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![]() フェリーターミナル |
翌日は5:00起床 無料朝食を泣く泣くあきらめて6:00にチェックアウト。 すき家で朝ご飯を食べてから峠を越えて茂木にやって来ました。 茂木と言えばビワで有名ですが、こんな朝早くから何の用かって? |
![]() 乗船チケットは手書きです。 |
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![]() フェリーきずな |
長崎県の茂木と、熊本県の富岡を結ぶ 「フェリーきずな」(安田産業汽船(株)) に乗船するためです。 始発が7:00発というダイヤのため、 ずっと乗れずにいたのですが、ようやく夢が叶いました。 待合所内は地元物産の売店。 朝早くから開店していました。 私もカステラの耳を買いました。 安くてたくさん入ってましたよ〜 味は一緒ですしね(笑) さ〜ていよいよ乗船です。 |
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![]() 車両甲板の愛車 |
乗船した車は私のバイク一台。 乗客は私の他2名だけでした・・・経営大丈夫なのかな? 船はかなり小さくって総トンで198トンしかありません。 荒天時にはかなり揺れそうです(笑) |
![]() 船室 |
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![]() うお〜すごい雲 |
前線が通過するらしく、出港前にはモルドール(@指輪物語)のような雲が・・・ 乗船直前からぽつぽつと雨が降り始め、しばらくすると土砂降りになりました。 |
![]() 土砂降りです |
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![]() 富岡が見えてきました。 |
しかし私は船内なので快適です。 みごとなタイミングで雨を逃れました。 (船はそこそこ揺れましたが) 富岡に着く頃には止むといいんですが・・・ |
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![]() 船上から富岡城を仰ぐ |
と思ってたら富岡到着直前に雨が上がりました。 やはり日ごろの行いがいいとこうなりますね(笑) 70分の航海で熊本県富岡港に到着です。 |
![]() 富岡港 |
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![]() 百間土手の石垣 |
富岡(苓北町)にやって来たのは他でもない、 富岡城をみるためです。 富岡城はかの有名な 天草・島原の乱 の舞台となったお城でして、一揆勢はこの城を落とせなかったために対岸の島原に渡り、原城跡に籠もることとなったのです。 島原の乱の後、天草は山崎家治が入り、城を改修しています。 この百間土手は、入り江を塞ぐ目的で築かれたもので、塞がれた入り江に水をためて袋池とし、内堀の代わりとしました。 |
![]() 解説板 |
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![]() 富岡城 |
富岡城は天草下島から伸びた富岡半島に築かれました。 左の写真でも分かるとおり、天草下島とは細い砂州のみで つながっており、陸上攻撃ルートは限定されていました。 また海からの攻撃に対しても砂嘴(現在も成長を続けています)が土塁の役割を果たしていて、理想的な立地条件だったのです。 もし、島原の乱で一揆勢が原城跡でなく、この城に立て籠もっていたら、 鎮圧にはかなりてこずったことでしょう・・・ |
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![]() 富岡城二の丸 |
富岡城は1601年に唐津城主寺沢広高によって築かれました。 関ヶ原合戦で天草領を加増された広高は、 天草領を治めるためにこの城を築き、代官を置きました。 1637年の島原の乱では、城代の三宅藤兵衛が本渡で一揆勢と交戦し、討ち死に。 富岡城に迫った一揆勢に対して原田伊予以下必死に防戦し、 一揆勢を撃退しました。 乱平定後、備中成羽より山崎家治が富岡に入り、城を改修しました。 1641年に家治は讃岐丸亀に移り、天草は天領となります。 代官としてやって来たのは鈴木重成でした。 天草は山がちの地形で耕地が乏しく、 4万2千石の表高に対して実収は2万1千石だったそうです。 今で言うと年収は500万円しかないのに、1000万円の収入があるとして課税されている感じですね。 この重税が、島原の乱の原因だったのです。 重成は何度も江戸に対して表高の半減を嘆願しますが、前例がないということで聞き入れられません。 1653年、重成は江戸に戻って直訴の上、 抗議の切腹をしたそうです。(諸説あり) 代官は甥の重辰が継いだそうです。 そして1659年、ついに天草の石高は2万1千石に改められました。 天草の住民は鈴木神社に鈴木重成を祭り、その恩を偲びました。 1664年、富岡城には戸田忠昌が入りましたが、 城の維持が領民の負担になっている現状を見て城を破却し、 三の丸を陣屋として天草を治めました。 1671年、戸田忠昌は「天草は永久に天領たるべし」と主張して認められ、 以後明治維新まで天草郡は天領となり、代官所は富岡陣屋(富岡城三の丸)に置かれました。 |
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![]() 案内図 |
さて、江戸時代に破却された富岡城の本丸・二の丸が近年復元されています。 私も山の中腹にある駐車場に車を止めて見物に出かけます。 富岡城は案内図の通り、二の丸と本丸が並んだ縄張りになっていました。 二の丸の東側、山の中腹が三の丸で、そこが陣屋でした。 |
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![]() 石垣の解説板 |
本丸に上がって行く途中、石垣の解説板がありました。 発掘の結果、二の丸の石垣は三層あったことが分かりました。 右の写真一番奥の石垣が島原の乱時のもので、攻城戦の痕跡が認められるそうです。 真ん中の石垣が、乱後に急造された石垣で、建設中か完成直後に崩壊したそうです。 なんでも基礎工事もなしで建てたためなんだとか・・・ なんでそんなに急いだのでしょうか? 一番手前が山崎家による改修時の石垣なんだそうです。 おもしろいですよね〜 |
