潮来の朝
 翌朝、目を覚ますとちょうど日の出でした。
 ホテルの朝ご飯を食べまして、7:00には宿を出ました。

昨日はビールで晩酌しました。

潮来駅の様子
 潮来からは国道51号線からすぐに国道355号線に入ります。
貨物列車と特急

潮来にあったコスモス畑
 上羽神社の辺りから国道を離れて、霞ヶ浦の湖岸道路をのんびりと走ってみました。
 結構釣り客が多かったです。
 湖岸は朝も早いので、どこかのんびりムードでした。
 工事箇所から国道に戻り、北上を続けます。
 国道354号との交差点を過ぎて石岡市へ。
 ここで国道6号線から県道7号線から県道52号線に入り、さらに北上します。

霞ヶ浦

セイコマオリジナル
グランディアコーヒー
 県道52号線で懐かしい看板発見!
「あ!セイコマだ!」
 北海道ローカルのコンビニ、セイコーマートのお店を発見しました。
 北海道航路のある大洗が近いせいか、茨城県を中心として、セイコーマートが出店しているようです。
 安くてお得なグランディアコーヒーでほっと一息つきます・・・
 再び県道52号線を北上。
 この県道は道沿いにずーっと栗の木が植わっていて、これからの季節はおいしそうでした。
 私は勝手に
「栗街道」

と命名しました(笑)
 道はやがて国道50号線と交差します。
 国道50号線を西に走って県道193号へ。

おお!懐かしい・・・

須藤本家
 小原神社に近いところに、目的地はありました。
「郷の誉」「山桜桃」
を造っている
「須藤本家」
です。

本の字が格好いい!

屋敷内にある大きな木
 この蔵は1100年頃の
平安時代に酒を造っていた

記録の残る、日本最古の蔵です。
 ご先祖様は武士だったそうですが、領地から獲れる米に付加価値を付けるため、酒造りも始めたようです。
 敷地内には大きな木がたくさんあって、まるで森のようでした。

門の奥に酒蔵が・・・

小原城とな?!
 須藤本家の近くに城跡発見!!
 小原城というそうですよ!
稲荷神社があって、その境内が本丸跡だそうです。
 土塁が一部現存しています。
本丸はほぼ正方形で、50メートル四方くらいでした。

白い砂の部分が本丸堀跡だそうで

本丸土塁が残ってました。
 解説板によると、1429年にこの辺りを支配した里見氏が、1502年に小原城を築いたそうです。(築城者は里見義俊だそうです)
 うーむ意外なところでお城を見つけてしまった・・・

本丸から北を見る

小原集落遠景
 須藤本家は田んぼと畑に森に囲まれた集落にありました。
いつまでもおいしいお酒を醸しつづけていただきたいモノです。

やって来ました。
 地図を見てみると、この近くに笠間城があるのを発見。
 そんなに距離もないので寄り道していくことにしました。
 県道193号から105号、国道355号線に入って少し行くと、もう笠間市街でした。
 市街の東北にある小高い山の上に、笠間城はありました。

空堀の跡

大手枡形の跡
左に折れています。
 麓からバイクで上がって行くと、駐車場がありました。
 笠間城大手門前にある千人溜まりの跡が、駐車場になっていました。
 千人溜まりとは、出撃前の武者達が整列などを行った場所です。
 二本松城にもありましたね。

