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信州名物
「おやき」 |
ビーナスラインを降りてきて、一路上田市へ。
信州上田と言えば、「真田家」でしょう!
幸隆、信綱、昌幸、信之、信繁(幸村)
などの名将を輩出した真田家。
また、上田城といえば、2度にわたって徳川勢の退けた名城として有名です。
まあ、まずは腹ごしらえ。
信州まで来て「す○家」なんかでご飯食べるのもむなしいもの。
丸子で見かけたお菓子屋さんで、「おやき」を売っていたので、
三つばかり買ってみました。
具材は、なす、舞茸、こしあんです。
上田城に着いてから食べてみたんですが、
味噌で炒めたなすと、
醤油で甘辛く炒めた舞茸が
とっってもトレビアン
でした。
食後のデザートは、こしあんのおやきです。(笑) |

上田城古図 |
〜上田城とか真田氏のこと〜
上田城は、天正11年(1583年)に真田昌幸によって築かれました。
それまでの真田氏は真田郷を本拠地にしていましたが、
小県郡を掌握したことにより、本拠地を移したものです。
尼が淵と呼ばれた千曲川に面した断崖上に築かれました。
断崖上に本丸を置き、それを取り囲むように二の丸、三の丸を配置した縄張りとなっています。
天正13年(1585年)には早くも実戦を経験しています。
沼田領(群馬県)の扱いを巡って徳川家と対立。
大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉率いる7000の兵と、
真田勢1200は上田周辺で激突。
巧みな作戦でこれを撃退しています。(別図参照)
その後豊臣家に臣従した真田昌幸は、長男信之と徳川家康の養女小松姫(本多忠勝娘)を結婚させるとともに、次男信繁(幸村)を人質として大坂に差し出すとともに、大谷吉継の娘と結婚させて豊臣政権とも接近を図ります。
この時期に上田城は豊臣政権の城として完成していたらしく、
桐紋の入った瓦や、金箔つくりの鯱などが出土しているそうです。
関ヶ原合戦時には、昌幸・信繁父子は西軍として働きます。
徳川秀忠率いる東軍別働隊38.000を、
3,500の兵で迎え撃ってこれを破り、足止めに成功します。
これにより、別働隊は関ヶ原合戦に遅参し、家康は激怒したと伝えられています。
西軍敗北に終わった関ヶ原。昌幸・信繁父子は改易され、死罪となるところでしたが、
東軍についた長男信之の嘆願により助命され、和歌山県九度山に配流となります。
上田領は長男信之が治めることになりますが、上田城はこの時に破却されています。
信之は旧三の丸に方形の館を築き、そこから統治を行いました。
(現:上田高校付近)
豊臣氏滅亡後の1622年、真田家は松代(現:長野市)に転封となり、
上田には仙石忠政が入り、破却されていた上田城の再建にとりかかります。
が、再建開始の2年後に忠政は死去。
再建工事は中断し、以後再開されることはありませんでした。
現在の上田城は、この仙石氏時代の遺構なのです。
仙石氏はその後但馬出石(現:兵庫県)に転封となり、出石そばを伝えますが、
それは別の話(笑)
仙石氏の後は松平家(藤井家)が入り、明治維新まで続きます。
再建工事が中断したせいか城内にお殿様は住まず、
三の丸にあった館が江戸時代を通じて上田藩の政庁となりました。 |

上田城現況 |

二の丸東虎口 |
おやきでお昼ご飯も済みましたし、改めましてお城見物とまいります。
二の丸の東側には市民会館とその駐車場があり、駐車場にバイクを停めました。
この駐車場には、二の丸東虎口から入ります。
かつてはこの門の奥に石垣があり、石垣の後方には30間堀があったのですが、
どちらも撤去されて駐車場になっています。 |

二の丸堀 |
東虎口前には深い空堀があります。
昭和47年まで、この堀底を上田温泉電鉄北東線が通っていました。
堀底を通っていた鉄道といえば、名古屋城三の丸堀を通っていた名鉄の路線もありましたねえ。 |

石垣の上から |

本丸東虎口櫓門と南櫓 |
市民会館の駐車場を横切ると、
本丸東虎口前に出ます。
土橋の向こうには、転売され、移築・改築されながらも上田城に戻ってきた北櫓と南櫓がそびえています。
二つの櫓に挟まれた櫓門が、木造で推定復元されています。 |

櫓門と北櫓 |

本丸空堀 |
土橋の南側は尼が淵の断崖へとつながる深い空堀があり、土橋の北側は水をたたえた水堀となっています。
ちなみに上田城は土塁のお城で、石垣は城門付近の要所のみ築かれ、櫓などは土塁上に直接建てられていたそうです。
仙石氏以降の上田城には、天守は建てられませんでした。 |