![]() 復元された石垣 |
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![]() 富岡城縄張り図 |
石垣を見物しながら二の丸へと歩きます。 | ![]() 二の丸への石段 |
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![]() フェリーが出港していきました。 |
二の丸跡には芝生が植えられて、広々とした広場になっていました。 4体の像が置かれていました。 右の写真は天草領民のために奔走した鈴木重辰と、その兄正三のものです。 二の丸からは出港していくフェリーが見えました。 |
![]() 鈴木重辰と正三 |
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![]() 北出丸 |
二の丸の北側には出丸が設けられていて、尾根筋からの攻撃に備えていました。 | ![]() 二の丸から本丸をみる |
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![]() 二の丸東側の石垣 |
登ってきたのが城の搦め手(裏口)からだったので、二の丸大手門の方へも少し降りてみました。 | ![]() 二の丸大手門から本丸をみる |
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![]() 本丸への石段 |
本丸への石段を登っていくと、残された城絵図に沿って建物が復元されていました。 櫓の一つには、鈴木重辰に関する詳細な解説パネルが展示されていました。 |
![]() 本丸城門 |
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![]() 本丸からの眺め |
本丸から富岡の街がよく見えました。 写真中央を横切っているのが百間土手で、手前の池が袋池です。 富岡の街が砂州上に建てられているのがよく分かります。 |
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![]() 苓北ビジターセンター |
本丸を囲む多聞櫓の内部も展示スペースになっていて、 苓北町の歴史や自然、生物に関する展示がありました。 |
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![]() クランク状の大手門 |
ひとしきり見学した後で山を下りました。 山のふもとには大手門の跡がありました。 クランク状になった道路がわかるかな? |
![]() 富岡城大手門跡 |
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![]() 大手門から百間土手をみる |
百間土手からは本丸がとても美しく見えました。 |
![]() 土手から城を見上げる |
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![]() 富岡城にさよならです。 |
富岡城を後にして出発します。 | ||
![]() おっぱい岩 |
天草の海岸には有名な 「おっぱい岩」 があります。 触ると乳の出が良くなる御利益があるんだとか。 おっぱい星人の私も見つけようとしましたが、潮が満ちていたので見つけられませんでした・・・無念 |
![]() 対岸には島原 |
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![]() ソフトクリーム |
「道の駅有明」で小休止。 ソフトクリームと、ジャンボたこ焼きを食べてみました。 たこ焼きは食べにくいだけでしたが・・・(^^; |
![]() 手のひらとの大きさ比較 |
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![]() 有明海 |
この日の有明海は晴れで、気温も暑くもなく寒くもなくの適温でした。 国道324号線を走り続けます・・・ |
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![]() 松島港 |
いよいよ松島パールライン・・・ ですが、そこはそれ、れんとのやること(笑) 国道をちょいと外れ、松島フェリーターミナルへ。 ここから天草フェリーラインに乗船。 八代海をいく70分のクルージングとしゃれてみます。 |
![]() 乗船直後 |
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![]() 間もなく出港 |
乗客は私一人。 貸し切りクルージングになりました。(笑) ある意味贅沢ですが・・・ フェリー会社つぶれそう・・・ |
![]() 松島橋 |
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![]() 乗船券 |
暖かい日だったので、船室には入らずに、道具箱?の上にでんと座って海風を楽しむことにしました。 | ![]() 船室 |
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![]() 八代海の景色 |
沖に出てみると風が強くて、 船は結構揺れました。 が、私にとっては揺りかご気分・・・ 思わず昼寝してしまいました。 |
![]() 大築島方面 |
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![]() 八代港到着 |
船が揺れなくなったと思ったら八代港でした。 広い広い埋め立て地の奥に、フェリー乗り場はありました。 さあいよいよ九州横断ですよ〜 |
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to be continued・・・ | |||
2009.11.14作成 | |||
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