龍野城跡
(鶏龍山城跡)
 あまりの暑さに、途中で引き揚げた8月のツーリング。(笑)
 すっかり気候もよくなったことだし、リベンジに出発しました。
この日はとってもいいお天気。ぽかぽか陽気でした。
 太子バイパスを途中でおりて国道179号線(出雲街道)に入ります。
この日は流れもよく、すぐに揖保川を越えることが出来ました。
 橋の上からは龍野城のあった鶏龍山がよく見えました。
 播磨新宮の三叉路を左に折れ、出雲街道を北上します。

やって来ました三日月陣屋
物見櫓と大手門
(復元)
 途中、三日月というところで、
「三日月陣屋→」
という看板を発見。
 急ぐ旅でもなし、寄って行くことにします。
 三日月陣屋は、三日月藩1万5千石の政庁として築かれました。
 三日月藩主は森家で、9代174年この地を治めて明治維新を迎えました。
 森家といえば、森蘭丸森可成(鬼武蔵)で有名ですね。
 蘭丸や可成の末弟であった森忠政は、関ヶ原の合戦後に美作に18万6千石を与えられて津山城を築きます。
 忠政の男子はすべて若死にしたため、外孫だった関長継(重臣関成次に嫁いでいた忠政の娘の子)が養子となって跡を継ぎます。
 長継の嫡男忠継も早死に。
残った孫の長成はまだ小さかったので、長継は五男の長武に家督を譲って隠居します。
 長武さんは中継ぎだったので、長成の成長を待って家督を譲ります。
ところが長成も27歳で跡継ぎを残さずに死去。
 存命であった長継は幕府に掛け合い、
家臣の養子となっていた九男の衆利を藩主に指名します。
 代替わりの将軍拝謁のため、衆利は江戸へと向かいます。
(大名の代替わりは将軍の許可があって初めて有効でした)
 が、途中の伊勢にて、酒に酔った勢いで幕府を批判してしまいます。
家臣は「酒の上のことで・・・」と弁明しますが、
桑名藩から詳細な報告が幕府に届き、ジ・エンド。
 衆利は発狂したとされてしまい、
津山藩森家は改易(領地取り上げ)
されてしまいます。
1697年(元禄10年)のことでした。

この谷間に御殿などが建てられていました。
 この時点で、森家には三つの分家がありました。
隠居領2万石を与えられて存命していた長継
美作宮川で分家していた関長政(長継の弟)1万8千石。
森長継の五男で1万5千石で分家していた長俊
 
 長継は、森家の名跡を再び継ぐことになり、
備中西江原(岡山県井原市)に領地を移されます。
2代目の長直(長継八男)の時に赤穂に転封され、以後森本家として明治維新まで続きます。
 関長政備中新見(岡山県新見市)に移され、以後明治維新まで続きます。
 長俊はここ三日月の地に移されて三日月藩となったと、こういう訳です。

大手門と通用門
 三日月陣屋は、1700年には完成していたようです。
 物見櫓が出来たのはもう少し遅く、1700年代後半だと言われています。
(初出が1791年の文書)
 

物見櫓

物見櫓の柱には、
墨書が残っていたそうです。
 物見櫓といかめしい名前がついてはいますが、そこは太平の時代の建物。
 内部は畳敷きで、床の間も設けられていました。
 堀端で行われた武芸大会を、藩主がここから見物したという記録も残っているそうですよ。
 三日月陣屋廃城後、物見櫓・長屋は小学校、次いで公民館として移築されていましたが、無事に元の場所に戻ってきています。
 物見櫓の木材には、1845年の墨書が残っていたそうです。
 竜野城下にあった「山や」が、改築工事を請け負った記録だそうです。

物見櫓内部

三日月城下絵図
 長屋内には三日月城下絵図や、発掘された森家の家紋入りの瓦が展示されていました。
森家の家紋は鶴でした。
(JALではないよ)

陣屋前から城下を見る
 かつて武家屋敷が建ち並んでいた陣屋前も、すっかり畑になってしまっていました。
 しかし、ところどころに武家屋敷を偲ばせる石垣や塀が残っています。
 陣屋の西隣には、明治維新の時に江戸藩邸から移された烈祖神社がありました。
 森家の先祖をお祭りした神社です。

烈祖神社

この土塀がなんとも・・・
 参道の土塀は崩れ始めており、なんともいえない風情がありました。
 梅雨の時期に来るといいかもしれません。
 本殿はあっさりした造りで、ちょっとびっくりしてしまいました。

本殿

旧藩校の建物が移築されていました。

県社八幡神社の碑
戦前に建てられたものですね。
 烈祖神社の西隣にも神社がありました。
 こちらは日岡八幡神社で、戦前は県社だったようですね。
(日前宮訪問記参照)
 平安時代に建立され、鎌倉・室町時代には多くの社領を持ち、栄えていたようです。
 赤松円心はじめ、播磨守護赤松氏の手厚い保護があったようです。
 江戸時代には森家も手厚く保護したと伝わっています。

鳥居

歴史を感じる石段
 こちらも参道の石段と土塀がいい風情を醸していました。
いい風情です。

拝殿
 祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后なんだそうですよ。

三方里山遠景
 三日月陣屋の南には、三方里山という山があります。
 山頂は地ならしして平にされ、演武場として使用されていました。
 が、どうも非常時には陣屋を捨ててここに立てこもる計画だったようで、石垣などが残っています。

石垣

左折れの虎口跡?
 現在は公園になっていてのどかなムードですが、よく見ると山頂の淵が盛り上がっていて、
土塁の跡か?
 と妄想をたくましくしてみました(笑)
 山頂からは出雲街道を眼下に見ることが出来、重要な拠点であったことがわかります。

山頂からの景色
街道が一望できます。

川を外堀に、三方里山を要害にした縄張りがよく分かります。
to be continued・・・
2010.12.12作成
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