本丸水堀 |

真田石 |
大手に当たる東虎口門石垣では、巨石が埋め込まれていました。
松本城でも書きましたが、大手筋に巨石を配置して城主の権力を示した事例は多いですよ。
この門の前でアンケートに遭遇。
長野県が実施しているアンケートとかで、
近所の主婦らしい人が観光客を呼び止めていました。
(今年の秋にJRとタイアップして観光キャンペーンをやるらしい・・・)
で、私も呼び止められまして、いくつか質問をされました。
よくある観光アンケートでして、昨日はどこに泊まったのかとか、県内に何泊する予定なのかとか、県内へはどういう交通手段できたのかとか、上田城に来る前はどこにいたのか、この後はどこに回るのか、県内では予算をいくら使った(使う予定)なのかなどを聞かれました。
で、この主婦の方(40代後半くらい?)が、漢字間違えるんです・・・(笑)
「高島城見て、松本城見て、ビーナスライン通ってここに来て、小諸城に行きます」
を、
「高島場見て、松本場見て、ビーナスライン通って、小諸場に行く」
とか書いてるんですよ・・・
「いやいや、城の字間違えてますよ。
「場」じゃなくて「城」です」
と指摘すると、
「やだ、恥ずかし〜」と照れまくり、
「私、旅の思い出になっちゃいましたね」
と笑ってました。
はい、しっかり思い出になりましたよ、奥さん(みのもんた風に)
忘れたくても忘れられないっす・・・(爆)
「この後はどこに行かれますか」
の質問に
「北海道ですよ」
と答えると、
「はあ???」
予想外の回答にびっくりしてました。
まあね、普通は「長野です」とか、「草津です」って答えますよね・・・
「長旅だから気をつけてね」と、暖かい言葉をいただきました。
ありがとうございます。
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解説板 |

かつての河原跡 |
南櫓〜櫓門〜北櫓は、内部が公開されていまして、少ないながらも資料が展示されていました。
櫓の窓から尼が淵跡を撮ってみたんですけど、いまいち高さが分からないですね・・・
すいません。
右の写真は上田城の模型。
写真の下方が尼が淵になるんですけど、上田城の縄張り(設計)が分かりますかね? |

上田城模型 |

本丸西虎口跡と西櫓 |
本丸西側までやって来ました。
ここには、江戸時代からここに残っている西櫓がそびえています。
この櫓が本丸西側から寄せてくる敵ににらみを利かせていました。 |

本丸西虎口跡 |

本丸西堀 |
本丸の北東隅の土塁には、鬼門よけの切り欠き
があります。
右の写真なんですが分かるかな?
上田城では二の丸北東隅にも設けられていました。
鹿児島城でもご紹介しましたね。覚えてますか? |

本丸東北隅の鬼門よけ |

あんずジェラート |
この日は日差しも強くて気温も高く、少々ばて気味。
二の丸門外にあったおみやげ物屋さんで、しばし休息。
店内には「さにゃだ幸村」とか、歴女向けのお土産がたくさんありました。 |

かつての河原から西櫓を見上げる |
バイクに戻って、お城の下に回ってみました。
断崖上に建っている上田城の立地が分かってもらえるでしょうか?
私が立っている辺りが千曲川が流れていた辺りになります。
この方面からの攻撃はムツカシイでしょうねえ・・・
ちなみに上田城の大手(防衛正面)は、東です。 |

同じく南櫓を見上げる |
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第1次上田合戦布陣図
国分寺付近で神川を越えて侵入した徳川勢を、前衛部隊で上田城下まで誘い込み、
徳川勢が城内まで侵入したところで、城内に潜ませた伏兵と、城下に潜ませていた伏兵が攻撃。
総崩れになった徳川勢を、戸石城から下ってきた信之勢が横槍を入れてとどめを刺した。 |

小諸城堀 |
せっかく上田城まで来たので、10キロ少々東にある小諸城にも寄ってみました。
現在の小諸城は、東信州経営の拠点として武田信玄が改修した縄張りが基本となっています。
山本勘助が縄張りしたという伝説がありますが、根拠資料はありません。
武田時代は武田信豊が城主を務めました。
その後は滝川一益、徳川家の持ち城となり、
徳川氏の関東移封後に仙石秀久が5万石で入城し、
現在の姿に改修しました。
ちなみにこの仙石秀久、きょーれつな方です。(笑)
軍監として参加した九州征伐の際、功を焦って無謀な作戦を実行。
戸次川(大分県)の戦いで、島津家久麾下の島津勢に大敗を喫します。
長宗我部信親、十河存保など大名級の諸将が討ち死にする中、
秀久は自軍だけを率いて豊前小倉(北九州市)に逃亡。
さらに領国の讃岐高松に逃げ帰るという醜態をさらし、
秀吉に所領召し上げの上、高野山に追放されてしまいます。
小田原の陣に陣借りで参加。
この時の功績で小諸城主として返り咲きに成功した珍しい人です。
小諸城主時代、あまりの賦役の過酷さに佐久郡全農民の逃散(逃亡)事件を引き起こしたり、戸次川合戦前夜でも「部下が海賊行為を働いている」とフロイスに酷評されるなど、かなり癖のある人物だったようですね・・・
司馬遼太郎なんかも良く書いてないです(爆)
話戻って仙石氏は次の代に上田に国替えとなり、小諸城は松平(久松)家、青山家、酒井家、西尾家、松平(大給)家など譜代大名が入り、最後は牧野家(長岡藩の分家)が1万5千石で入り、明治維新まで続いています。 |