大手門跡の碑

枡形内の石垣
 笠間城の歴史など・・・

 笠間城の歴史は古く、鎌倉時代に下野守護の宇都宮頼綱の甥、
笠間時朝が築城したと言われています。
 下って1590年の小田原の役の際、笠間綱家が本家に逆らって北条方に付きます。
本家の宇都宮家はこれを攻め滅ぼし、笠間城を支配します。
 会津若松にあった蒲生氏郷亡き後、蒲生家は宇都宮に転封となり、
笠間城には家老の蒲生郷成が入ります。
 郷成は笠間城を改修し、近世城郭へと生まれ変わります。
 蒲生氏は関ヶ原の後に会津若松に戻り、
笠間には徳川譜代の松井康重が3万石で入ります。
康重は1608年に丹波篠山へ移り、小笠原吉次が入りますが改易。
笠間は天領(幕府直轄地)となります。
 1612年に松平康長(戸田松平)が3万石、1616年に永井直勝が3万2千石、
1622年に浅野長重が5万3千石で入ります。
 この浅野長重は浅野長政の3男でしたが、1599年から徳川家に仕え、
翌年には徳川秀忠の小姓となっています。
 1601年には2万石を与えられ、1605年の秀忠の上洛にも供をしています。
1611年に父長政が死去。その隠居領であった常陸真壁藩を引き継ぎ5万石の大名になります。
 父や兄達(浅野幸長・長晟)は豊臣恩顧の大名でしたが、長重は徳川家の信頼厚く、
譜代並みの扱いを受けています。
 1614年の大坂夏の陣にも従軍。
豊臣方の先鋒と渡り合い、家臣30人、雑兵100人を討たれて敗走しますが、
首級60を上げて一矢報いています。
 この時に活躍したのが、家臣の大石良勝でした。
良勝はこの功により、浅野家永代家老となりました。
 ここまで読んで「ん?」と思った方はするどい!
 この浅野長重は、浅野内匠頭長矩の曾おじいさんでして、
大石良勝大石内蔵助良雄の曾おじいさんなんですねえ〜
 浅野家は次の長直の代(1645年)に播州赤穂に国替えとなり、
長友、長矩と継いで松の廊下事件を引き起こしてしまうのです・・・

 笠間では、浅野家の後も藩主は次々と入れ替わります。
井上家→松平(本庄)家→もう一回井上家ときて、1747年に牧野貞通が8万石で入り、以後牧野家で明治維新を迎えます。
 この牧野家は5代将軍綱吉の側用人であった成貞から続く家系です。

本丸への入口
 笠間城には道路が造られていて、城跡はかなり破壊されていました。
 それでも本丸は当時のままのようです。

本丸

本丸南側にある八幡台と呼ばれる土塁
 本丸南側には八幡台と呼ばれる土塁があって、この上には八幡櫓がありました。
 この八幡櫓は、市内にある真浄寺に移築されて現存しています。
(ちょっとお堂風に改築されているようです)

土塁上には八幡櫓がありました。

本丸と天守曲輪の間にある空堀
 本丸の奥には詰の丸とも言うべき天守曲輪がありました。
 この辺りには巨石がごろごろしています。

石段が続きます。

天守跡の石碑
 割と長い石段を登っていくと、石垣が見えてきました。

続く石段

天守台?の石垣
 関東の城には珍しい石垣です。
 造られたのは江戸時代初期とされています。
 その石垣の脇には最近のものらしい石段があって、その奥には神社が建てられていました。
 

岩が露出しています
 天守台らしい最高部の裏側には、たくさんの巨石が露出していました。

 中にはくさびの跡が残るものもありました。
 笠間城の石垣の石材は、現地調達されたもののようです。

くさびの跡が残る巨石

もう一度天守台石垣
 関東は土塁の城が多いので、笠間城は珍しいとされています。
 石材が現地で手に入ったのが大きいんでしょうねえ。

麓の眺め

大黒石
 城に向かう途中にも巨石がありました。
 鎌倉時代に左白山の僧兵が攻め込まれた際、敵に向かってこの岩を転がして難を逃れたとの言い伝えがのこる岩です。
 岩は山頂からここまで転がってきて止まったとされています。
 城の北西山麓には、平時の居館と家臣団の屋敷地がありました。
 市立美術館のあたりが居館跡で、その下に家臣団の屋敷地がありました。
 大石家の屋敷跡がありましたよ。

麓にあった大石家屋敷跡

笠間城
to be  continued・・・
2010.9.25作成
2010ツーレポトップへ
Home