お茶コーラ?
 9月。
暑さもだいぶマシになり、行楽シーズンになってまいりました。
 3連休に休みを1日付け足して、4連休を確保しました。
 で、どこにいこうか?
という話なんですよ(笑)
 最初は北陸に酒買いに行こうと思っていたんですが、
天気が良くないようです。
 どうしようかなあ〜と考えているうちに出発が遅れるのが最近のパターンなんで、
取りあえず荷物積んで出発しました。
 なんとなく高速に乗り、なんとなく名阪国道を通り、なんとなく東名を走っていました。(笑)
 取りあえず浜名湖で給油。
さらに牧ノ原SAで休憩します。
 なにか面白いものがないか探して見つけたのがこちらの二品。
まずは静岡お茶コーラ
 普通にコーラの味で、あんまりお茶の味しませんでしたが、
なんとなく和風の味がしました(笑)
200円でございます。

茶阿
 もう一つは生大福
「茶阿」
でございます。
 茶阿といえば、徳川家康の側室でしたね。
家康隠居の地静岡にふさわしいネーミングですね。
 なんでも静岡茶100%使用なんだとか。
あんことお茶のハーモニーがグ〜でございます。

お茶の粉いっぱい(笑)

茅ヶ崎の朝
 さて、東名で事故渋滞だというので、島田ICで降りて下道を行くことにしました。
が、これが大誤算〜
 あっさり道を間違えます。(笑)
もう一回走ってくれと言われても思い出せないような道を走って国道1号線へ。
懐かしい「大手」交差点(田中城でご紹介しましたね)を通過し、
焼津ICから再び高速に乗りました。
なんか余計に時間がかかったような・・・(^^;
 足柄SAでとっぷりと日が暮れました。
最近暗くなるのが早いですね・・・・
 ここで晩ご飯におうどん食べまして、食後のデザートにシュークリームを食べました。
しかし最近のSAはショッピングモールみたいにきれいですね!
びっくりしました。
 20:00に厚木ICで降りまして、21:00に無事茅ヶ崎の宿に入りました。

看板発見!
 翌朝は7:30に出発。
まずは近くにある
熊澤酒造
を訪問です。
 県道45号線を北上。
新湘南バイパスをくぐって県道44号線に右折。またすぐに左折して北上すると、JR相模線の香川駅前にでます。
 すごいローカル臭ただよう駅でびっくりしました。
相模線も単線だし・・・
 東京近郊(といってもそんなに近くないけど)にこんな路線があるんですねえ・・・
 駅の北側踏切では、8:00前だというのに
一旦停止の取り締まり
をやってました。
 さすが3連休初日。
気を引き締めないといけませんねえ・・・
 

あの森かな?

そうでした
 踏切を過ぎてしばらく行くと看板を発見。
右折すると、建て売り住宅地の中に小さな森がありまして、そこが目指す熊澤酒造でした。
 蔵のパンフによれば、今や
湘南に残った唯一の酒蔵

なんだそうです。
 今はビールも造っているようで、日本酒は年間500石の生産量なんだそうです。
 レストランと蔵元創作料理店を併設していました。
一度食べてみたいなあ・・・

おしゃれなレストランを併設していました。

鶴岡八幡宮
 新湘南バイパスの高架下を走りまして、国道1号線に合流。
 すぐに県道43号線に入って鎌倉をめざします。
県道はすぐに国道457号線にぶつかって藤沢駅横を通過。
県道32号線で鎌倉入りしました。
 江ノ電がこの近くなんですね〜
今度乗ってみたいな〜
 鎌倉は南を海、三方を山に囲まれた要害の地。
 訪れてみて、ここに幕府が開かれた理由がよく分かりました。
 鎌倉では鶴岡八幡宮の写真だけいただきまして、早々に出発しました(笑)

蓮の花

浦賀海岸
ペリーがやって来たところです。
 鎌倉からは国道134号線、県道27号線、再び国道134号線、県道212号線を経て久里浜港に到着しました。
 と、目の前でフェリーが出港していってしまいました・・・
 次のフェリーは1時間後。
のんびり港で待ちます。
 東京湾フェリーの向かいの岸壁は、かつて大分行きのフェリーが出ていたんですよね・・・
その名を
シャトル・ハイウェイライン
と言いまして、シャトルおおいた、シャトルよこすかの2隻体制で運航していたのですが・・・

