 |

志布志市の前川 |
翌朝も元気に起床。
朝ご飯をいただいてすぐに出発です。
志布志の町は、実は
城下町
なんです。
外城制と言われた薩摩藩の出城があった場所なんですよ〜
前川を渡って右折すると、城跡らしいクランクがありました。
虎口の跡でしょうかね?
もう少し進みますと、石垣の塀が美しい武家屋敷地になります。 |

武家屋敷跡 |

平山氏庭園 |
城下には左の写真のような庭園も残されています。
自然の岩盤を利用し、志布志城を借景に取り込んだ美しい庭園です。
江戸時代中頃の作なんだそうです。 |

石塀 |

志布志城解説板 |
現在、志布志小学校になっているところが、
志布志城の館跡
(平時の居館)です。
小学校裏手が、志布志城の大手筋になります。
解説板が整備されていました。
駐車場はありません。
私はバイクなので、ちょっと道ばたにバイクを停めて歩き出しました。 |

案内図が整備されています。 |

こんな細い路地を進みます
(両側は民家) |
大手筋沿いには民家がありまして、軒先をかすめるように歩いていくので、気を遣います。 |

志布志城の標識
(白い棒がそうです) |

廃屋 |
やはり生活しにくいのか、一番奥の民家は廃屋になってました。
鹿児島でよく見かける
板壁の民家
でしたよ。
廃屋の横をずんずんと歩いていくと、登城口に到着しました。
切り通しと言われる細い通路でした。
ここが大手門跡になります。 |
 |

堀底が通路になっています。 |
志布志城は南九州型と言われる縄張りのお城で、深い空堀で区分けされた独立性の高い曲輪がたくさんある設計です。(群郭式とも言われる)
で、堀底は通路として利用されます。
堀底を進んできた敵兵は、前後左右の各曲輪から攻撃を受ける形になります。
さて、志布志城の歴史ですが、正確な築城年は分かっていません。
南北朝時代には存在していたようです。
当初、松尾城が築かれ、その後内城が築かれたようです。
歴代城主は、分かっているだけで、救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏があり、
守護大名島津氏久が本拠を置いたことも。
1577年(天正5年)には島津氏の直轄地となり、鎌田政近が地頭となって志布志に入ります。
元和の一国一城令で建物は破却されたようですが、城は温存されたようです。
以後、薩摩藩の外城(出城)として明治維新まで続きました。
志布志城の復元模型が、鹿児島市鹿児島城跡にある歴史資料センター黎明館に展示されていますので、興味のある方はこちらもぜひ。 |

本丸への通路 |
堀底をてくてくと歩いて本丸までやって来ました。 |

本丸下の段 |

解説板 |
本丸下の段の発掘調査では、鉄澱が出土したために工房があったのではないか?と言われています。
また、備前焼や中国・東南アジアの陶磁器も出土し、14〜16世紀の交易の広さも確認されています。 |

志布志城縄張 |

志布志港を見る
中央にさんふらわあがいます。
見えるかな?
|
「ボーっ」と汽笛が鳴ったので、木々の間から志布志港を見ると、
さんふらわあ
が接岸していました。
志布志湾は天然の良港で、帝国海軍もよく停泊地に利用していました。
志布志城は、海上交通を睨む要衝に建てられていました。 |

本丸上段への通路 |

本丸上段 |
本丸上段です。
本丸北側には土塁が築かれていました。
この方面は尾根続きであり、敵の攻撃がもっとも予想される方面なのです。
そのため、幾重にも堀を巡らせ土塁を築いて防御を固めていました。 |

本丸北側の土塁 |

土塁上には祠が |
土塁上の櫓台らしいところには祠がありました。
城の守り神だったのでしょうか?
また本丸には竹が生えていました。
矢の材料にするため、城にはよく竹が植えられていました。
これもそうなのでしょうか? |

