戸には、 今でも水が湧いています。 淀君もこの水を飲んだのでしょうかねえ・・・ |
![]() 今でも水が湧いてます |
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![]() 井戸曲輪石垣 |
この井戸曲輪、散策路からは少し外れたところにあるんですが、 高石垣がとても立派なんです。 石垣山に来たときはぜひ寄ってみてください。 |
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to be continued・・・ | |||
2009.7.26作成 | |||
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