久里浜港
かつてここから大分行きのフェリーが・・・

フェリーかなや入港
 まもなくフェリーが入港しました。
乗船はバイクからです。
 船は5分遅れで出港しました。
3連休初日とあって、車両甲板は満車状態でした。

神奈川県を見る

千葉県を見る
 のんびり40分の船旅を楽しんだ後、フェリーは千葉県金谷港に到着です。
 金谷港からは国道127号線を北上。
国道465号線に入ります。
国道410号線を走り始めましたが、未整備区間がわかりにくくて、ちょっと道に迷ってしまいます。
 ようやく465号線にリカバリーして、上総中野駅から国道を外れて大多喜城を目指しました。

金谷港

江戸時代末期の水道跡
 ようやく大多喜城に到着しました。

ではここで大多喜城の歴史なぞ・・・(笑)

 大多喜城は1521年に上総の豪族である真理谷信清が築いたとされています。
その頃の地名は「小田喜(おだき)」と呼ばれていたそうです。
 真理谷氏は安房の大名である里見義堯家臣正木時茂に城を奪われまして、
以後里見氏の城として正木氏が支配します。
 里見氏は豊臣秀吉の惣無事令に違反したとして上総の領地を取り上げられてしまい、
上総は徳川家康の領国となります。
 徳川家康は国境の城に重臣を置いて守りを固めます。
箕輪(高崎)には井伊直政(12万石)、館林には榊原康政(10万石)、小田原には大久保忠世(4万5千石)、
ここ大多喜には里見氏への押さえとして、本多忠勝が10万石で入ります。
 忠勝は大多喜城を改築し、3層4階の天守を持つ近世城郭とします。
 関ヶ原の合戦後、忠勝は伊勢桑名へ移封となります。
 大多喜へは忠勝の次男である忠朝が5万石で分家します。
 しかし忠朝大坂冬の陣で戦死
子供の政勝は2歳だったので、従兄弟の政朝が大多喜藩主となります。
 1617年に本多家は播磨竜野に移封となり、その後には阿部正次が2万石で入ります。
 1619年、大久保長安事件に連座(当主里見忠義の正室が大久保忠隣の娘)して里見氏が改易されたため、大多喜城はその戦略的価値が失われます
 阿部正次は大久保家改易後の小田原に移封されたために大多喜は天領となり、城は破却されたようです。

徳川家康関東移封直後の配置

解説板
 1623年、三代将軍家光の勘気を被った青山忠俊が2万石で岩槻から移りますが、
わずか2年で改易。またも大多喜は天領になります。
 1638年、岩槻藩主であった阿部正次の孫である正能が1万石で分家し、
大多喜城に入ります。
 1671年、正能は忍藩阿部家の跡を継ぐことになり、岩槻藩阿部家から阿部正春が1万6千石で分家して大多喜城に入ります。
 阿部正春は1702年に三河刈谷へ。代わりに稲垣重富が1万5千石で入りますが、
「城が狭い」
という事で、わずか21日で下野烏山に移封。
変わって相模玉縄から松平正久(長沢・大河内)が2万石で入り、
以後9代続いて明治維新を迎えています。
 最後の藩主であった松平正質(まさただ)は、老中格、若年寄、奏者番を歴任。
鳥羽伏見の戦いでも指揮をとりますが、結果は大敗
 戦後は戦犯として新政府から官位剥奪・所領没収の上、佐倉藩に幽閉されています。

空堀
 1671年に阿部正春が入城した際、幕府から
「大多喜城は城跡になっちゃってるから追々直していくんだよ」
って命令されていました。
 が、幕府隠密が作成したと言われる土芥寇讎記には
「幕府から大多喜城再建を命じられているのに、履行していない。塀もない状態だ。ましてや門や櫓なんかあるはずもない
と書かれるような状態であったようです。

城絵図

大多喜城天守
 1842年には天守も焼失し、その後には
「神殿」
と呼ばれる2階建ての建物が建てられていたようです。
 現在、1835年の図面を元に天守が外観復元されていますが、大多喜城には天守がなかったとする説もあり、評価の分かれるところです。
 内部は博物館になっていて、大多喜城模型などが展示されています。

