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ご無沙汰してました阪九フェリー |
さて、5月2日の日曜日。
世間ではGWでございます。
しかし天気予報をみるといい天気らしい。
これは出かけなければ〜と言うことで、バイクで出勤。
半日で仕事を片付けまして、泉大津港へ。
阪九フェリーに乗船します。
今回も無予約でございます。
二等200席のうち、空席は13席だったとか・・・
危なかったですね(笑)
雑魚寝を避けまして、二等寝台席を選びます。
2段ベットの上段席でしたが、席を確保しました。
GWだけあって船内は芋を洗うがごとくのありさま。
ちっとも落ち着けません・・・
埼玉のライダーさんとしばし談笑。 |

瀬戸内の夕日 |
船外に出てみると、
デッキも芋洗い場状態
(笑)
負けずに場所を確保して夕日を狙います。 |

画になるなあ〜 |

明石大橋 |
瀬戸内の夕日は美しいですねえ・・・ |

岡山へと沈んでいきました |

新門司港
東九フェリーも接岸中 |
夕日を見届けてからコンビニ弁当を平らげます。
ざわつく船内に入浴を諦め、さっさと寝てしまいました・・
翌朝は6:00に新門司港接岸。見慣れた風景です(笑)
東九フェリーも接岸しておりました。
さて、上陸後は県道25号線を南下します。
国道10号線を横切って、真新しい2車線道路を走ります。
モノレールの下を走って国道322号線へ。
国道201号線に入り、さらにバイパス道路を走ります。
有料道路の直前でバイパスを降りて県道60号線へ。
ショウケ峠越えを狙います。
一度走ったことあるんですが、すごいワインディングで面白い道なのです。
山を下りてきて県道35号線で太宰府天満宮を目指します。
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太宰府天満宮 |
私の職場の人間が、今度資格試験を受験することになりまして
「案ずるな受験生」
ってことで四国八十八箇所巡り・・・
ではなく、太宰府へ合格祈願のお守りを買いにやって来たのです。
梅が枝餅を食べつつ、お守りをゲット!
今回のツーリング終了でございます(笑) |

梅が枝餅 |

久留米城本丸石垣 |
・・・まあせっかく九州まで来ましたしね。
適当に寄り道していきますか。
地図を見ると久留米城が割と近い。
さっそく行ってみる事にしました。
国道3号線、国道34号線、県道17号線を経由して久留米市街までやって来ました。
さてさて、久留米城は1500年代初め頃、この地の豪族が砦を築いたのが始まりとか。
1500年代半ばにも修復した記録が残っています。
この頃、久留米の地は大友家と龍造寺家の勢力境界にあり、幾度も城主が入れ替わっています。
天正15年(1587年)に秀吉による九州平定がなると、筑前名島には小早川隆景が入ります。
久留米城にはその養子である小早川秀包(毛利元就9男)が七万五千石で入ります。
秀包は肥後国人一揆討伐や朝鮮の役で活躍し、13万石に加増されました。
文禄3年(1594年)に小早川秀秋が小早川家の跡継ぎとなったため、秀包は別家を興します。
その後の関ヶ原の合戦では西軍についたために改易。
秀包は毛利家に戻り、子孫は吉敷毛利家となりました。
関ヶ原合戦後、筑後一国は田中吉政に与えられ、吉政は柳川城を居城とします。
久留米城には5男の吉信が3万石で入ります。
この吉信さんは家臣を手討ちにしようとして返り討ちに遭い、亡くなってます。
なんでも家臣をすぐ手討ちにする癖があったらしく、返り討ちに遭うまでに
53人もの家臣を手討ち
にしたそうですよ。
そりゃしょうがないですよね(苦笑)
田中家は次代忠政が跡継ぎのないまま亡くなって断絶。
久留米には有馬豊氏が21万石で入り、以後有馬家が続いて明治維新を迎えています。
九州で有馬というとキリシタン大名を思い出しますが、
この有馬さんは別口。
播磨(兵庫県)の豪族赤松氏の庶流の出でして、有馬温泉あたりを治めていたので有馬姓を名乗りました。
この有馬豊氏、最初は義兄弟の渡瀬繁詮の家老でしたが、繁詮が秀次事件に連座して自害したあと、その家臣団と所領を引き継いで大名になっちゃった方です。
その後遠江横須賀3万石→丹波福知山6万石(のち8万石)→筑後久留米21万石と大出世。
著名な功績はなかったかと思うのですが・・・
こういうウンのいい方もいるんですね。
(才能もあったんでしょうけど・・・)
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蜜柑丸から本丸を見る |
さて、お城を見ていきますか・・・
本丸東側にあった帯曲輪、蜜柑丸から本丸に入ります。
蜜柑丸はその名の通り、蜜柑の木が植えられていたことからその名が付きました。
門の右側には月見櫓が建っていました。 |