浅間山の火山灰で出来た台地上に、
小諸城はあります。 |

浸食谷を堀として活用 |
小諸城は、浅間山の火山灰で出来た台地と、浸食谷を利用した縄張りになっています。
城は、城下町より低い位置にあって、「穴城」とも呼ばれています。
まあ戦国時代は重火器がなかったので、それでも良かったんでしょうけど・・・ |

千曲川を見下ろす |

水の手不開御門跡 |
両側を深い谷に挟まれた三角形の台地を、堀や石垣で区画し、防御するという設計になっています。
このため、城内を歩くと、ちょっと締まりのないイメージがあります。
谷側には不開御門ともう一つ門があり、千曲川へ降りることが出来ました。 |

小諸城現況地図 |

天守台 |
台地の突き当たりに、石垣で囲まれた本丸があり、その北西隅に天守がありました。
三層の天守が建っていましたが、1626年に落雷により焼失。
以後は再建されませんでした。 |

野良積みの石垣 |

本丸大手は筋違い虎口 |
台地の一部を石垣で囲ったのが本丸で、現在は神社と旅館が建っていました。 |

こちらは搦め手
(裏口) |

本丸石垣上から天守台石垣を見る |
本丸の石垣に登ってみました。
けっこう高さがありましたよ。 |

ここに天守がありました。 |

本丸石垣 |
本丸大手のすぐ東側は、大きな堀切によって、防御を固めていました。
写真でも分かるくらい深いものでした。
火山灰の土壌で削りやすかったのかな?
この辺はシラス台地(鹿児島県)にあるお城もこんな感じですね。 |

本丸東側の堀切 |

北の丸 |
本丸から堀を渡ると、クランク状の通路があって、その両側を石垣で固めていました。
敵が侵入した際は、この通路を進ませ、それを両側の石垣上から攻撃するスタイルですね。 |

南の丸石垣 |

二の丸 |
クランク状の通路の突き当たりには、石垣で囲んだ高地があって、そこが二の丸でした。
関ヶ原での上田城攻めの際、徳川秀忠はここに滞在していたそうです。
思わしくない戦況に、さぞやいらいらしながらここにいたんでしょうねえ・・・ |

二の丸内の様子 |
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二の丸脇の虎口 |
二の丸の裾を巡るように通路が延び、三の門へと続いています。
ここを通過する敵は、右側にある二の丸から頭上に攻撃を浴びる形になります。
ちなみに写真右側の石垣は、明治期に石を剥がされて土崖になっていましたが、
近年復元されたものです。 |

水櫓台 |
二の丸下に、水櫓の跡がありました。
石碑によれば、水車を利用して川の水をくみ上げ、城内に供給していたそうです。 |

石碑が建ってました。 |

三の門
(現存) |
小諸城といえば、この写真で紹介されることが多いのかな?
二の丸下にある三の門です。
本丸から数えて三つ目の門なので、三の門という名称がつきました。
普通はここから城内に入るんでしょうけどね(笑)
また裏口から入ってしまいました・・・
この門と後で紹介する大手門が、小諸城の現存建物です。
ちなみに現在の小諸城は懐古園という公園になっていて、
入場は有料です。 |

大手門 |
三の門と大手門の間には、現在小諸駅があって、分断されています。
線路下の地下通路を通って大手門に行く形になります。
最近まで改造されて民家だったそうですが、近年復元工事を受けて江戸時代の姿になったそうです。
近くには小諸本陣もあります。 |

大手門 |

佐久の草笛にて |
小諸には、そばの草笛本店があったんですが、とっくに営業時間は終了していました・・・
仕方ないので佐久まで移動。
佐久の草笛で、中盛りをいただきます。
やっぱり腹一杯蕎麦が食べたければココに限りますねえ〜
で、翌日以降の日程も考えて、高崎まで移動しておくことにしました。
日没も近いので、素直に碓氷バイパスを通って高崎まで走りました。 |
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to be continued・・・ |
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2010.7.3作成 |
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