朝の横手駅
 翌朝目が覚めると、外は明るくなっていました。
 通勤・通学ラッシュらしく、ホームにはたくさんの人がいました。
 私はしっかり朝ご飯。
 秋田らしいものって訳で、秋田味噌を練り込んだパンを食べます。(笑)

朝ご飯はみそっこブール
(秋田味噌使用)

横手城は
 横手城の三の丸には、本多正純が幽閉されていました。
 正純が横手に来たいきさつは、前回書いた通りです。
 家康の懐刀としての活躍から一転、東北の片隅での幽閉生活・・・
 何を考えて日々を過ごしたのでしょうか・・・
 正純は横手で15年過ごし、73歳で世を去りました。
 正純の詠んだと言われる歌

 「日だまりを 恋しと思う うめもどき
       日陰の赤を 見る人もなく」

本多正純終焉の地

旧日新館
 本多正純の碑近くに、洋風建築がありました。
 その名を「旧 日新館」といいます。
 横手にやって来た英語教師の住居として建てられたそうです。
 これを建てた大工は、図面もなしで写真だけで建てたそうです。
すごいですねえ・・・

洋式トイレ
 現在は個人宅となっていて、プライベート部分は非公開ですが、2階はすべて見学できます。
 洋式(和風ですが)トイレとか、電気工事の際に残されたメモ書きなどを見物しました。
 ちなみに1931年といえば、昭和6年になります。
 もう電気が普及していたんですね・・・

1931年の日付が残るメモ

階段
 随所に和風建築の智恵を生かした造りとなっています。
居間

陶器製のドアノブ
 このドアノブは、この建物が出来た時からのものなんだそうです。
 陶器でドアノブを作っていたんですね〜
 ちなみにこの建物が出来たのは明治35年(1902年)のことです。
 揺り椅子が置かれていました。
 死んだじいちゃんも愛用してたっけ・・・


 現在居住している奥様に説明していただきました。ありがとうございます。

揺り椅子

横手城から街を見下ろす。
 さて、私も知らなかったのですが、
横手は実は城下町
だったのです。
 さっそく横手城を訪問です(笑)

模擬天守
(中は資料館)
 横手城の築城時期には諸説ありますが、小野寺氏配下の横手氏による築城のようです。
 その後、横手城は小野寺氏の居城になります。
 関ヶ原合戦の時、小野寺氏は上杉に通じたために改易となり、
横手城は最上氏の持ち城になります。
 その後、最上氏も改易となり、横手城は秋田の佐竹氏の持ち城となり、
伊達盛重(国分盛重)、須田盛秀が城代となったあと、
佐竹氏一門の戸村義連が入り、以後明治維新まで戸村氏が城代を勤めます。
 一国一城令の時にも破却を免れています。
 横手城は、土塁の城であったため、土砂崩れを防ぐため、敵兵が滑って登れないようにするために、ニラを植えていたそうで、「ニラ城」の異名を持ちます。
 なんか臭そう・・・(笑)

山下からの登城道
 戊辰戦争では、秋田藩は官軍側についたため、横手城は仙台藩・庄内藩の攻撃を受けて落城しています。
 死者22名、城内の建物はほぼ焼失したようです。

ここに大手門がありました。

本丸下の帯曲輪
 現在の横手城は二の丸と本丸の間が駐車場になっていたり、旧二の丸に模擬天守(横手城には天守はなかった)が建っていたりと、かなり旧状と違う部分があります。
本丸虎口

横手城本丸
 戊辰戦争終結後、横手城で戦死した22名の霊を慰めるため、
本丸跡に佐竹神社がたてられました。
 資材には、焼け残った建物のものを利用したそうです。
 神社には佐竹氏の家紋である扇の紋が彫り込まれていました。

横手城遠景
 模擬天守の中は資料館になっていました。
 展示品はしょぼいですが、横手城関係の絵図は充実していました。

横手城縄張り

戊辰戦争時の攻防
 特に撮影を禁じてないようでしたので、
写真撮ってきました。

これは精密な絵図

最上階からの展望
 最上階は展望台になっていました。
 

今日もいい天気

展望台から本丸を見る
 横手城も堪能したし、そろそろ移動開始です。
二の丸
 横手城を出発して数キロ。
 もう寄り道しています。(笑)
 いや、実は国道13号線沿いに
「後三年の役金沢資料館」

ってのを見つけましてね・・・
ちょっと寄ってみたんですよ。
 これが意外に面白くって・・・
 近くまで来たらぜひ寄ってみてください。
入館料100円で、かなり楽しめます。

 で、ですね、後三年の役をかいつまんで説明するとですね。
 前九年の役で奥州の支配者となった清原氏の内紛に、
奥州への勢力拡大を狙った 源義家(八幡太郎)が介入。
 いろいろありましたが、最後に金沢柵にこもった清原氏を義家が破って奥州支配確立・・・と思いきや、朝廷から私戦扱いされてしまい、藤原清衡(奥州藤原氏初代)が奥州の支配者となってしまった。
という感じですかね?
 この戦いでは、義家が
雁の列の乱れから伏兵を見破った

エピソードが有名ですね。
 この時の恩賞を義家が自腹で払ったことから板東武者たちの尊敬を受けるようになり、子孫である源頼朝の幕府創設への流れにつながっていきます。
 源頼朝の奥州征伐も、この流れなんですねえ・・・ 

 さて、最後の決戦場となった金沢柵ですが、いまだ位置を特定できていません。
 ただ、戦国時代に小野寺氏の居城となった金沢城跡が金沢柵跡の可能性が高いとされています。

兜杉
 兜杉は、義家が戦勝記念に兜を埋めて石を置いた横に、記念の杉を植えたもので、昭和58年に焼失して、切り株だけになってしまいました。
 傍らに義家、義光兄弟を祀った祠があります。
 


金沢八幡神社
 金沢城二の丸跡には、義家が石清水八幡宮を勧請して建てられた金沢八幡神社があります。
 やがて八幡さまといえば義家のことになりましたが、秋田藩主佐竹家は、義家の弟である義光の子孫であることから、八幡社を特に大事にしたと伝わっています。
 この神社の本殿にも佐竹家の扇紋を見ることができます。
 二の丸下には、兵糧倉跡があります。
 どうして兵糧倉跡が分かったかというと、炭化した米が出土したからです。

兵糧倉跡

本丸跡
 本丸跡はわりと広くて、草が生い茂っていました。
 北の丸跡には土俵がありました・・・

北の丸跡

二の丸下の通路
 金沢城の城山はかなりの急斜面で、ここに城を建てた理由がよく分かります。
急斜面

西の丸
 西の尾根筋には西の丸がありました。
 本丸方面には堀切がありましたが、現状ではかなり埋まってしまってます。

西の丸堀切

堀切
 尾根筋から攻め上がってくる敵に対しては、堀切で妨害する仕組みでした。
急斜面

金沢城からの眺め
 城からの眺めは抜群でした。
 義家軍の本陣があったあたりがよく見えます。

皇太子(昭和天皇)も、大正時代にここに来たそうです。
 
金沢城遠景
 金沢城を遠くから眺めてみました。
 お腹が空いてきたのでお昼にしましょうか・・・・
to be continued・・・
2010.8.1作成
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