蜜柑丸解説 |

門の礎石 |
有馬豊氏は1621年に入城後、工事途中だった城の工事を再開。
1631年には黒田長政の指導の元に筑前堀が完成。
1649年から4年がかりで外郭部の工事。
4代藩主頼元の時代、1691年にようやく完成しています。
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艮櫓跡から筑後川を見る |
久留米城は、背後に流れる筑後川を天然の外堀とし、本丸から三の丸を階段状に並べた連郭式のお城です。
天守はありませんでしたが、3重櫓がなんと7基もあり、もっとも大きな巽櫓は1階平面が7間×8間もあり、十分天守と呼べる大きさでした。
その3重櫓の間は2重の多聞櫓で接続されており、21万石の格式にふさわしい規模のお城でした。 |

本丸案内図 |
現在城内に建物は残っていません。
本丸には明治にできた神社と、有馬氏の資料を集めた有馬記念館があります。
有馬記念館は休館中でした。残念・・・
二の丸、三の丸はブリジストンの工場敷地になり、外郭は市街地化しています。 |

本丸には篠山神社 |

本丸大手虎口 |
本丸大手は南にありました。
かつては多聞櫓で固められた堅固な門でした。
天守代用の巽櫓は、この門の右側に建てられていました。 |

巽櫓台下 |

本丸石垣 |
本丸の周囲は高石垣で囲まれていて、一見の価値はあります。 |

筑後川よりから本丸を見る |

久留米城下地図 |
現在は本丸の遺構を残すのみですが、旧三の丸大手のクランクが残っていたり、福岡地裁久留米支部裏手の小さな川が外堀跡だったり、ほのかに城下町を偲ぶことができます。 |
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筑後平野 |
「筑紫次郎」と呼ばれて恐れられた暴れ川の筑後川が作った平野を行きます・・・
県道47号線を筑後川に沿って走ります。
国道208号線にぶつかったところで左折。
柳川市街を目指します。 |

筑後川 |

柳川城解説板 |
柳川城までやって来ました。
城跡を探しますが、なかなか見つかりません・・・
市街地を20分ほどさまよったあげくにようやく発見します。
柳川城跡は柳城中学校と柳川高校の敷地になっていました。
中学校と高校の間に細い道があり、わずかに石垣が残っていました。
中学校側に盛り土があり、ここが本丸の跡らしいです。
城の建物は、明治5年に失火または放火により焼失。
焼け残った建物も、城跡が学校敷地になったことで取り壊されていきました・・・
石垣は明治7年の台風で決壊した有明海の堤防補強のために撤去されてしまったそうです。
かつては5重5階の天守がそびえていたのですが・・・
現状ではかなり妄想しないと想像できませんね。(笑)
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ここが本丸・・・ |
柳川城は下筑後のの領主である蒲池治久(かまちはるひさ)が、蒲池城の支城として築いたとされています。
蒲池鑑盛の時代に蒲池氏の本城となり、本格的な改修が加えられました。
堀を縦横に巡らした柳川城は、大友陣中の戯れ歌に
「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」
と歌われるほどの城になりました。
豊後大友氏配下であった蒲池鑑盛は、文武両道、義心に富んだ武将であったようです。
家臣の反乱に追われた龍造寺隆信も、一時鑑盛の保護を受けています。
鑑盛は三千の兵を率いて日向耳川の合戦に従軍。
長男蒲池鎮漣はすでに大友氏から心が離れており、2千の兵を率いて柳川へ帰ってしまいます。
鑑盛は残った千人の兵を率いて耳川の合戦に臨みます。
合戦で大友勢は大敗を喫しますが、総崩れの大友勢にあって鑑盛は島津勢への突撃を敢行。
三男統安と壮絶な討ち死にを遂げます。 |