本丸下御殿跡は学校になってました。

大多喜城下の図

飯岡灯台から太平洋を見る
 ほんとは御宿町も行きたかったのですが、時間がないので県道27号を北上。
茂原市で国道128号線に入ります。
 ここで遅い昼ご飯を食べまして、後は延々と退屈な128号線を走り続けます・・・・
あまりにも単調な道路。進まない車の列。
 ひたすら忍耐力を試されます(笑)
 途中で飯岡灯台に寄ってみますが、ここからだと屏風ヶ浦見えないんですね〜
どっから見ればいいのかなあ?

九十九里浜を望む
 ここは夕日スポットらしいですね〜
 夕日を待とうか迷ったんですが、銚子市街に移動します。

台地が続く風景

JR銚子駅
(駅舎は、旧海軍香取航空基地の
格納庫の建物だったそうです)
 さ〜って銚子駅までやって来ましたよ〜
 今回銚子駅にやって来た訳は、この駅の2・3番線ホームの奥にあるのです・・・・

銚子電鉄ホーム
 これです。
 「ぬれ煎餅」で有名な、銚子電気鉄道に乗車するためだったのです。

ねこが通り過ぎて行きました・・・

イオンラッピング電車
2000型2002編成
(伊予鉄道の前は、
京王電鉄で走っていたそうです)
 今回は伊予鉄道から銚子電鉄にやって来た、2000型に乗ってみます。
 銚子電鉄初の冷房電車なんだそうですが、冷房運転は制限されているそうです。

車内の様子

笠上黒生駅
 銚子電鉄はワンマン運用で、銚子駅での折り返しの間、運転士さんが乗客に切符販売を実施していました。
 発車時刻になりました。
運転士さんが車掌室から電車の扉を閉め、ホームを走って運転席に移動
 電車を発車させるという都会では考えられない離れ業?を演じていました。
 電車はごとごと動き出しましたが、走れば追いつけるかのようなスピードでの運転でした。
6キロ少しの間に10の駅があるので、駅間平均距離は600メートルしかないですからね(笑)
スピード出せないですよね。
 なんかほのぼのとした雰囲気で、かつて日本中にあった軽便鉄道って、こんな雰囲気だったのかなあ?とか考えてました。

外川駅にて
 銚子電鉄が一躍有名になったのは、2006年11月のことでした。
 運転資金の枯渇により、存続の危機にたたされた銚子電鉄。
 社員の1人がHP上にて、
「電車修理代を稼がなくちゃいけないんです」
と、副業で販売していた「ぬれ煎餅」の購入を呼びかけました。
 これに2ちゃんねるなどのネットが反応
 一気に10000件以上の注文が殺到し、生産工場がパンク。
一時ネット通販を中止することに。
銚子電鉄は、この売り上げ収益で廃止を免れました。

 今ではすっかり銚子名物として定着した
「ぬれ煎餅」
犬吠駅では実演販売も行われているそうです。

 銚子電鉄のぬれ煎餅には、地元ヤマサ醤油の専用たれが使われているそうです。
銚子は醤油の町ですからね。

終点外川駅
 10分ほどで、終点の外川(とがわ)駅に到着しました。
 折り返し銚子行きの電車の発車を待ちます。
 外川は漁師町でして、江戸時代に紀州から崎山さんという人が来て、港から街まで設計し、漁の技術を伝えたそうです。
 銚子の醤油も和歌山から伝えられたものですし、千葉と和歌山は黒潮で結ばれていたのですねえ。

外川駅に置かれていたデハ702型

外川の夕焼け
 外川駅で、きれいな夕焼けを見ました。
車窓

銚子駅にて
 銚子駅まで帰ってきました。駅の連絡橋からきれいな空を見ました。
 晩ご飯は駅前のお店で、いわしセットを食べました。なめろうがおいしかったです。

いわしの漬け丼となめろう

これが銚子電鉄のぬれ煎餅
 お土産はもちろん銚子電鉄のぬれ煎餅です。
 ちょっとでも会社経営が楽になるといいのですがね・・・


 この日は茨城県潮来市まで移動。
そこで泊まりました。
to be  continued・・・
2010.9.23作成
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