竹の群生 |

本丸虎口 |
本丸への入口は食い違い虎口になっていました。
最初に右に折れ、次いで左に折れて本丸に到達するつくりになっています。 |

本丸虎口 |

本丸への登り |
本丸から再び堀底に降りてきました。
まだ時間はあるので、もう少し奥まで歩いて行くことにします。
|

堀底の通路
両側は曲輪です。
ここに侵入した敵は、
両側頭上から攻撃を受けます。 |

案内板発見 |
搦手口(裏口)への分岐点にきました。
志布志城は通路の交差点にコースマップが整備されているので、とても歩きやすいです。
搦手口への通路は深い切り通しでした。
これでは1人ずつしか通ることはできなかったでしょう。
|

こちらは搦手口 |

枝道の奥には曲輪が |
堀底の通路は時々分岐し、各曲輪へとつながっていきます。 |

堀底をひたすら歩きます |

曲輪への虎口 |
中野久尾と呼ばれている曲輪に入ってみました。
本丸北方に続く尾根を堀で分断し、作られた曲輪の一つです。
曲輪への入口は折れ曲がり虎口になっていました。 |

曲輪内から虎口を見る |

曲輪の様子 |
志布志城の各曲輪は手入れが行き届いており、草刈りもきちんとされています。
|

きれいに手入れされています。 |

大空堀 |
再び堀底に戻って城の南側に。
ここには大空堀と呼ばれている大きな空堀があります。
そこから曲輪を見上げると、ものすごい急斜面で首が痛くなります。
ここを攻め上るのは容易ではないでしょう・・・ |

曲輪へは急斜面 |

大空堀を進みます。 |
志布志城はシラス台地に堀を刻んで作られており、常に崩落の危険があります。
大雨の後は立ち入り禁止!
の看板がいくつも出ていました。 |

雨の後は危ないようです。 |

崖になってます |
各曲輪は急斜面・・・というより崖の上にあるので、登ろうか?なんて気には絶対なりません。 |

歩きます |

本丸南側にやって来ました。 |
本丸南側にやって来ました。
やはりここも切り立った崖でした。 |

先ほど祠のあった辺りを見上げる |

ロープを使って降りるルートもあります |
登城ルートの中には、ロープを使って上り下りするものもあります。
ものすごいなあ・・・
シラス台地を実感できる崖を発見。
ほんとに白いんですよね。
火山から吹き出た灰がひたすら積もってシラス台地は出来上がりました。 |

これがシラス台地です |

大手口に戻ってきました。 |
本丸の前面、海側には
「矢倉場」
と呼ばれる曲輪があります。
かつては物見台があったのでしょう。
で、城下の街道と、海を監視下に置いていたんだろうなあ〜と妄想してみました。 |

矢倉場に行ってみます。 |

発掘中でした。 |
矢倉場は発掘調査中のようです。
写真だけ撮って引き揚げてきました。
ちなみに志布志城には、今回見た内城の他に、松尾城や高城・新城(現在の志布志中学校付近)もあり、志布志の町を見下ろしています。
|

松尾城を臨む |

前川を外堀に、尾根を空堀で刻んだ志布志城の縄張り |

立派な洋館 |
志布志の町をちょっと観光。
志布志は現在も鹿児島県の主要港ですが、戦前は帝国海軍の停泊地でした。
港町として結構栄えたようですよ。
立派な洋館を見かけました。お医者さんです。
あと芋焼酎作ってる
若潮酒造さん
も見学です。
といっても外から見ただけですが(笑) |

若潮酒造 |

安楽城解説板 |
志布志郊外にある
安楽城
を見物にやって来ました。
安楽城は安楽川を外堀に、三方を湿田で囲まれた地に築かれています。
安楽城は、建久年間(鎌倉幕府が出来た頃)に、地頭であった安楽為成が築いたとされていますが、詳細は不明です。
その後、志布志(松尾城)の新納氏の出城となります。
1538年に島津忠朝が安楽城を攻略。
しかし1544年に肝付兼続が一時占拠。1566年には肝付氏の持ち城になります。
1576年に志布志一帯は島津氏の直轄領となり、鎌田政近が地頭になった頃に廃城になったようです。 |

安楽城縄張り |

スゴイ藪で・・・ |
たまにボランティアの人たちが草刈りをやってくれてるそうですが(syunさん情報)、この時はものすごい藪状態。
藪漕ぎするのもめんどくさいので、見ただけに終わりました・・・ |