わずかな石垣が残っています。 |
跡を継いだ蒲池鎮漣(かまちしげなみ)は、妻が龍造寺隆信の娘であったことから、
島津に敗れた大友氏を見限って龍造寺氏へ接近します。
隆信の筑後進出に協力しますが、柳川領への野心を見せはじめた隆信に対して反旗を翻します。
1581年、龍造寺勢は2万の兵で柳川城を包囲しますが、攻め落とせず。
しかし蒲池氏が島津勢力下に入ることを恐れた龍造寺隆信は、鎮漣の謀殺を決意。
鎮漣を宴席に誘い出し、軍勢で取り囲みます。
従った200名の家臣は奮闘しますが多勢に無勢。
鎮漣は自害し、家臣は全員討ち死にを遂げます。
当主を失った柳川城に対して龍造寺家の家臣であった鍋島直茂らが攻めかかり、
ついに蒲池家は滅亡してしまうのです。
しかし鎮漣をだまし討ちにした所行に、龍造寺配下の国人達は動揺します。
1584年、島原の有馬晴信(キリシタン大名の方)が隆盛いちじるしい島津方に寝返ります。
有馬家を叩くため、隆信自ら軍を率いて島原半島へ出陣します。
これに対して島津氏も島津家久を総大将とした援軍を送り込みます。
龍造寺勢2万〜6万(諸説あり)と、有馬・島津勢8千の間に戦端が開かれます。
これが有名な「沖田畷の戦い」です。
数で勝る龍造寺勢は、島津得意の釣り野伏せにひっかかります。
隆信が島津の武将川上忠堅に討ち取られると、龍造寺勢は総崩れ。
有力武将ことごとく討ち死にの有様。
これにより龍造寺氏は勢力を失い、後に家老であった
鍋島直茂による簒奪
を許すことになります。
一方の島津家は九州統一へ大きく前進しますが、秀吉の九州征伐を招いてしまい旧領を維持するにとどまります。
龍造寺隆信亡き後、旧領を回復しようと立花道雪率いる大友勢が柳川城を攻めますが、攻略できず。
結局九州征伐後の仕置きで、柳川城には立花宗茂が入ります。
(立花宗茂は道雪の養子)
関ヶ原合戦で宗茂は西軍についたために改易され、
あとには田中吉政が32万石で入ったのは先に書いたとおり。
田中家が無嗣断絶となったあと、立花宗茂が奇跡の返り咲きで再び柳川城主に。
以後、明治維新まで立花氏が続いていきます。
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かんぽの宿柳川からの眺め
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かんぽの宿柳川で、お風呂にはいります。
昨日はフェリー混んでて入れませんでしたからね。
さっぱりしたところで旅を続けます。 |

堀は運河の役割も果たしていました。 |
道を走っていると、お堀を船が進んでいきました。
松江城みたいに堀巡りできるようです。
舟乗り場を探してまたも街中をうろうろ。
ようやく見つけて乗船しました。
(1500円) |

水面をゆっくりと船が行きます。 |

城側の岸には石垣が |
江戸時代の大量輸送といえば、水運でした。
米俵などを積んだ大小の船が、日本中の海や川や湖、堀や運河を行き交うのが日本の風景だったのです。
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どこまでも真っ平らな柳川市街 |

静かな水面
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高瀬舟は、水深の浅い川で荷運びするために作られた船底の平らな船のことです。
森鴎外の小説のタイトルにもなりましたね。
しかしこの日は日差しが強かった。
帽子を持ってないからちょっと日射病気味に。
まいっちゃいました。
(^^; |

かつての荷揚げ場の石段 |

のぼり |
節句の日を前に、筑後地方で目に付いたのが、左ののぼり。
鯉のぼりではなく、大きなのぼりを立てるのが、この地方の風習のようです。
たいていその家の紋と、男の子の名前が染め抜かれています。
左の写真は御花(藩主別邸)ののぼり。
立花家の家紋と、御当主(宗鑑さん)とお子さんの名前が染め抜かれているのが分かります? |

御花にある蔵 |
御花とは、三代藩主鑑虎(あきとら)が作らせた藩主別邸のことです。
明治維新後も立花家が所有していて、庭園が見事なことで知られています。
戦後、庭園と建物を活かし、料亭と旅館として営業を開始しました。
GWのこの日もすごい来客でした。 |

水天宮のお祭り |
ちょうど水天宮のお祭りもありました。
舟舞台がでてにぎわっていました。
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みなさんは「えつ」という魚をご存じですか?
筑後川でしか獲れない幻の魚なんだそうです。
5〜7月にしか獲れないというので、興味津々で
「えつ料理」
ののぼりのあるお店に入ってみました。
が、この日は入荷しなかったとのこと。
残念!
それじゃあというので鰻丼頼みましたが、これまた
「いまいちっ!」
でした。
重ね重ね残念です(笑) |

大龍ラーメン |
量も少なかったし、なんか物足りない・・・
もんもんとしたので、久留米ラーメンの「大龍」さんへ(笑)
ここのラーメンはおいしいですね。
ようやくお腹が落ち着きました。
この日はなんか調子が悪かったので、16:00に早々とチェックイン。
17:00には寝てしまってました・・・ |

ラーメンウマー |
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to be continued・・・ |
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2010.10.31作成 |
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