見ただけに終わりました。 |

安楽川を外堀に、三方を湿田で囲まれた台地上に築かれた安楽城 |

コスモス畑 |
安楽城を出発して広域農道へ。
志陽のコスモス畑
にやって来ました。
ここは面積が広くって壮観です。
お城成分を薄める為、ツーリングらしい
「美しい景色と愛車」
の写真を撮ってみました。(笑)
ね、ほんとにバイクで行ってるでしょ? |

ツーリングらしい一コマ |

コスモスはきれいだ・・・ |
出来れば青空の下で写真撮りたかったんですけどね・・・ |

秋生まれの私にはなじみ深い花です。 |

松山城解説板 |
県道63号線を北上。
途中で広域農道を走りまして、志布志市松山町にやって来ました。
ここにはかつて松山城がありました。 |

松山城からの眺め |

松山城空堀 |
松山城は1188年に、平清盛の弟の孫である平重頼が築いたそうです。
その後、源氏の時代がやってきますが、重頼がどうなったか記録がありません。
南北朝から戦国時代にかけて、松山の地は島津氏や肝付氏の紛争地となり、松山城は何度も城主が変わっているようです。
最終的には島津氏の直轄地となり、地頭が治めたようです。
松山城には本丸・二の丸をはじめとして、五兵衛城、八幡城の4つの曲輪があったようですが、現在は二の丸と空堀を残すのみです。 |

神州不滅の碑
解説板 |
さて時代は下って昭和20年。
アメリカ軍の攻勢は激しく、沖縄はすでに陥落し、いよいよ本土上陸か?という時代。
志布志湾は米軍上陸予想地点でした。
これに対抗するため、第86師団が陣地を築きます。
しかし8月15日の敗戦。
師団長はここで軍旗を奉焼し、日本不滅を念願してこの碑を建てたそうです。 |

松山城二の丸にある
神州不滅の碑 |

二の丸北側にある出丸跡 |
二の丸北側には出丸らしい跡と、堀底に向かう虎口が残っていました。 |

出丸から堀底に向かう虎口 |

三方を川で囲まれた台地の上に築かれた松山城 |

出丸からみた城山公園 |
二の丸以外は、城山公園として運動公園になっていて、城跡は消滅してしまっています。
城山公園では、翌日のお祭りを控えて準備の真っ最中でした。
ここ松山では
「やっちく松山藩秋の陣祭り」
が、毎年11月に行われておりまして、
武者行列なんかが出て、団子や甘酒の無料サービスがあるらしいですよ。
ちなみに「やっちく」というのは旧松山町のキャッチフレーズで、
「野菜と畜産」
という意味らしいです。 |

武者のぼり |
5月に柳川に出かけた時にもご紹介しました武者のぼりです。
九州では5月の節句に鯉のぼりではなく、武者のぼりを揚げるお家が多いようです。
のぼりには武者絵とお家の家紋、男の子の名前が入ってまして、
子供の成長を祈願するようです。
やっぱり男の子は強くないとね・・・
立ててる途中でしたが、のぼりもたくさん並ぶと壮観です。
関ヶ原の合戦とかではたくさん並んでさぞや壮観だったでしょうねえ・・・ |

弥五郎豚 |
お腹空いてきたので、
道の駅「おおすみ弥五郎伝説の里」
(名前長すぎ)
でお昼ご飯です。
地元名物弥五郎豚のとんかつをいただきましたが、
串木野で食べたとんかつには及びませんでした・・・残念。
|

鶏飯喰う人「お鶏飯」(笑) |
その後、垂水からフェリーで鴨池に。
産業道路、国道226号線とつないで指宿へ。
毎年恒例の砂湯に入ります。
生き返ったところで鹿児島市内へ。
喜入辺りから雨になりますが、カッパ着るほどにはなりませんでした。
産業道路沿いにある「奄美の里」で、鶏飯をいただきました。
何回食べてもうまいよなあ〜
来年もぜひ奄美で食べたいものです。 |
 |
to be continued・・・ |
|
2011.1.1作成 |
2010ツーレポトップへ |
Home |